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[[1943年]]([[民国紀元|民国]]32年)2月、文元模は[[華北政務委員会]]教育総署署長に任ぜられる。5月、いったん辞任したが、[[1945年]](民国34年)2月、同委員会の常務委員兼教育総署督弁に昇格した。3月、汪兆銘政権の新国民運動促進委員会委員に任ぜられている。
[[1943年]]([[民国紀元|民国]]32年)2月、文元模は[[華北政務委員会]]教育総署署長に任ぜられる。5月、いったん辞任したが、[[1945年]](民国34年)2月、同委員会の常務委員兼教育総署督弁に昇格した。3月、汪兆銘政権の新国民運動促進委員会委員に任ぜられている。


日本敗北、汪兆銘政権崩壊後の12月5日、文元模は[[漢奸]]として[[介石]]の[[国民政府]]に北平で逮捕された<ref>余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』1614頁。</ref>。しかし[[脳溢血]]を患ったため、一時釈放を受ける<ref name=asahi>「[[王蔭泰]]に死刑宣告」『[[朝日新聞]]』(東京)1946年10月10日、2面。この記事の末尾に文元模死去につき記載されている。</ref>。
日本敗北、汪兆銘政権崩壊後の12月5日、文元模は[[漢奸]]として[[介石]]の[[国民政府]]に北平で逮捕された<ref>余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』1614頁。</ref>。しかし[[脳溢血]]を患ったため、一時釈放を受ける<ref name=asahi>「[[王蔭泰]]に死刑宣告」『[[朝日新聞]]』(東京)1946年10月10日、2面。この記事の末尾に文元模死去につき記載されている。</ref>。


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2020年9月15日 (火) 14:15時点における版

文元模
プロフィール
出生: 1890年光緒16年)
死去: 1946年民国35年)10月8日
中華民国の旗 中華民国
出身地: 清の旗 貴州省貴陽府
職業: 政治家・物理学者
各種表記
繁体字 文元模
簡体字 文元模
拼音 Wén Yuánmó
ラテン字 Wen Yüan-mo
和名表記: ぶん げんも
発音転記: ウェン ユェンモー
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文 元模(ぶん げんも)は中華民国の物理学者・政治家。南京国民政府(汪兆銘政権)に参加した。範邨範臣

事跡

日本に留学して、東京帝国大学で学ぶ。理学士の称号を取得するとドイツに渡り、ベルリン大学で学業を継続した。

帰国後は、国立北京医科大学数学講師、東方文化事業委員会委員、国立中央大学理学院物理系副教授、国立北平師範大学物理学系主任兼教授、国立北京大学物理学系教授などを歴任する。日中戦争(抗日戦争)勃発後も華北にとどまり、北京大学理学院院長兼物理学系主任教授、中央気象台台長、東亜文化協議会理工学部部長、中華教育総会委員をつとめた。

1943年民国32年)2月、文元模は華北政務委員会教育総署署長に任ぜられる。5月、いったん辞任したが、1945年(民国34年)2月、同委員会の常務委員兼教育総署督弁に昇格した。3月、汪兆銘政権の新国民運動促進委員会委員に任ぜられている。

日本敗北、汪兆銘政権崩壊後の12月5日、文元模は漢奸として蔣介石国民政府に北平で逮捕された[1]。しかし脳溢血を患ったため、一時釈放を受ける[2]

1946年(民国35年)10月8日に死去[2]。享年57。

  1. ^ 余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』1614頁。
  2. ^ a b 王蔭泰に死刑宣告」『朝日新聞』(東京)1946年10月10日、2面。この記事の末尾に文元模死去につき記載されている。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』上海人民出版社、2006年。ISBN 7-208-06486-5 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
王克敏
華北政務委員会
教育総署督弁
1945年2月 - 8月
次代
(廃止)