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上海南洋大学電気科を卒業後、[[1922年]](民国11年)に[[中国国民党]]に加入する<ref>繆斌の職歴(職名及び時期)については史料により異同が大きい。本記事は主に鄭同上によるが、必要に応じ他の史料により注で補う。</ref>。翌年に[[黄埔軍官学校]]が開校すると、同校教授部の電訊・政治教官として招聘された。[[1925年]]([[民国紀元|民国]]14年)2月、軍校教導第1団党代表に任ぜられ、第1次東征に参加している。同年4月、軍校内右派の[[孫文主義学会]]で発起人の1人となった。10月、国民革命軍第1軍第2師党代表に任ぜられ、第2次東征に従軍した。
上海南洋大学電気科を卒業後、[[1922年]](民国11年)に[[中国国民党]]に加入する<ref>繆斌の職歴(職名及び時期)については史料により異同が大きい。本記事は主に鄭同上によるが、必要に応じ他の史料により注で補う。</ref>。翌年に[[黄埔軍官学校]]が開校すると、同校教授部の電訊・政治教官として招聘された。[[1925年]]([[民国紀元|民国]]14年)2月、軍校教導第1団党代表に任ぜられ、第1次東征に参加している。同年4月、軍校内右派の[[孫文主義学会]]で発起人の1人となった。10月、国民革命軍第1軍第2師党代表に任ぜられ、第2次東征に従軍した。


[[1926年]](民国15年)1月、中国国民党第2期候補中央執行委員に選出された(以後、第3期、第4期でも同様)。同年7月、[[介石]]が[[北伐 (中国国民党)|北伐]]開始を宣誓すると、繆斌は総予備隊政治部主任・第1軍副党代表・東路軍総指揮部政治部主任・軍需処処長の要職を兼任することになっている。翌年4月、国民革命軍総司令部軍需局中将局長に昇進し、10月には国民政府軍事委員会経理処処長に任ぜられた。
[[1926年]](民国15年)1月、中国国民党第2期候補中央執行委員に選出された(以後、第3期、第4期でも同様)。同年7月、[[介石]]が[[北伐 (中国国民党)|北伐]]開始を宣誓すると、繆斌は総予備隊政治部主任・第1軍副党代表・東路軍総指揮部政治部主任・軍需処処長の要職を兼任することになっている。翌年4月、国民革命軍総司令部軍需局中将局長に昇進し、10月には国民政府軍事委員会経理処処長に任ぜられた。


[[1928年]](民国17年)1月、国民革命軍総司令部経理処処長にも任ぜられる。3月、[[江蘇省 (中華民国)|江蘇省]]政府委員に任ぜられ、11月には同省政府民政庁庁長も兼ねた<ref>劉寿林ほか『民国職官年表』と徐同上による。鄭同上は、2月に江蘇省政府委員兼民政庁庁長に任ぜられた、としている。</ref>。8月には、国民党5中全会で中央執行委員に補充選出されている。このほか同年には、国民党党務委員会委員、中央民衆訓練委員会常務委員、軍事委員会海陸軍法規編纂委員会特別委員にも任ぜられた。同時期、国民政府[[中華民国立法院|立法院]]立法委員に任命された。
[[1928年]](民国17年)1月、国民革命軍総司令部経理処処長にも任ぜられる。3月、[[江蘇省 (中華民国)|江蘇省]]政府委員に任ぜられ、11月には同省政府民政庁庁長も兼ねた<ref>劉寿林ほか『民国職官年表』と徐同上による。鄭同上は、2月に江蘇省政府委員兼民政庁庁長に任ぜられた、としている。</ref>。8月には、国民党5中全会で中央執行委員に補充選出されている。このほか同年には、国民党党務委員会委員、中央民衆訓練委員会常務委員、軍事委員会海陸軍法規編纂委員会特別委員にも任ぜられた。同時期、国民政府[[中華民国立法院|立法院]]立法委員に任命された。


しかし[[1931年]](民国20年)、汚職事件により弾劾され、各職を辞任して日本に赴いている。ただしこの辞任については、日ごろから私淑していた[[胡漢民]]が[[介石]]により監禁されたことに反発してのもの、との説もある<ref>前者は鄭同上、後者は『最新支那要人伝』による。</ref>。帰国後の[[1933年]](民国22年)に『武徳論』という書物を著し、武力こそが道徳であり、軍人は服従こそが天職である、との主張を唱えた。
しかし[[1931年]](民国20年)、汚職事件により弾劾され、各職を辞任して日本に赴いている。ただしこの辞任については、日ごろから私淑していた[[胡漢民]]が[[介石]]により監禁されたことに反発してのもの、との説もある<ref>前者は鄭同上、後者は『最新支那要人伝』による。</ref>。帰国後の[[1933年]](民国22年)に『武徳論』という書物を著し、武力こそが道徳であり、軍人は服従こそが天職である、との主張を唱えた。


=== 親日政権への参加 ===
=== 親日政権への参加 ===
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{{See also|繆斌工作}}
{{See also|繆斌工作}}
一方で繆斌は、[[1943年]](民国32年)8月から、[[介石]]の重慶国民政府の[[中華民国国防部軍事情報局|軍統]]や[[何応欽]]と連絡を取り始めている。[[1945年]](民国34年)3月、繆は重慶国民政府の密命を受けて訪日し、日本の[[傀儡政権]]であった[[南京政府]]の解消と交換に日本軍の中国撤退・[[満州国]]の認知などを条件とする日中の単独和平交渉を[[小磯内閣|小磯國昭内閣]]に提案した。すでに対英米戦線で敗色濃厚に陥り、連日の激しい本土空襲に苦しんでいた日本にすれば、繆斌の示した条件はかなりよいものであった。また対英米戦に突入した原因が中国問題であったことからして、対中国和平([[繆斌工作]])はこの戦争突入の原因そのものを解消できるということを意味していた<ref>繆斌工作の内容については、伊藤隆・渡邊行男編『重光葵手記』、449-476頁などに詳しい。</ref>。
一方で繆斌は、[[1943年]](民国32年)8月から、[[介石]]の重慶国民政府の[[中華民国国防部軍事情報局|軍統]]や[[何応欽]]と連絡を取り始めている。[[1945年]](民国34年)3月、繆は重慶国民政府の密命を受けて訪日し、日本の[[傀儡政権]]であった[[南京政府]]の解消と交換に日本軍の中国撤退・[[満州国]]の認知などを条件とする日中の単独和平交渉を[[小磯内閣|小磯國昭内閣]]に提案した。すでに対英米戦線で敗色濃厚に陥り、連日の激しい本土空襲に苦しんでいた日本にすれば、繆斌の示した条件はかなりよいものであった。また対英米戦に突入した原因が中国問題であったことからして、対中国和平([[繆斌工作]])はこの戦争突入の原因そのものを解消できるということを意味していた<ref>繆斌工作の内容については、伊藤隆・渡邊行男編『重光葵手記』、449-476頁などに詳しい。</ref>。


この交渉を主導したのは[[小磯國昭]]首相や国務大臣・[[情報局]]総裁[[緒方竹虎]]らであり、天皇に近い[[東久邇宮稔彦]]もこの和平工作に賛成・期待していた。3月21日、小磯は繆斌を[[最高戦争指導会議]]に招致することを閣僚に提案し、当初はこの和平工作に陸海軍首脳も賛成の意向であった。
この交渉を主導したのは[[小磯國昭]]首相や国務大臣・[[情報局]]総裁[[緒方竹虎]]らであり、天皇に近い[[東久邇宮稔彦]]もこの和平工作に賛成・期待していた。3月21日、小磯は繆斌を[[最高戦争指導会議]]に招致することを閣僚に提案し、当初はこの和平工作に陸海軍首脳も賛成の意向であった。


しかし外務大臣[[重光葵]]が猛反対する。重光は、非正規の外交ルートによる外交交渉に反対という原則論に加え、和平工作そのものにも激しい批判を加えた。重光によれば、繆は「いかがわしい和平ブローカー」にすぎず、日本の機密情報を手土産に介石に帰参しようと考えているだけで、介石には繋がっていないとし、それを証明する情報を陸海軍首脳に提示した。この重光の反対を受けて、[[杉山元]]陸相と[[米内光政]]海相も見解を変更し、繆を通じての和平工作に反対した<ref>同上、464-467頁。</ref>。小磯はあくまで交渉の続行にこだわり、4月2日に[[昭和天皇]]に繆を引き留めることを進言した<ref>同上、471頁。</ref>。しかしこれがかえって天皇の不興と不信を買うことになる。4月3日、天皇は繆斌の帰国を小磯に指示、この工作の失敗を受けて、小磯は内閣を総辞職するにいたった。
しかし外務大臣[[重光葵]]が猛反対する。重光は、非正規の外交ルートによる外交交渉に反対という原則論に加え、和平工作そのものにも激しい批判を加えた。重光によれば、繆は「いかがわしい和平ブローカー」にすぎず、日本の機密情報を手土産に介石に帰参しようと考えているだけで、介石には繋がっていないとし、それを証明する情報を陸海軍首脳に提示した。この重光の反対を受けて、[[杉山元]]陸相と[[米内光政]]海相も見解を変更し、繆を通じての和平工作に反対した<ref>同上、464-467頁。</ref>。小磯はあくまで交渉の続行にこだわり、4月2日に[[昭和天皇]]に繆を引き留めることを進言した<ref>同上、471頁。</ref>。しかしこれがかえって天皇の不興と不信を買うことになる。4月3日、天皇は繆斌の帰国を小磯に指示、この工作の失敗を受けて、小磯は内閣を総辞職するにいたった。


繆が果たして介石の密命を本当に帯びていたのかについては今日に至るまでさまざまな議論があり、たとえば彼が「私が東京に滞在中は、東京空襲はおこなわれないはずでしょう」という奇妙な発言を日本滞在中にしていたことを[[戸川猪佐武]]らが指摘している。事実、彼の滞在期間は東京空襲はおこなわれなかった。また戦後[[南部圭助]]([[頭山満]]の腹心)は、介石に繆斌工作が自身の指示で行なわれたことを直接確認したとしており<ref>彌吉、47頁。</ref>、繆斌の長男である繆中も同工作が正式な和平工作であったことを証言している<ref>彌吉同上。</ref>。これらのことからこの和平工作は、日本が[[第二次世界大戦|第二次大戦]]の戦時下の中でおこなったもっとも現実的可能性のある工作だったともいえよう。ただし実態はどうあれ、上記の結果からすれば、繆斌の身分・権限について繆斌本人や小磯・緒方は、昭和天皇や重光ら反対派を説得するだけのものを提示し得なかったということもいえる。
繆が果たして介石の密命を本当に帯びていたのかについては今日に至るまでさまざまな議論があり、たとえば彼が「私が東京に滞在中は、東京空襲はおこなわれないはずでしょう」という奇妙な発言を日本滞在中にしていたことを[[戸川猪佐武]]らが指摘している。事実、彼の滞在期間は東京空襲はおこなわれなかった。また戦後[[南部圭助]]([[頭山満]]の腹心)は、介石に繆斌工作が自身の指示で行なわれたことを直接確認したとしており<ref>彌吉、47頁。</ref>、繆斌の長男である繆中も同工作が正式な和平工作であったことを証言している<ref>彌吉同上。</ref>。これらのことからこの和平工作は、日本が[[第二次世界大戦|第二次大戦]]の戦時下の中でおこなったもっとも現実的可能性のある工作だったともいえよう。ただし実態はどうあれ、上記の結果からすれば、繆斌の身分・権限について繆斌本人や小磯・緒方は、昭和天皇や重光ら反対派を説得するだけのものを提示し得なかったということもいえる。


=== 突然の処刑 ===
=== 突然の処刑 ===
日本敗北直後の[[1945年]](民国34年)9月27日、[[上海]]で繆斌は軍統に逮捕されてしまう<ref>余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』1613頁、鄭「繆斌小伝」による。なお劉傑『漢奸裁判』、250頁は、[[1946年]](民国35年)4月2日逮捕としている。また彌吉同上によれば、繆中の証言として、繆斌は1946年の[[春節]](塩田前掲表によれば、2月1日)に一度は介石に褒賞されたが、同年3月17日の[[戴笠]](軍統指導者)事故死直後に逮捕されたとしている(塩田前掲年表によれば、3月22日逮捕)。</ref>。繆は獄中で「私の対日工作(原題「我的対日工作」)」を執筆し、弁明を試みている。しかし翌[[1946年]](民国35年)4月3日より、江蘇高等法院で審理が開始され、わずか5日後の8日には早くも敵国通謀の罪(いわゆる「[[漢奸]]」の罪)で死刑が言い渡されてしまった。
日本敗北直後の[[1945年]](民国34年)9月27日、[[上海]]で繆斌は軍統に逮捕されてしまう<ref>余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』1613頁、鄭「繆斌小伝」による。なお劉傑『漢奸裁判』、250頁は、[[1946年]](民国35年)4月2日逮捕としている。また彌吉同上によれば、繆中の証言として、繆斌は1946年の[[春節]](塩田前掲表によれば、2月1日)に一度は介石に褒賞されたが、同年3月17日の[[戴笠]](軍統指導者)事故死直後に逮捕されたとしている(塩田前掲年表によれば、3月22日逮捕)。</ref>。繆は獄中で「私の対日工作(原題「我的対日工作」)」を執筆し、弁明を試みている。しかし翌[[1946年]](民国35年)4月3日より、江蘇高等法院で審理が開始され、わずか5日後の8日には早くも敵国通謀の罪(いわゆる「[[漢奸]]」の罪)で死刑が言い渡されてしまった。


繆斌は控訴を試みるもならず、同年5月21日に[[蘇州市|蘇州]]獅子口第3監獄で銃殺刑に処せられた。享年48。繆の処刑は、[[陳公博]]のそれ(同年6月3日)よりも早い。繆は蘇州郊外に埋葬されたが、[[文化大革命]]で墓所が破壊され、遺骨の所在は不明となっているという<ref>横山、210頁。彌吉、51頁。</ref>。
繆斌は控訴を試みるもならず、同年5月21日に[[蘇州市|蘇州]]獅子口第3監獄で銃殺刑に処せられた。享年48。繆の処刑は、[[陳公博]]のそれ(同年6月3日)よりも早い。繆は蘇州郊外に埋葬されたが、[[文化大革命]]で墓所が破壊され、遺骨の所在は不明となっているという<ref>横山、210頁。彌吉、51頁。</ref>。


繆斌の死刑判決に至るまでの審理とその死刑執行は余りにも素早かった。そのため、介石には繆を「[[漢奸]]」として処断する以外にも、別の意図があったと推察する見方がある。たとえば[[劉傑]]と鄭仁佳は、[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]において繆が和平工作の証人として呼ばれる動きを事前に察知した、による口封じの可能性を指摘している。和平工作が公になれば、[[カイロ宣言|カイロ会談]]でが徹底した対日抗戦を主張しながら、その裏で日本との和平を目論んだことが露見するためである。つまり介石のこの慌てた処刑処置こそが、繆を通じての和平工作が介石の真意だったということを証明しているということになる<ref>劉傑『漢奸裁判』249-250頁。鄭「繆斌小伝」。</ref>。
繆斌の死刑判決に至るまでの審理とその死刑執行は余りにも素早かった。そのため、介石には繆を「[[漢奸]]」として処断する以外にも、別の意図があったと推察する見方がある。たとえば[[劉傑]]と鄭仁佳は、[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]において繆が和平工作の証人として呼ばれる動きを事前に察知した、による口封じの可能性を指摘している。和平工作が公になれば、[[カイロ宣言|カイロ会談]]でが徹底した対日抗戦を主張しながら、その裏で日本との和平を目論んだことが露見するためである。つまり介石のこの慌てた処刑処置こそが、繆を通じての和平工作が介石の真意だったということを証明しているということになる<ref>劉傑『漢奸裁判』249-250頁。鄭「繆斌小伝」。</ref>。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2020年9月15日 (火) 13:58時点における版

繆斌
Who's Who in China 4th ed. (1931)
プロフィール
出生: 1899年光緒25年)[1]
死去: 1946年民国35年)5月21日
中華民国の旗 中華民国江蘇省蘇州市
出身地: 清の旗 江蘇省常州府無錫県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 繆斌
簡体字 缪斌
拼音 Miào Bīn
ラテン字 Miao Pin
和名表記: ぼく ひん/みょう ひん/びゅう ひん
発音転記: ミャオ ビン
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繆 斌(ぼく ひん/みょう ひん/びゅう ひん)は、中華民国の政治家。中国国民党の党人政治家で、後に南京国民政府に属した。本来は、日本において「繆」姓の人物は「ぼく」と読むのが正しい。しかし現在は、繆斌についてだけは「みょう ひん」と読み慣わす場合が多い[2]。なお戦前には「びゅう ひん」[3] とも読まれたこともある。弼丞。号は丕成

生涯

国民党のエリート

上海南洋大学電気科を卒業後、1922年(民国11年)に中国国民党に加入する[4]。翌年に黄埔軍官学校が開校すると、同校教授部の電訊・政治教官として招聘された。1925年民国14年)2月、軍校教導第1団党代表に任ぜられ、第1次東征に参加している。同年4月、軍校内右派の孫文主義学会で発起人の1人となった。10月、国民革命軍第1軍第2師党代表に任ぜられ、第2次東征に従軍した。

1926年(民国15年)1月、中国国民党第2期候補中央執行委員に選出された(以後、第3期、第4期でも同様)。同年7月、蔣介石北伐開始を宣誓すると、繆斌は総予備隊政治部主任・第1軍副党代表・東路軍総指揮部政治部主任・軍需処処長の要職を兼任することになっている。翌年4月、国民革命軍総司令部軍需局中将局長に昇進し、10月には国民政府軍事委員会経理処処長に任ぜられた。

1928年(民国17年)1月、国民革命軍総司令部経理処処長にも任ぜられる。3月、江蘇省政府委員に任ぜられ、11月には同省政府民政庁庁長も兼ねた[5]。8月には、国民党5中全会で中央執行委員に補充選出されている。このほか同年には、国民党党務委員会委員、中央民衆訓練委員会常務委員、軍事委員会海陸軍法規編纂委員会特別委員にも任ぜられた。同時期、国民政府立法院立法委員に任命された。

しかし1931年(民国20年)、汚職事件により弾劾され、各職を辞任して日本に赴いている。ただしこの辞任については、日ごろから私淑していた胡漢民蔣介石により監禁されたことに反発してのもの、との説もある[6]。帰国後の1933年(民国22年)に『武徳論』という書物を著し、武力こそが道徳であり、軍人は服従こそが天職である、との主張を唱えた。

親日政権への参加

日中戦争勃発後の1937年(民国26年)12月、繆斌は、北平(北京)に成立した親日政権の中華民国臨時政府に参加した。新民会中央指揮部部長に就任し、会長の王克敏を補佐している。この頃、石原莞爾と親交を結び、「東亜連盟運動」を推進している。

1940年(民国29年)3月、汪兆銘(汪精衛)が南京国民政府を樹立すると、繆は中央政治委員会聘請委員(第2期・第3期では延請委員と改称)に任命された。6月に憲政実施委員会常務委員、7月に中日文化協会名誉理事・中国教育建設教会名誉理事長となる。8月に新民会副会長(会長は王揖唐)になった。9月、華北政務委員会委員に任命され、12月には(汪派)中国国民党中央執行委員に選出されている。

1941年(民国30年)2月に東亜聯盟中国総会の常務理事となり、さらに立法院副院長と軍事委員会委員にも任命された。翌年8月に考試院副院長と要職を歴任した。1943年(民国32年)4月、第4期中央政治委員会で指定委員に選出されている(第5期も同様)。

繆斌工作

繆斌 (1940年前後)

一方で繆斌は、1943年(民国32年)8月から、蔣介石の重慶国民政府の軍統何応欽と連絡を取り始めている。1945年(民国34年)3月、繆は重慶国民政府の密命を受けて訪日し、日本の傀儡政権であった南京政府の解消と交換に日本軍の中国撤退・満州国の認知などを条件とする日中の単独和平交渉を小磯國昭内閣に提案した。すでに対英米戦線で敗色濃厚に陥り、連日の激しい本土空襲に苦しんでいた日本にすれば、繆斌の示した条件はかなりよいものであった。また対英米戦に突入した原因が中国問題であったことからして、対中国和平(繆斌工作)はこの戦争突入の原因そのものを解消できるということを意味していた[7]

この交渉を主導したのは小磯國昭首相や国務大臣・情報局総裁緒方竹虎らであり、天皇に近い東久邇宮稔彦もこの和平工作に賛成・期待していた。3月21日、小磯は繆斌を最高戦争指導会議に招致することを閣僚に提案し、当初はこの和平工作に陸海軍首脳も賛成の意向であった。

しかし外務大臣重光葵が猛反対する。重光は、非正規の外交ルートによる外交交渉に反対という原則論に加え、和平工作そのものにも激しい批判を加えた。重光によれば、繆は「いかがわしい和平ブローカー」にすぎず、日本の機密情報を手土産に蔣介石に帰参しようと考えているだけで、蔣介石には繋がっていないとし、それを証明する情報を陸海軍首脳に提示した。この重光の反対を受けて、杉山元陸相と米内光政海相も見解を変更し、繆を通じての和平工作に反対した[8]。小磯はあくまで交渉の続行にこだわり、4月2日に昭和天皇に繆を引き留めることを進言した[9]。しかしこれがかえって天皇の不興と不信を買うことになる。4月3日、天皇は繆斌の帰国を小磯に指示、この工作の失敗を受けて、小磯は内閣を総辞職するにいたった。

繆が果たして蔣介石の密命を本当に帯びていたのかについては今日に至るまでさまざまな議論があり、たとえば彼が「私が東京に滞在中は、東京空襲はおこなわれないはずでしょう」という奇妙な発言を日本滞在中にしていたことを戸川猪佐武らが指摘している。事実、彼の滞在期間は東京空襲はおこなわれなかった。また戦後南部圭助頭山満の腹心)は、蔣介石に繆斌工作が蔣自身の指示で行なわれたことを直接確認したとしており[10]、繆斌の長男である繆中も同工作が正式な和平工作であったことを証言している[11]。これらのことからこの和平工作は、日本が第二次大戦の戦時下の中でおこなったもっとも現実的可能性のある工作だったともいえよう。ただし実態はどうあれ、上記の結果からすれば、繆斌の身分・権限について繆斌本人や小磯・緒方は、昭和天皇や重光ら反対派を説得するだけのものを提示し得なかったということもいえる。

突然の処刑

日本敗北直後の1945年(民国34年)9月27日、上海で繆斌は軍統に逮捕されてしまう[12]。繆は獄中で「私の対日工作(原題「我的対日工作」)」を執筆し、弁明を試みている。しかし翌1946年(民国35年)4月3日より、江蘇高等法院で審理が開始され、わずか5日後の8日には早くも敵国通謀の罪(いわゆる「漢奸」の罪)で死刑が言い渡されてしまった。

繆斌は控訴を試みるもならず、同年5月21日に蘇州獅子口第3監獄で銃殺刑に処せられた。享年48。繆の処刑は、陳公博のそれ(同年6月3日)よりも早い。繆は蘇州郊外に埋葬されたが、文化大革命で墓所が破壊され、遺骨の所在は不明となっているという[13]

繆斌の死刑判決に至るまでの審理とその死刑執行は余りにも素早かった。そのため、蔣介石には繆を「漢奸」として処断する以外にも、別の意図があったと推察する見方がある。たとえば劉傑と鄭仁佳は、東京裁判において繆が和平工作の証人として呼ばれる動きを事前に察知した、蔣による口封じの可能性を指摘している。和平工作が公になれば、カイロ会談で蔣が徹底した対日抗戦を主張しながら、その裏で日本との和平を目論んだことが露見するためである。つまり蔣介石のこの慌てた処刑処置こそが、繆を通じての和平工作が蔣介石の真意だったということを証明しているということになる[14]

関連項目

脚注

  1. ^ 鄭仁佳「繆斌小伝」が指摘する多数説に従う。中国では、徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』が1895年(光緒21年)としているほか、1902年(光緒28年)説も存在する。Who's Who in China 4th ed.,p.318は1889年としている。日本では、横山銕三『「繆斌工作」成ラズ』所収、塩田喬「資料Ⅳ 関係年表」236頁が1903年3月7日(清光緒29年2月9日)としており、前坂俊之と彌吉博幸「繆斌工作と新民会」もこれに従っていると見られる。一方『最新支那要人伝』185頁は、Who's Who in Chinaと同じく1889年としている。
  2. ^ 横山など。
  3. ^ 『最新支那要人伝』、185頁。
  4. ^ 繆斌の職歴(職名及び時期)については史料により異同が大きい。本記事は主に鄭同上によるが、必要に応じ他の史料により注で補う。
  5. ^ 劉寿林ほか『民国職官年表』と徐同上による。鄭同上は、2月に江蘇省政府委員兼民政庁庁長に任ぜられた、としている。
  6. ^ 前者は鄭同上、後者は『最新支那要人伝』による。
  7. ^ 繆斌工作の内容については、伊藤隆・渡邊行男編『重光葵手記』、449-476頁などに詳しい。
  8. ^ 同上、464-467頁。
  9. ^ 同上、471頁。
  10. ^ 彌吉、47頁。
  11. ^ 彌吉同上。
  12. ^ 余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』1613頁、鄭「繆斌小伝」による。なお劉傑『漢奸裁判』、250頁は、1946年(民国35年)4月2日逮捕としている。また彌吉同上によれば、繆中の証言として、繆斌は1946年の春節(塩田前掲表によれば、2月1日)に一度は蔣介石に褒賞されたが、同年3月17日の戴笠(軍統指導者)事故死直後に逮捕されたとしている(塩田前掲年表によれば、3月22日逮捕)。
  13. ^ 横山、210頁。彌吉、51頁。
  14. ^ 劉傑『漢奸裁判』249-250頁。鄭「繆斌小伝」。

参考文献

  • 鄭仁佳「繆斌小伝」『伝記文学』ホームページ(台湾、要繁体字フォント)
  • 劉傑『漢奸裁判 対日協力者を襲った運命』中央公論新社中公新書)、2000年。ISBN 978-4121015440 
  • 余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』上海人民出版社、2006年。ISBN 7-208-06486-5 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 伊藤隆・渡邊行男編『重光葵手記』中央公論社、1986年。ISBN 4-12-001518-1 
  • 横山銕三『「繆斌工作」成ラズ』展転社、1992年。ISBN 978-4886560759 
  • 彌吉博幸「繆斌工作と新民会」『祖国と青年』2001年8月、日本協議会日本青年協議会、44-51頁。
  • 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
  • 前坂俊之HP