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翌[[1927年]](民国16年)に、閻錫山が[[北伐 (中国国民党)|北伐]]に呼応すると、晋軍は[[国民革命軍]]第3集団軍に改組された。商震は閻から第3集団軍代理総司令に任ぜられ、[[奉天派]]に対する攻撃を開始している。同年7月、第1軍団軍団長に任ぜられ、9月には第3集団軍左路総指揮を兼ねた。[[1928年]](民国17年)4月、商は保定、北京、天津等を次々と攻略している。6月、[[河北省 (中華民国)|河北省]]政府主席に任命され、10月には[[国民政府]]軍事委員会委員となった。11月、北伐の軍功により、平津警備副司令(代理司令)に任ぜられた。
翌[[1927年]](民国16年)に、閻錫山が[[北伐 (中国国民党)|北伐]]に呼応すると、晋軍は[[国民革命軍]]第3集団軍に改組された。商震は閻から第3集団軍代理総司令に任ぜられ、[[奉天派]]に対する攻撃を開始している。同年7月、第1軍団軍団長に任ぜられ、9月には第3集団軍左路総指揮を兼ねた。[[1928年]](民国17年)4月、商は保定、北京、天津等を次々と攻略している。6月、[[河北省 (中華民国)|河北省]]政府主席に任命され、10月には[[国民政府]]軍事委員会委員となった。11月、北伐の軍功により、平津警備副司令(代理司令)に任ぜられた。


[[1929年]](民国18年)3月、商震は[[中国国民党]]第3期候補中央監察委員に選出された。しかし、この頃から閻錫山は商が自主的な行動をしているのではないかと疑い始める。同年10月、閻は商を山西に召還し、有名無実な地位にすぎない山西省政府主席に任命した。このため、翌年に閻が反[[介石]]の[[中原大戦]]を起こした際には、商はこれに非協力的な態度をとっている。
[[1929年]](民国18年)3月、商震は[[中国国民党]]第3期候補中央監察委員に選出された。しかし、この頃から閻錫山は商が自主的な行動をしているのではないかと疑い始める。同年10月、閻は商を山西に召還し、有名無実な地位にすぎない山西省政府主席に任命した。このため、翌年に閻が反[[介石]]の[[中原大戦]]を起こした際には、商はこれに非協力的な態度をとっている。


これが幸いして、反軍敗北後の[[1931年]](民国20年)1月に、商震は引き続き山西省政府主席に留任して民政庁長も兼ね、4月には、[[張学良]]が[[北京市|北平]]で組織した陸海空軍副総司令行営で第4軍軍長も兼ねた。7月、商は[[石友三]]の反クーデター鎮圧に貢献し、第32軍軍長として新たに軍を編制している。しかし、その後も閻錫山の影響力・介入が続き、これを嫌った商は8月に山西省政府主席の地位を自ら辞任した。以後、商は山西派からは離脱していくことになる。
これが幸いして、反軍敗北後の[[1931年]](民国20年)1月に、商震は引き続き山西省政府主席に留任して民政庁長も兼ね、4月には、[[張学良]]が[[北京市|北平]]で組織した陸海空軍副総司令行営で第4軍軍長も兼ねた。7月、商は[[石友三]]の反クーデター鎮圧に貢献し、第32軍軍長として新たに軍を編制している。しかし、その後も閻錫山の影響力・介入が続き、これを嫌った商は8月に山西省政府主席の地位を自ら辞任した。以後、商は山西派からは離脱していくことになる。


=== 華北での活動 ===
=== 華北での活動 ===
[[1932年]](民国21年)10月、[[満州事変]](九・一八事変)後の日本軍に対処するため、商震は国民党中央軍事委員会北平分会代理委員長に任ぜられた。翌[[1933年]](民国22年)2月、[[万里の長城|長城]]を日本軍に脅かされたため、商は張学良から華北第2軍団司令に任ぜられた。商は懸命に抗戦したが、翌月には敗退している。5月31日、[[塘沽協定]]締結により、商の第32軍は北平[[南苑区|南苑]]まで撤退した。同年10月、商震は北京近郊で[[吉鴻昌]]・[[方振武]]率いる[[察哈爾民衆抗日同盟軍]]を追い詰め、最終的に交渉により2人を降伏させた(ただし2人ともまもなく逃走)。
[[1932年]](民国21年)10月、[[満州事変]](九・一八事変)後の日本軍に対処するため、商震は国民党中央軍事委員会北平分会代理委員長に任ぜられた。翌[[1933年]](民国22年)2月、[[万里の長城|長城]]を日本軍に脅かされたため、商は張学良から華北第2軍団司令に任ぜられた。商は懸命に抗戦したが、翌月には敗退している。5月31日、[[塘沽協定]]締結により、商の第32軍は北平[[南苑区|南苑]]まで撤退した。同年10月、商震は北京近郊で[[吉鴻昌]]・[[方振武]]率いる[[察哈爾民衆抗日同盟軍]]を追い詰め、最終的に交渉により2人を降伏させた(ただし2人ともまもなく逃走)。


[[1935年]](民国24年)4月、商震は二級上将の位を授与される。6月、[[土肥原・秦徳純協定]]の一環で河北省政府主席[[于学忠]]が罷免されたため、商が同政府主席に返り咲いた。6月には天津警備司令も兼ねている。この頃、日本側から親日政府樹立などを呼びかけられたが、商はすべて拒絶した。同年12月、商は各職を辞任し、翌[[1936年]](民国25年)1月<ref>張小曼「商震」307頁による。劉寿林ほか『民国職官年表』884頁は、1935年12月12日就任とする。</ref>、河南省政府主席に転じている。2月、介石から山西省に入った紅軍の討伐を命じられたが、商は非協力的で軍勢の保持を図った。
[[1935年]](民国24年)4月、商震は二級上将の位を授与される。6月、[[土肥原・秦徳純協定]]の一環で河北省政府主席[[于学忠]]が罷免されたため、商が同政府主席に返り咲いた。6月には天津警備司令も兼ねている。この頃、日本側から親日政府樹立などを呼びかけられたが、商はすべて拒絶した。同年12月、商は各職を辞任し、翌[[1936年]](民国25年)1月<ref>張小曼「商震」307頁による。劉寿林ほか『民国職官年表』884頁は、1935年12月12日就任とする。</ref>、河南省政府主席に転じている。2月、介石から山西省に入った紅軍の討伐を命じられたが、商は非協力的で軍勢の保持を図った。


=== 日中戦争での活動 ===
=== 日中戦争での活動 ===
[[日中戦争]](抗日戦争)が勃発すると、[[1937年]](民国26年)に商震は[[抗日戦争第1戦区|第1戦区]]第20集団軍総司令兼第32軍軍長に任ぜられ、平漢線で日本軍を迎撃したが、抗し得ずに敗退している。[[1938年]](民国27年)、[[抗日戦争第9戦区|第9戦区]]に配属され、[[武漢作戦|武漢会戦]]に参戦した。翌[[1939年]](民国28年)3月、第9戦区副司令長官に昇進し、長官の[[薛岳]]を補佐して、第1次・第2次の[[長沙会戦]]を戦っている。10月、[[抗日戦争第6戦区|第6戦区]]副司令長官に転じ、翌年2月には同戦区長官に昇進して、[[衡陽市|衡陽]]に駐留した。
[[日中戦争]](抗日戦争)が勃発すると、[[1937年]](民国26年)に商震は[[抗日戦争第1戦区|第1戦区]]第20集団軍総司令兼第32軍軍長に任ぜられ、平漢線で日本軍を迎撃したが、抗し得ずに敗退している。[[1938年]](民国27年)、[[抗日戦争第9戦区|第9戦区]]に配属され、[[武漢作戦|武漢会戦]]に参戦した。翌[[1939年]](民国28年)3月、第9戦区副司令長官に昇進し、長官の[[薛岳]]を補佐して、第1次・第2次の[[長沙会戦]]を戦っている。10月、[[抗日戦争第6戦区|第6戦区]]副司令長官に転じ、翌年2月には同戦区長官に昇進して、[[衡陽市|衡陽]]に駐留した。


同年中に商震は[[重慶市|重慶]]に召還され、中央軍事委員会弁公庁主任に任ぜられた。翌年10月、中央軍事委員会外事局局長を兼任する。[[1943年]](民国32年)、介石に随従して[[カイロ宣言|カイロ会談]]に出席した。[[1944年]](民国33年)3月、中国駐米軍事代表団団長としてアメリカに派遣され、大統領[[フランクリン・ルーズベルト]]に中国の軍事情勢を報告している。
同年中に商震は[[重慶市|重慶]]に召還され、中央軍事委員会弁公庁主任に任ぜられた。翌年10月、中央軍事委員会外事局局長を兼任する。[[1943年]](民国32年)、介石に随従して[[カイロ宣言|カイロ会談]]に出席した。[[1944年]](民国33年)3月、中国駐米軍事代表団団長としてアメリカに派遣され、大統領[[フランクリン・ルーズベルト]]に中国の軍事情勢を報告している。


=== 晩年 ===
=== 晩年 ===
日中戦争終結後の[[1945年]](民国34年)9月、国民政府参軍長に任命され、翌[[1946年]](民国35年)1月には[[国際連合|国連]][[軍事参謀委員会]]中国代表団首席代表を兼ねた。[[1947年]](民国36年)5月、商震は[[対日理事会]]中国代表に任命され、来日した。しかし、商は[[国共内戦]]の推進に反対であり、[[1949年]](民国38年)5月、対日理事会中国代表を辞任し、そのまま日本にとどまった。
日中戦争終結後の[[1945年]](民国34年)9月、国民政府参軍長に任命され、翌[[1946年]](民国35年)1月には[[国際連合|国連]][[軍事参謀委員会]]中国代表団首席代表を兼ねた。[[1947年]](民国36年)5月、商震は[[対日理事会]]中国代表に任命され、来日した。しかし、商は[[国共内戦]]の推進に反対であり、[[1949年]](民国38年)5月、対日理事会中国代表を辞任し、そのまま日本にとどまった。


介石は[[台湾]]へ来るよう何度も商震に勧めたが、商はまったく応じず、むしろ[[中華人民共和国]]に好意的な態度をとっている。[[1974年]]と[[1975年]]に商は帰国し、[[周恩来]]・[[朱徳]]・[[葉剣英]]らと対談した。
介石は[[台湾]]へ来るよう何度も商震に勧めたが、商はまったく応じず、むしろ[[中華人民共和国]]に好意的な態度をとっている。[[1974年]]と[[1975年]]に商は帰国し、[[周恩来]]・[[朱徳]]・[[葉剣英]]らと対談した。


[[1978年]]5月15日、商震は[[東京都]]で病没した。享年91(満89歳)。商の遺骨は中国に送られ、{{仮リンク|八宝山革命公墓|zh|北京市八宝山革命公墓|label = 八宝山革命公墓}}に納められている。
[[1978年]]5月15日、商震は[[東京都]]で病没した。享年91(満89歳)。商の遺骨は中国に送られ、{{仮リンク|八宝山革命公墓|zh|北京市八宝山革命公墓|label = 八宝山革命公墓}}に納められている。

2020年9月15日 (火) 13:55時点における版

商震
プロフィール
出生: 1888年9月21日
光緒14年8月16日)
死去: 1978年5月15日
日本東京都
出身地: 清の旗 直隷省順天府大城県苦水務村[1]または直隷省保定府[2]
職業: 軍人
各種表記
繁体字 商震
簡体字 商震
拼音 Shāng Zhèn
ラテン字 Shang Chen
和名表記: しょう しん
発音転記: シャン ジェン
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商 震(しょう しん)は、中華民国軍人閻錫山率いる山西派の一員であり、また日中戦争(抗日戦争)期における国民革命軍の将軍として活躍した。最終階級は国民革命軍二級上将。啓予起予。祖籍は浙江省紹興府紹興県

事跡

革命派としての活動

1905年光緒31年)、保定北洋陸軍速成学堂(後の保定陸軍軍官学校)洋文班に入学する。この頃から革命派の思想に傾倒し始める。1909年宣統元年)から新軍第20鎮で官を歴任し、翌年3月、第20鎮参謀となったときに馮玉祥と知り合い、盟兄弟の契りを結んだ。

後に商震は清の海軍大臣載洵の暗殺を謀ったが、事前に漏れ、日本へ逃亡し、陸軍関連の学校で学ぶ。このとき、商震は孫文(孫中山)と知り合い、中国同盟会に加入した。帰国後の1911年宣統3年)8月、革命派の関外民軍総司令として奉天近辺で蜂起する。辛亥革命勃発後は対清軍で不利となり、山東省煙台へ移って各地の民軍と連携を取った。

北京政府初期の活動

中華民国成立後の1912年民国元年)10月、商震は山東第2混成旅旅長に任ぜられた。翌年5月、北京政府陸軍部顧問として北京に召還されたが、二次革命(第二革命)への参与を疑われ、京畿軍政執法処長の陸建章に逮捕されてしまう。このとき、陸と縁戚関係にあった馮玉祥の口利きがあり、幸いにして釈放された。

1914年(民国3年)2月、商震は陸建章から河南省倉庫総弁に任ぜられる。同年、陸が白朗鎮圧のために陝西省に入ると、商も呼び出され、陝北衛戍司令部参謀長に起用された。翌年3月には、陝西省第1旅旅長兼陝北衛戍司令に昇進している。1916年(民国5年)6月、護国戦争袁世凱に味方した陸が失脚すると、商は山西督軍閻錫山を頼り、その下で団長に起用された。

山西派での台頭

1917年(民国6年)7月、商震は張勲復辟の鎮圧に貢献し、晋軍(山西軍)第4混成旅旅長に昇進した。同時期に段祺瑞が行った援湘(湖南討伐)に商は派遣されたが、このとき全旅覆滅の敗北を喫している。山西に戻った後に商は兵工廠主管を命ぜられたが、このときの運営は優秀で、山西軍の強化に貢献した。その後指揮官に復帰して軍功をあげ、1918年7月、山西陸軍第1混成旅旅長に返り咲いている。

1924年(民国13年)1月、商震は山西省暫編第1混成旅旅長に昇進する。同年冬、国民軍に味方する河南省の樊鍾秀が山西に攻撃を仕掛け、一時山西が危機に陥ったが、商がこれを迎撃して敗退させた。1926年(民国15年)南口大戦では、他の北京政府軍と協力して国民軍を包囲・攻撃した。同年8月、国民軍が南口から撤退すると、商は綏遠都統に任ぜられた。

山西派からの離脱

1927年(民国16年)に、閻錫山が北伐に呼応すると、晋軍は国民革命軍第3集団軍に改組された。商震は閻から第3集団軍代理総司令に任ぜられ、奉天派に対する攻撃を開始している。同年7月、第1軍団軍団長に任ぜられ、9月には第3集団軍左路総指揮を兼ねた。1928年(民国17年)4月、商は保定、北京、天津等を次々と攻略している。6月、河北省政府主席に任命され、10月には国民政府軍事委員会委員となった。11月、北伐の軍功により、平津警備副司令(代理司令)に任ぜられた。

1929年(民国18年)3月、商震は中国国民党第3期候補中央監察委員に選出された。しかし、この頃から閻錫山は商が自主的な行動をしているのではないかと疑い始める。同年10月、閻は商を山西に召還し、有名無実な地位にすぎない山西省政府主席に任命した。このため、翌年に閻が反蔣介石中原大戦を起こした際には、商はこれに非協力的な態度をとっている。

これが幸いして、反蔣軍敗北後の1931年(民国20年)1月に、商震は引き続き山西省政府主席に留任して民政庁長も兼ね、4月には、張学良北平で組織した陸海空軍副総司令行営で第4軍軍長も兼ねた。7月、商は石友三の反蔣クーデター鎮圧に貢献し、第32軍軍長として新たに軍を編制している。しかし、その後も閻錫山の影響力・介入が続き、これを嫌った商は8月に山西省政府主席の地位を自ら辞任した。以後、商は山西派からは離脱していくことになる。

華北での活動

1932年(民国21年)10月、満州事変(九・一八事変)後の日本軍に対処するため、商震は国民党中央軍事委員会北平分会代理委員長に任ぜられた。翌1933年(民国22年)2月、長城を日本軍に脅かされたため、商は張学良から華北第2軍団司令に任ぜられた。商は懸命に抗戦したが、翌月には敗退している。5月31日、塘沽協定締結により、商の第32軍は北平南苑まで撤退した。同年10月、商震は北京近郊で吉鴻昌方振武率いる察哈爾民衆抗日同盟軍を追い詰め、最終的に交渉により2人を降伏させた(ただし2人ともまもなく逃走)。

1935年(民国24年)4月、商震は二級上将の位を授与される。6月、土肥原・秦徳純協定の一環で河北省政府主席于学忠が罷免されたため、商が同政府主席に返り咲いた。6月には天津警備司令も兼ねている。この頃、日本側から親日政府樹立などを呼びかけられたが、商はすべて拒絶した。同年12月、商は各職を辞任し、翌1936年(民国25年)1月[3]、河南省政府主席に転じている。2月、蔣介石から山西省に入った紅軍の討伐を命じられたが、商は非協力的で軍勢の保持を図った。

日中戦争での活動

日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、1937年(民国26年)に商震は第1戦区第20集団軍総司令兼第32軍軍長に任ぜられ、平漢線で日本軍を迎撃したが、抗し得ずに敗退している。1938年(民国27年)、第9戦区に配属され、武漢会戦に参戦した。翌1939年(民国28年)3月、第9戦区副司令長官に昇進し、長官の薛岳を補佐して、第1次・第2次の長沙会戦を戦っている。10月、第6戦区副司令長官に転じ、翌年2月には同戦区長官に昇進して、衡陽に駐留した。

同年中に商震は重慶に召還され、中央軍事委員会弁公庁主任に任ぜられた。翌年10月、中央軍事委員会外事局局長を兼任する。1943年(民国32年)、蔣介石に随従してカイロ会談に出席した。1944年(民国33年)3月、中国駐米軍事代表団団長としてアメリカに派遣され、大統領フランクリン・ルーズベルトに中国の軍事情勢を報告している。

晩年

日中戦争終結後の1945年(民国34年)9月、国民政府参軍長に任命され、翌1946年(民国35年)1月には国連軍事参謀委員会中国代表団首席代表を兼ねた。1947年(民国36年)5月、商震は対日理事会中国代表に任命され、来日した。しかし、商は国共内戦の推進に反対であり、1949年(民国38年)5月、対日理事会中国代表を辞任し、そのまま日本にとどまった。

蔣介石は台湾へ来るよう何度も商震に勧めたが、商はまったく応じず、むしろ中華人民共和国に好意的な態度をとっている。1974年1975年に商は帰国し、周恩来朱徳葉剣英らと対談した。

1978年5月15日、商震は東京都で病没した。享年91(満89歳)。商の遺骨は中国に送られ、八宝山革命公墓に納められている。

脚注

  1. ^ 劉国銘主編(2005)、2023頁及び尹(1999)、419頁。
  2. ^ 張(2005)、303頁及び徐主編(2007)、1694頁。
  3. ^ 張小曼「商震」307頁による。劉寿林ほか『民国職官年表』884頁は、1935年12月12日就任とする。

参考資料

  • 張小曼「商震」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第12巻』中華書局、2005年。ISBN 7-101-02993-0 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 尹丕杰「商震」『民国高級将領列伝 4』解放軍出版社、1999年。ISBN 7-5065-1121-5 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 中国抗战正向战场作战记 China’s Anti-Japanese War Combat Operations
    • Guo Rugui, editor-in-chief Huang Yuzhang
    • Jiangsu People's Publishing House
    • Date published : 2005-7-1
    • ISBN 7214030349
  • Hsu Long-hsuen and Chang Ming-kai, History of The Sino-Japanese War (1937-1945) 2nd Ed. ,1971. Translated by Wen Ha-hsiung , Chung Wu Publishing; 33, 140th Lane, Tung-hwa Street, Taipei, Taiwan Republic of China.
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
劉郁芬
綏遠都統
1926年9月 - 1927年11月
次代
汲金純
 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
(創設)
河北省政府主席
1928年6月 - 1929年8月
次代
徐永昌
先代
閻錫山
山西省政府主席
1929年8月 - 1931年8月
次代
徐永昌
先代
張厚琬
河北省政府主席
1935年6月 - 12月
次代
宋哲元
先代
王克敏
天津市長
1935年6月
次代
程克
先代
劉峙
河南省政府主席
1935年12月 - 1938年2月
次代
程潜