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帰国後の[[1906年]](光緒32年)、浙江新軍第2標標統に任命された。以後、第1標標統、弁目学堂総弁、教練処幇弁、浙江講武学堂総弁を歴任している。その後、[[広西省]]に転勤し、[[1909年]]([[宣統]]元年)広西参謀処総弁に就任した。[[1910年]](宣統2年)、[[広東省]]に異動し、広東混成協協統に就任した。 |
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== 参考文献 == |
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2020年9月15日 (火) 13:54時点における版
蔣尊簋 | |
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プロフィール | |
出生: | 1882年(清光緒8年) |
死去: |
1931年(民国20年) 中華民国広東省広州市 |
出身地: | 清浙江省紹興府諸曁県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 蔣尊簋 |
簡体字: | 蔣尊簋 |
拼音: | Jiǎng Zūnguǐ |
ラテン字: | Chiang Tsun-kui |
和名表記: | しょう そんき |
発音転記: | ジアン ズングイ |
蔣 尊簋(しょう そんき)は、清末民初の軍人。中華民国の初代浙江都督。字は伯器。
事跡
1900年(光緒26年)日本に留学する。1904年(光緒30年)に陸軍士官学校を卒業した。翌年、東京で中国同盟会に加入し、宣伝部長に任じられた。
帰国後の1906年(光緒32年)、浙江新軍第2標標統に任命された。以後、第1標標統、弁目学堂総弁、教練処幇弁、浙江講武学堂総弁を歴任している。その後、広西省に転勤し、1909年(宣統元年)広西参謀処総弁に就任した。1910年(宣統2年)、広東省に異動し、広東混成協協統に就任した。
1911年(宣統3年)10月に、広東革命派が武昌起義に呼応すると、蔣尊簋は都督府を組織し、軍事部部長に任命された。後に一時は都督代理をつとめている。1912年(民国元年)1月、浙江省に戻って浙江都督兼民政長に就任し、2月には章炳麟・張謇とともに統一党を組織した。
この当時、浙江省内では、蔣尊簋らの日本留学士官派と、南京陸師・保定速成等の国内卒業士官派との派閥争いが激化していた。同年7月、蔣は国内卒業士官派の朱瑞に追われる形で、浙江都督を辞任した。
1914年(民国3年)6月、蔣尊簋は袁世凱から宣威将軍に任命される。1915年(民国4年)、袁が皇帝即位を宣言すると、蔣は蔡鍔らが起こした護国戦争(第三革命)に呼応する挙兵を浙江省で行い、袁討伐に動いた。1917年(民国6年)、護法戦争に参加する。民国10年(1921年)5月、非常大総統となった孫文の下で広州軍政府参謀次長に就任した。
その後、国民政府においても職歴を重ねる。1931年(民国20年)に、汪兆銘が蔣介石に反対して広州で国民政府を樹立すると、蔣尊簋は汪を支持して広州国民政府委員となった。しかし同年、蔣尊簋は死去した。享年50。
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 朱宗震「朱瑞」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第8巻』中華書局、1996年。ISBN 7-101-01504-2。
中華民国(北京政府)
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