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帰国後の[[1906年]](光緒32年)、浙江新軍第2標標統に任命された。以後、第1標標統、弁目学堂総弁、教練処幇弁、浙江講武学堂総弁を歴任している。その後、[[広西省]]に転勤し、[[1909年]]([[宣統]]元年)広西参謀処総弁に就任した。[[1910年]](宣統2年)、[[広東省]]に異動し、広東混成協協統に就任した。
帰国後の[[1906年]](光緒32年)、浙江新軍第2標標統に任命された。以後、第1標標統、弁目学堂総弁、教練処幇弁、浙江講武学堂総弁を歴任している。その後、[[広西省]]に転勤し、[[1909年]]([[宣統]]元年)広西参謀処総弁に就任した。[[1910年]](宣統2年)、[[広東省]]に異動し、広東混成協協統に就任した。


[[1911年]](宣統3年)10月に、広東革命派が[[武昌起義]]に呼応すると、尊簋は都督府を組織し、軍事部部長に任命された。後に一時は都督代理をつとめている。[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)1月、[[浙江省 (中華民国)|浙江省]]に戻って浙江都督兼民政長に就任し、2月には[[章炳麟]]・[[張謇]]とともに[[統一党]]を組織した。
[[1911年]](宣統3年)10月に、広東革命派が[[武昌起義]]に呼応すると、尊簋は都督府を組織し、軍事部部長に任命された。後に一時は都督代理をつとめている。[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)1月、[[浙江省 (中華民国)|浙江省]]に戻って浙江都督兼民政長に就任し、2月には[[章炳麟]]・[[張謇]]とともに[[統一党]]を組織した。


この当時、浙江省内では、尊簋らの日本留学士官派と、[[南京市|南京]]陸師・[[保定市|保定]]速成等の国内卒業士官派との派閥争いが激化していた。同年7月、は国内卒業士官派の[[朱瑞]]に追われる形で、浙江都督を辞任した。
この当時、浙江省内では、尊簋らの日本留学士官派と、[[南京市|南京]]陸師・[[保定市|保定]]速成等の国内卒業士官派との派閥争いが激化していた。同年7月、は国内卒業士官派の[[朱瑞]]に追われる形で、浙江都督を辞任した。


[[1914年]](民国3年)6月、尊簋は[[袁世凱]]から宣威将軍に任命される。[[1915年]](民国4年)、袁が皇帝即位を宣言すると、は[[蔡鍔]]らが起こした[[護国戦争]]([[第三革命]])に呼応する挙兵を浙江省で行い、袁討伐に動いた。[[1917年]](民国6年)、[[護法戦争]]に参加する。民国10年([[1921年]])5月、非常大総統となった[[孫文]]の下で[[広州市|広州]]軍政府参謀次長に就任した。
[[1914年]](民国3年)6月、尊簋は[[袁世凱]]から宣威将軍に任命される。[[1915年]](民国4年)、袁が皇帝即位を宣言すると、は[[蔡鍔]]らが起こした[[護国戦争]]([[第三革命]])に呼応する挙兵を浙江省で行い、袁討伐に動いた。[[1917年]](民国6年)、[[護法戦争]]に参加する。民国10年([[1921年]])5月、非常大総統となった[[孫文]]の下で[[広州市|広州]]軍政府参謀次長に就任した。


その後、[[国民政府]]においても職歴を重ねる。[[1931年]](民国20年)に、[[汪兆銘]]が[[介石]]に反対して広州で国民政府を樹立すると、尊簋は汪を支持して広州国民政府委員となった。しかし同年、尊簋は死去した。享年50。
その後、[[国民政府]]においても職歴を重ねる。[[1931年]](民国20年)に、[[汪兆銘]]が[[介石]]に反対して広州で国民政府を樹立すると、尊簋は汪を支持して広州国民政府委員となった。しかし同年、尊簋は死去した。享年50。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2020年9月15日 (火) 13:54時点における版

蔣尊簋
プロフィール
出生: 1882年光緒8年)
死去: 1931年民国20年)
中華民国の旗 中華民国広東省広州市
出身地: 清の旗 浙江省紹興府諸曁県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 蔣尊簋
簡体字 蔣尊簋
拼音 Jiǎng Zūnguǐ
ラテン字 Chiang Tsun-kui
和名表記: しょう そんき
発音転記: ジアン ズングイ
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蔣 尊簋(しょう そんき)は、清末民初の軍人。中華民国の初代浙江都督。伯器

事跡

1900年光緒26年)日本に留学する。1904年(光緒30年)に陸軍士官学校を卒業した。翌年、東京で中国同盟会に加入し、宣伝部長に任じられた。

帰国後の1906年(光緒32年)、浙江新軍第2標標統に任命された。以後、第1標標統、弁目学堂総弁、教練処幇弁、浙江講武学堂総弁を歴任している。その後、広西省に転勤し、1909年宣統元年)広西参謀処総弁に就任した。1910年(宣統2年)、広東省に異動し、広東混成協協統に就任した。

1911年(宣統3年)10月に、広東革命派が武昌起義に呼応すると、蔣尊簋は都督府を組織し、軍事部部長に任命された。後に一時は都督代理をつとめている。1912年民国元年)1月、浙江省に戻って浙江都督兼民政長に就任し、2月には章炳麟張謇とともに統一党を組織した。

この当時、浙江省内では、蔣尊簋らの日本留学士官派と、南京陸師・保定速成等の国内卒業士官派との派閥争いが激化していた。同年7月、蔣は国内卒業士官派の朱瑞に追われる形で、浙江都督を辞任した。

1914年(民国3年)6月、蔣尊簋は袁世凱から宣威将軍に任命される。1915年(民国4年)、袁が皇帝即位を宣言すると、蔣は蔡鍔らが起こした護国戦争第三革命)に呼応する挙兵を浙江省で行い、袁討伐に動いた。1917年(民国6年)、護法戦争に参加する。民国10年(1921年)5月、非常大総統となった孫文の下で広州軍政府参謀次長に就任した。

その後、国民政府においても職歴を重ねる。1931年(民国20年)に、汪兆銘蔣介石に反対して広州で国民政府を樹立すると、蔣尊簋は汪を支持して広州国民政府委員となった。しかし同年、蔣尊簋は死去した。享年50。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 朱宗震「朱瑞」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第8巻』中華書局、1996年。ISBN 7-101-01504-2 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
(創設)
浙江都督
1912年1月 - 7月
次代
朱瑞