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「トラウトマン和平工作」の版間の差分

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== 1937年09月 ==
== 1937年09月 ==
事変の収拾に関する日本政府の基本的立場は、あくまで日中間の問題として解決し、第三国の斡旋や干渉を排除するというものであった。しかし、9月に入り、長期戦の様相となると、軍事目的の達成に応じて「第三国の好意的斡旋」を活用する和平も視野に入ってくる。まず名乗りをあげたのは[[イギリス]]であった。9月中旬、新着任の[[ロバート・クレイギー]]駐日大使が仲介の可能性について広田外相に打診を行い、広田は具体的な和平条件を提示している。それは、[[華北]]の[[非武装地帯]]の設定、[[排日]]取締りと防共協力を条件に華北政権の解消と国民政府の行政容認、[[満州国]]の不問などであった。これらの条件は[[介石]]に伝えられたが、国際的な圧力や制裁を期待するは受諾に否定的であった。このとき国際連盟では、中国政府の提訴を受け9月中旬から[[日中戦争|日中紛争]]を審議中であった<ref>戸部良一著『ピース・フィーラー支那事変和平工作の群像』67-71頁</ref>。
事変の収拾に関する日本政府の基本的立場は、あくまで日中間の問題として解決し、第三国の斡旋や干渉を排除するというものであった。しかし、9月に入り、長期戦の様相となると、軍事目的の達成に応じて「第三国の好意的斡旋」を活用する和平も視野に入ってくる。まず名乗りをあげたのは[[イギリス]]であった。9月中旬、新着任の[[ロバート・クレイギー]]駐日大使が仲介の可能性について広田外相に打診を行い、広田は具体的な和平条件を提示している。それは、[[華北]]の[[非武装地帯]]の設定、[[排日]]取締りと防共協力を条件に華北政権の解消と国民政府の行政容認、[[満州国]]の不問などであった。これらの条件は[[介石]]に伝えられたが、国際的な圧力や制裁を期待するは受諾に否定的であった。このとき国際連盟では、中国政府の提訴を受け9月中旬から[[日中戦争|日中紛争]]を審議中であった<ref>戸部良一著『ピース・フィーラー支那事変和平工作の群像』67-71頁</ref>。


== 1937年10月 ==
== 1937年10月 ==
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10月30日、トラウトマンは、国民政府外交部次長[[陳介]]を訪問し、ドイツはコミュニケーションのチャンネルとして奉仕する用意があることを伝えた。陳介は、介石元帥が日本の条件は何であるかを知りたがっていると述べた。トラウトマンは現時点でまだ日本の条件をはっきり掴んでいないため、「私が数日中に元帥と会談することを望んでいる」と答えることに留まった。だが、国民政府に次の二点を伝えるように勧めた。すなわち、「我々が日本へのコミュニケーションのチャンネルとして奉仕する意志を持っていること、そして、私が日本政府に対し、先ず、中国が和解の用意があるとだけ伝える権限を与えられていること」であった。なにゆえに介石が講和を受け入れようとしたのだろうか。実は馬奈木とオットーが上海に到着したころ、10月25日、国民政府国防会議が「停戦問題」を議題に秘密会議を開催している。
10月30日、トラウトマンは、国民政府外交部次長[[陳介]]を訪問し、ドイツはコミュニケーションのチャンネルとして奉仕する用意があることを伝えた。陳介は、介石元帥が日本の条件は何であるかを知りたがっていると述べた。トラウトマンは現時点でまだ日本の条件をはっきり掴んでいないため、「私が数日中に元帥と会談することを望んでいる」と答えることに留まった。だが、国民政府に次の二点を伝えるように勧めた。すなわち、「我々が日本へのコミュニケーションのチャンネルとして奉仕する意志を持っていること、そして、私が日本政府に対し、先ず、中国が和解の用意があるとだけ伝える権限を与えられていること」であった。なにゆえに介石が講和を受け入れようとしたのだろうか。実は馬奈木とオットーが上海に到着したころ、10月25日、国民政府国防会議が「停戦問題」を議題に秘密会議を開催している。


== 1937年11月 ==
== 1937年11月 ==
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したのである。しかも、「右意見ハ当地ニテ米、仏、白三国大使ニモ之ヲ内諾シタルニ何レモ賛成シ三国大使ヨリ夫々本国政府へ上申セル次第ニシテ武府会議ニ対シ相当効果アルモノト思考ス」とも言っている。すなわち、イギリス側は、集団力による対日制裁の方向を否定し、日本が力をいれている第三国仲介を通しての対中国直接交渉の方向に同調したのである。これは日本が推進している「トラウトマン工作」に一気に拍車を駆ける結果となったのである。
したのである。しかも、「右意見ハ当地ニテ米、仏、白三国大使ニモ之ヲ内諾シタルニ何レモ賛成シ三国大使ヨリ夫々本国政府へ上申セル次第ニシテ武府会議ニ対シ相当効果アルモノト思考ス」とも言っている。すなわち、イギリス側は、集団力による対日制裁の方向を否定し、日本が力をいれている第三国仲介を通しての対中国直接交渉の方向に同調したのである。これは日本が推進している「トラウトマン工作」に一気に拍車を駆ける結果となったのである。


[[第二次上海事変]]で、介石はドイツ式の精鋭部隊をすべて失った。一方、広田はいわゆる第1条件を提示した。そして同時に広田は戦争が継続される場合には、この条件ははるかに加重されるであろうと強調した<ref>(「日独伊三国同盟の研究」85・86ページ)。</ref>。
[[第二次上海事変]]で、介石はドイツ式の精鋭部隊をすべて失った。一方、広田はいわゆる第1条件を提示した。そして同時に広田は戦争が継続される場合には、この条件ははるかに加重されるであろうと強調した<ref>(「日独伊三国同盟の研究」85・86ページ)。</ref>。


実は7月29日の閣議で承認されたもので、開戦前の事態収拾案である。[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]はこの戦争を局地戦と考えていた。戦果による条件の改変を考えていなかったし外交に属することは関与を避けた。ただこの時参謀本部の情報部はかなり正確に[[国民革命軍|国民革命軍(国府軍)]]の暗号を解読していたとみられ、[[中国国民党|国民党]]政府内部の情況についてよく把握していた。[[介石]]が日本側の和平提案やブリュッセル会議へ関心をもったため国府軍の全面退却はやや遅巡しており結果としての混乱を歓迎する面もあった。
実は7月29日の閣議で承認されたもので、開戦前の事態収拾案である。[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]はこの戦争を局地戦と考えていた。戦果による条件の改変を考えていなかったし外交に属することは関与を避けた。ただこの時参謀本部の情報部はかなり正確に[[国民革命軍|国民革命軍(国府軍)]]の暗号を解読していたとみられ、[[中国国民党|国民党]]政府内部の情況についてよく把握していた。[[介石]]が日本側の和平提案やブリュッセル会議へ関心をもったため国府軍の全面退却はやや遅巡しており結果としての混乱を歓迎する面もあった。


11月上旬に広田から日本の和平条件7項目をディルクセン[[駐日ドイツ大使]]が接受し、ベルリンの[[アドルフ・ヒトラー]]の諒承を得て、トラウトマン大使が[[王寵恵]]外交部長に日本の意向を伝えたが、王は介石の意見として、『中国は[[国際連盟]]に提訴してあり、九カ国条約の関係国がブリュッセルで会議中なので、その結果を見るまでは、日本の条件を考応すべきではない』との返事をした。11月2日に広田は第1条件をディルクセンに手渡し、11月3日にディルクセンはドイツ外務省に会談の模様を報告し、「日本は確かに以上のような条件を基礎とした和平を希望している。もし南京政府がこれらの条件を受け入れなければ、日本は、中国の最後の崩壊まで無情にも戦争を続ける決心である。私の意見では、これらの条件は極めて穏健であり、南京が面子を失わずにこれらの条件を受け入れることができよう。われわれは現在、これらの条件を受諾するよう南京に圧力を加える必要があろう」と述べた。ドイツ外務省も日本側の示した条件は交渉開始の基礎として妥当なものと判断し、同日トラウトマン大使宛てにこれを中国側に伝えるよう訓令した。11月5日に介石は第1条件を入手した。
11月上旬に広田から日本の和平条件7項目をディルクセン[[駐日ドイツ大使]]が接受し、ベルリンの[[アドルフ・ヒトラー]]の諒承を得て、トラウトマン大使が[[王寵恵]]外交部長に日本の意向を伝えたが、王は介石の意見として、『中国は[[国際連盟]]に提訴してあり、九カ国条約の関係国がブリュッセルで会議中なので、その結果を見るまでは、日本の条件を考応すべきではない』との返事をした。11月2日に広田は第1条件をディルクセンに手渡し、11月3日にディルクセンはドイツ外務省に会談の模様を報告し、「日本は確かに以上のような条件を基礎とした和平を希望している。もし南京政府がこれらの条件を受け入れなければ、日本は、中国の最後の崩壊まで無情にも戦争を続ける決心である。私の意見では、これらの条件は極めて穏健であり、南京が面子を失わずにこれらの条件を受け入れることができよう。われわれは現在、これらの条件を受諾するよう南京に圧力を加える必要があろう」と述べた。ドイツ外務省も日本側の示した条件は交渉開始の基礎として妥当なものと判断し、同日トラウトマン大使宛てにこれを中国側に伝えるよう訓令した。11月5日に介石は第1条件を入手した。
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: 1.[[外蒙古|外蒙]]と同じ国際的地位を持つ[[内モンゴル|内蒙]]自治政府の樹立。
: 1.[[外蒙古|外蒙]]と同じ国際的地位を持つ[[内モンゴル|内蒙]]自治政府の樹立。
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上記の条件では満州国の正式承認は要求していない。
上記の条件では満州国の正式承認は要求していない。


11月6日、トラウトマンは、[[孔祥煕]]実業部長だけが列席している場で介石に日本側の意向を伝えた。介石は現在これに応じられないと回答した。介石は第一次案がトラウトマンより示された時にこう述べた、「日本側が事変前の状態に復帰するのでない限り、どんな要求も受諾できない」、「もし自分がこの(日本側の)条件を受諾したら、[[介石政権|わが政府]]は[[世論]]の大浪に押し流されてしまうだろう。…日本のやり方でわが政府が倒されれば、共産主義政権が誕生するだろうが、その結果は日本にとって和平の機会の消滅である。共産主義者は決して降伏しないだろうからである」と極秘に述べた。一部分の条件については討議し、友好なる諒解を求めることもできるが、これらはすべて事変前の状態に回復することを前提としなければならない」と強い口調で返答したのである。介石が事変前の状態回復を強く主張したのは、彼自身の説明によれば、もし、日本側の要求を受諾すれば、中国政府は世論によって押しつぶされ、中国に[[共産主義革命|革命]]が起こるだろうという判断による。中国は抵抗によって勝利をかち取る可能性はないが、中国政府の崩壊は[[中国共産党|共産党]]が中国で優位を占めること、すなわち、日本と中国の講和は永遠に不可能である、ということになる。それでは、中国側が言う事変前の状態とは具体的にどういう内容だったのだろうか。石射局長の記録によれば、ディルクセン大使から次のような中国側の和平解決条件がもたらされた。
11月6日、トラウトマンは、[[孔祥煕]]実業部長だけが列席している場で介石に日本側の意向を伝えた。介石は現在これに応じられないと回答した。介石は第一次案がトラウトマンより示された時にこう述べた、「日本側が事変前の状態に復帰するのでない限り、どんな要求も受諾できない」、「もし自分がこの(日本側の)条件を受諾したら、[[介石政権|わが政府]]は[[世論]]の大浪に押し流されてしまうだろう。…日本のやり方でわが政府が倒されれば、共産主義政権が誕生するだろうが、その結果は日本にとって和平の機会の消滅である。共産主義者は決して降伏しないだろうからである」と極秘に述べた。一部分の条件については討議し、友好なる諒解を求めることもできるが、これらはすべて事変前の状態に回復することを前提としなければならない」と強い口調で返答したのである。介石が事変前の状態回復を強く主張したのは、彼自身の説明によれば、もし、日本側の要求を受諾すれば、中国政府は世論によって押しつぶされ、中国に[[共産主義革命|革命]]が起こるだろうという判断による。中国は抵抗によって勝利をかち取る可能性はないが、中国政府の崩壊は[[中国共産党|共産党]]が中国で優位を占めること、すなわち、日本と中国の講和は永遠に不可能である、ということになる。それでは、中国側が言う事変前の状態とは具体的にどういう内容だったのだろうか。石射局長の記録によれば、ディルクセン大使から次のような中国側の和平解決条件がもたらされた。


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これを概観するとわかるように、中国の最大の関心は、華北における中央の主権と日本の駐兵に開する制限を実現することであった。
これを概観するとわかるように、中国の最大の関心は、華北における中央の主権と日本の駐兵に開する制限を実現することであった。


介石は、開催中のブリュッセル会議において、なんらかの形で対日制裁が決議されるものと期待していたので回答を留保した。
介石は、開催中のブリュッセル会議において、なんらかの形で対日制裁が決議されるものと期待していたので回答を留保した。


上海陥落の前日の11月11日、介石は首都南京で、南京を放棄するか、死守するか、[[李宗仁]]、[[白崇禧]]、[[何応欽]]、[[唐生智]]、[[徐永昌]]、ドイツの軍事顧問団団長の[[アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン]]といった将軍らと善後策を諮っていた。李宗仁は「私は南京防守に反対である。その理由は戦術上、南京は他と隔絶しており、敵は三方から包囲可能で、しかも北面は長江によって退路が阻まれている。今、挫折敗北を喫した部隊を孤城の防衛に配置しても、長く守ることは望みがたい」と述べた。ドイツ人顧問もこれに賛成し、無用の犠牲は生まぬよう、南京放棄を「極力主張」した。このように南京放棄論が大勢を占めていたが、突如、唐生智が南京死守を力説する。そこで、介石は、「わが血肉をもって南京城と生死を共にする」と誓う唐生智を南京防衛軍司令官に任命し、南京死守を決定した。しかし、唐は後に徹底抗戦を叫びながら降伏の手続きをせずに逃亡してしまう。
上海陥落の前日の11月11日、介石は首都南京で、南京を放棄するか、死守するか、[[李宗仁]]、[[白崇禧]]、[[何応欽]]、[[唐生智]]、[[徐永昌]]、ドイツの軍事顧問団団長の[[アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン]]といった将軍らと善後策を諮っていた。李宗仁は「私は南京防守に反対である。その理由は戦術上、南京は他と隔絶しており、敵は三方から包囲可能で、しかも北面は長江によって退路が阻まれている。今、挫折敗北を喫した部隊を孤城の防衛に配置しても、長く守ることは望みがたい」と述べた。ドイツ人顧問もこれに賛成し、無用の犠牲は生まぬよう、南京放棄を「極力主張」した。このように南京放棄論が大勢を占めていたが、突如、唐生智が南京死守を力説する。そこで、介石は、「わが血肉をもって南京城と生死を共にする」と誓う唐生智を南京防衛軍司令官に任命し、南京死守を決定した。しかし、唐は後に徹底抗戦を叫びながら降伏の手続きをせずに逃亡してしまう。


だが日本はなお和平への望みをあきらめず、ブリュッセル会議最終日の11月15日、広田はアメリカのグルー大使に「日本軍の上海での作戦は順調だがこれ以上支那軍を追撃する必要はない。この時期に平和解決を図るのは支那自身のためになり、支那政府が南京を放棄するのは非常に愚かなことだ」等を述べ、現在ならば日本の講和条件は穏当なものであるので、アメリカが介石に対し和平交渉に応ずうよう説得してほしいと希望し、もし支那側に和平の意思があるなら、日本は代表者を上海に派遣しようとまで語った。
だが日本はなお和平への望みをあきらめず、ブリュッセル会議最終日の11月15日、広田はアメリカのグルー大使に「日本軍の上海での作戦は順調だがこれ以上支那軍を追撃する必要はない。この時期に平和解決を図るのは支那自身のためになり、支那政府が南京を放棄するのは非常に愚かなことだ」等を述べ、現在ならば日本の講和条件は穏当なものであるので、アメリカが介石に対し和平交渉に応ずうよう説得してほしいと希望し、もし支那側に和平の意思があるなら、日本は代表者を上海に派遣しようとまで語った。


介石は大場鎮(上海近郊)陥落をもって敗北とみなす軍事顧問ファルケンハウゼンの進言を容れず、また英米などの干渉により日本が国府軍の殲滅に乗り出さず、戦線を維持できると観測した。広田への回答はせず引き延ばしを図った。
介石は大場鎮(上海近郊)陥落をもって敗北とみなす軍事顧問ファルケンハウゼンの進言を容れず、また英米などの干渉により日本が国府軍の殲滅に乗り出さず、戦線を維持できると観測した。広田への回答はせず引き延ばしを図った。


首都南京からの撤退に介石が反対し、固守方針を定めた。11月20日の重慶への「遷都宣言」で介石は「盧溝橋事件発生以来…日本の侵略は止まる事を知らず…各地の将士は奮って国難に赴き…死すとも退かず…日本は更に暴威を揮い…わが首都に迫る…およそ血気ある者で瓦全より玉砕を欲せざる者はない。…」と述べ、戦争に固執した。
首都南京からの撤退に介石が反対し、固守方針を定めた。11月20日の重慶への「遷都宣言」で介石は「盧溝橋事件発生以来…日本の侵略は止まる事を知らず…各地の将士は奮って国難に赴き…死すとも退かず…日本は更に暴威を揮い…わが首都に迫る…およそ血気ある者で瓦全より玉砕を欲せざる者はない。…」と述べ、戦争に固執した。


壊走した国府軍への日本軍の網は締まりつつあった。国民党政府要人誰もが11月中旬には破滅的な事態となりつつあることを認識し始めた。11月28日から介石は第1条件受諾の根回しを開始した。12月2日午後4時の[[南京]]にて、介石は徐永昌、唐生智、白崇禧、[[顧祝同]]、[[銭大鈞]]らを招集し日本側の条件についての意見を求めた。
壊走した国府軍への日本軍の網は締まりつつあった。国民党政府要人誰もが11月中旬には破滅的な事態となりつつあることを認識し始めた。11月28日から介石は第1条件受諾の根回しを開始した。12月2日午後4時の[[南京]]にて、介石は徐永昌、唐生智、白崇禧、[[顧祝同]]、[[銭大鈞]]らを招集し日本側の条件についての意見を求めた。


和平条件に「'''華北の全行政権は南京政府に委ねる'''」が記載されているため、白崇禧は「こんな条件ならなぜ戦争するのか」、徐永昌は「これだけの条件なら承認してよい」と述べた。顧祝同は受諾に賛成、最後に唐生智が「みなが賛成なら賛成でいい」といったという。最後に介石は「ドイツの調停は拒否すべきでない」「華北の政権は保持しなければならない」と言明した。
和平条件に「'''華北の全行政権は南京政府に委ねる'''」が記載されているため、白崇禧は「こんな条件ならなぜ戦争するのか」、徐永昌は「これだけの条件なら承認してよい」と述べた。顧祝同は受諾に賛成、最後に唐生智が「みなが賛成なら賛成でいい」といったという。最後に介石は「ドイツの調停は拒否すべきでない」「華北の政権は保持しなければならない」と言明した。


== 1937年12月 ==
== 1937年12月 ==
12月2日、介石は第1条件を交渉の基礎として受け入れることをトラウトマンに伝達した。しかしこの段階でも介石の対日不信は根強く「日本に対してはあえて信用できない。日本は条約を平気で違約し、話もあてにならない」と不信を露わにしつつ、「華北の行政主権は、どこまでも維持されねばならぬ。この範囲においてならば、これら条件を談判の基礎とすることができる。」ただし「日本が戦勝国の態度を以て臨み、この条件を最後通牒としてはならない」などとした。
12月2日、介石は第1条件を交渉の基礎として受け入れることをトラウトマンに伝達した。しかしこの段階でも介石の対日不信は根強く「日本に対してはあえて信用できない。日本は条約を平気で違約し、話もあてにならない」と不信を露わにしつつ、「華北の行政主権は、どこまでも維持されねばならぬ。この範囲においてならば、これら条件を談判の基礎とすることができる。」ただし「日本が戦勝国の態度を以て臨み、この条件を最後通牒としてはならない」などとした。


しかしながら、中国側が返答を保留している間に、日本は上海を攻略し次いで南京を攻略した。12月13日に、日本軍が南京陥落。日本国内では「強硬論」が強まった。日本政府は、講和条件を賠償を含む厳しい条件にした。12月21日の閣議で新条件を決定した。東亜局長の[[石射猪太郎]]は発言権のない立場にもかかわらず、思わず「かくのごとく条件が加重されるのでは、中国側は到底和平に応じないであろう」と発言したが無視された。絶望した石射は、当日の日記に「こうなれば案文などどうでもよし。日本は行く処まで行って、行き詰らねば駄目と見切りをつける」と記している。
しかしながら、中国側が返答を保留している間に、日本は上海を攻略し次いで南京を攻略した。12月13日に、日本軍が南京陥落。日本国内では「強硬論」が強まった。日本政府は、講和条件を賠償を含む厳しい条件にした。12月21日の閣議で新条件を決定した。東亜局長の[[石射猪太郎]]は発言権のない立場にもかかわらず、思わず「かくのごとく条件が加重されるのでは、中国側は到底和平に応じないであろう」と発言したが無視された。絶望した石射は、当日の日記に「こうなれば案文などどうでもよし。日本は行く処まで行って、行き詰らねば駄目と見切りをつける」と記している。
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: 前諸項に関する日支間の協定成立後に停戦する 。
: 前諸項に関する日支間の協定成立後に停戦する 。
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広田は回答期限を1月5日として、12月22日にこれをディルクセンに提出した。日本政府は、南京攻略後の12月下旬に満州国の承認と賠償等の条件を加重した第2次和平案を国民政府に伝えた。介石は第2次和平案には態度を硬化させ、交渉打ち切りを視野に入れながら詳細を日本側に問い合わせたため、第一次近衛内閣は遷延策であると判断して交渉を打ち切ることを決定した。
広田は回答期限を1月5日として、12月22日にこれをディルクセンに提出した。日本政府は、南京攻略後の12月下旬に満州国の承認と賠償等の条件を加重した第2次和平案を国民政府に伝えた。介石は第2次和平案には態度を硬化させ、交渉打ち切りを視野に入れながら詳細を日本側に問い合わせたため、第一次近衛内閣は遷延策であると判断して交渉を打ち切ることを決定した。


加重の理由は、第二次上海事変は中国軍による上海の日本海軍に対する奇襲攻撃をもって始まり、上海戦における日本側犠牲者は[[日露戦争]]の[[旅順攻囲戦|旅順攻撃]]における犠牲者に匹敵(4万1千人)するものであったからと言われている。
加重の理由は、第二次上海事変は中国軍による上海の日本海軍に対する奇襲攻撃をもって始まり、上海戦における日本側犠牲者は[[日露戦争]]の[[旅順攻囲戦|旅順攻撃]]における犠牲者に匹敵(4万1千人)するものであったからと言われている。
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== 1938年1月 ==
== 1938年1月 ==
[[ファイル:Tada Hayao.jpg|thumb|160px|[[多田駿]]中将。支那駐屯軍司令官、参謀本部次長でも日中和平を唱えていた]]
[[ファイル:Tada Hayao.jpg|thumb|160px|[[多田駿]]中将。支那駐屯軍司令官、参謀本部次長でも日中和平を唱えていた]]
介石は「日本側の条件は、わが国を征服して滅亡させるためのものだ。屈服してほろびるよりは、戦って敗れてほろびたほうがよい」、「断固として拒絶せよ」と述べた。日本では1月11日には参謀本部の要請によって日露戦争以来の[[御前会議]]が開かれる。参謀本部は御前会議開催について、「戦勝国が敗戦国に対し過酷な条件を強要する」ことを戒める意味がある、と説明した。参謀本部は最後まで交渉による和平を主張するが、1月15日に政府は最終的に交渉の打ち切りを決定した。
介石は「日本側の条件は、わが国を征服して滅亡させるためのものだ。屈服してほろびるよりは、戦って敗れてほろびたほうがよい」、「断固として拒絶せよ」と述べた。日本では1月11日には参謀本部の要請によって日露戦争以来の[[御前会議]]が開かれる。参謀本部は御前会議開催について、「戦勝国が敗戦国に対し過酷な条件を強要する」ことを戒める意味がある、と説明した。参謀本部は最後まで交渉による和平を主張するが、1月15日に政府は最終的に交渉の打ち切りを決定した。


この時、広田が「私の永い間の外交官生活の経験から見て、中国側の態度は、和平解決の誠意のない事は明らかであると信じます。参謀次長は外務大臣を信用することができませんか?」と発言。米内はこれに同調し「政府は外務大臣を信頼しております。統帥部が外務大臣を信用しないという事は、政府不信任である。それでは政府は辞職せざるを得ない」と発言。これに対し、多田駿参謀次長は「[[明治天皇]]は、かって辞職なしと仰せられた。この国家重大の時期に、政府が辞職するなど何事でありますか」と応酬したとされ、最終的に多田が内閣総辞職の政府側の圧力に屈した形になった。しかし、なお参謀本部は諦めず最後の賭として、[[昭和天皇]]への上奏により政府決定の再考を得ようとした。しかし、先に上奏した近衛によって、参謀本部の試みは阻まれた。このような打ち切りに際しては、政権との和平交渉継続を強く主張し、第一次近衛声明の発表を断固阻止しようと食い下がる多田参謀次長に対し、米内海相が[[大本営政府連絡会議]]で「内閣総辞職になるぞ!」と恫喝して黙らせたことが知られる。
この時、広田が「私の永い間の外交官生活の経験から見て、中国側の態度は、和平解決の誠意のない事は明らかであると信じます。参謀次長は外務大臣を信用することができませんか?」と発言。米内はこれに同調し「政府は外務大臣を信頼しております。統帥部が外務大臣を信用しないという事は、政府不信任である。それでは政府は辞職せざるを得ない」と発言。これに対し、多田駿参謀次長は「[[明治天皇]]は、かって辞職なしと仰せられた。この国家重大の時期に、政府が辞職するなど何事でありますか」と応酬したとされ、最終的に多田が内閣総辞職の政府側の圧力に屈した形になった。しかし、なお参謀本部は諦めず最後の賭として、[[昭和天皇]]への上奏により政府決定の再考を得ようとした。しかし、先に上奏した近衛によって、参謀本部の試みは阻まれた。このような打ち切りに際しては、政権との和平交渉継続を強く主張し、第一次近衛声明の発表を断固阻止しようと食い下がる多田参謀次長に対し、米内海相が[[大本営政府連絡会議]]で「内閣総辞職になるぞ!」と恫喝して黙らせたことが知られる。


翌16日、近衛内閣は「帝國政府は爾後国民政府を対手とせず。真に提携するに足りる新興支那政権に期待し、これと国交を調整して更生支那の建設に協力せんとす」と声明を発した([[近衛声明|第一次近衛声明]])。同時に日本はドイツ側に和平交渉への謝意と共に打ち切りを伝え、ここに交渉は終了した。
翌16日、近衛内閣は「帝國政府は爾後国民政府を対手とせず。真に提携するに足りる新興支那政権に期待し、これと国交を調整して更生支那の建設に協力せんとす」と声明を発した([[近衛声明|第一次近衛声明]])。同時に日本はドイツ側に和平交渉への謝意と共に打ち切りを伝え、ここに交渉は終了した。
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== 補足 ==
== 補足 ==
トラウトマン和平工作は太平洋戦争へ至る重大な政策の過程であったにも関わらず、[[日本の歴史|日本近代史]]ではあまり取り扱われない事柄である。これ以降、中国側の呑めない過酷な条件により和平が出来ず、1938年1月の近衛声明(「国民政府を対手とせず」)で、2年間半近く日中関係は最悪の状態になった。しかし、1940年に行われた[[桐工作]]では条件を緩和させ、介石、[[板垣征四郎]]、[[汪兆銘]]の三者が参加する大物会談に発展する和平工作になった。しかし桐工作の条件である華北への日本軍の防共駐屯は介石が断固として反対し、交渉中に成立した[[第2次近衛内閣]]で陸相に就任した[[東條英機]]も日本陸軍の中国からの無条件撤退に断固として反対した。
トラウトマン和平工作は太平洋戦争へ至る重大な政策の過程であったにも関わらず、[[日本の歴史|日本近代史]]ではあまり取り扱われない事柄である。これ以降、中国側の呑めない過酷な条件により和平が出来ず、1938年1月の近衛声明(「国民政府を対手とせず」)で、2年間半近く日中関係は最悪の状態になった。しかし、1940年に行われた[[桐工作]]では条件を緩和させ、介石、[[板垣征四郎]]、[[汪兆銘]]の三者が参加する大物会談に発展する和平工作になった。しかし桐工作の条件である華北への日本軍の防共駐屯は介石が断固として反対し、交渉中に成立した[[第2次近衛内閣]]で陸相に就任した[[東條英機]]も日本陸軍の中国からの無条件撤退に断固として反対した。


== 年表 ==
== 年表 ==
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* [[11月9日]] - 上海陥落。
* [[11月9日]] - 上海陥落。
* [[12月1日]] - 大本営が南京攻略を正式に発令。
* [[12月1日]] - 大本営が南京攻略を正式に発令。
* [[12月2日]] - 介石が第1次和平案受諾の意向をトラウトマンに伝える。
* [[12月2日]] - 介石が第1次和平案受諾の意向をトラウトマンに伝える。
* [[12月7日]] - 介石の和平案受諾の意向が日本政府に伝わる。
* [[12月7日]] - 介石の和平案受諾の意向が日本政府に伝わる。
* [[12月13日]] - 南京攻略戦終結。
* [[12月13日]] - 南京攻略戦終結。
* [[12月21日]] - 第2次和平案閣議決定、翌日駐日ドイツ大使に連絡。
* [[12月21日]] - 第2次和平案閣議決定、翌日駐日ドイツ大使に連絡。
* [[12月26日]] - 第2次和平案が介石に伝えられる。
* [[12月26日]] - 第2次和平案が介石に伝えられる。
1938年
1938年
* [[1月12日]] - 日本政府、回答を督促。
* [[1月12日]] - 日本政府、回答を督促。

2020年9月15日 (火) 13:35時点における版

トラウトマン和平工作(トラウトマンわへいこうさく)とは、1937年(昭和12年)11月から1938年(昭和13年)1月16日までの期間にドイツの仲介で行われた、日本中華民国国民政府間の和平交渉である。当時のオスカー・トラウトマン駐華ドイツ大使の名を取って、こう呼称される。

和平交渉の期間は、日中戦争支那事変)時の上海陥落直前から南京陥落1ヶ月後の間にあたる。実際には7月に起こった蘆溝橋事件直後より和平の道は探られていたが、具体的な和平交渉が始まったのは、11月初旬である。

概要

近衛文麿内閣

当時、ドイツは中国に軍事顧問を派遣するなど友好関係を築いていた(中独合作)。ゆえに中国権益の保護には大きな関心を抱いており、また日本の目が中国に向かって北方のソビエト連邦(ソ連)から逸れるのは望まざるところであったので、和平工作の仲介に乗り気であった。盧溝橋事件以降、緊迫した状態の中で第二次上海事変が勃発した。その中で日本は船津和平工作を踏襲した和平工作を行おうとした。

同時期の政府の四相は首相近衛文麿外相広田弘毅陸相杉山元海相米内光政であり、和平工作打ち切りの当事者である。本和平工作の特徴として、陸軍参謀本部のトップである参謀次長多田駿中将以下が終始停戦・交渉・和平を強く主張し[1]政府海軍および陸軍省らがそれを阻止し和平を打ち切るという、戦後の一般的なイメージ(陸軍悪玉論・海軍善玉論)とは逆の構造となっている。つまり日中戦争は、満州事変での関東軍の暴走とは異なり、政府と海軍が後押ししており、必ずしも陸軍単体の「下剋上」や「暴走」ではなかったと言える。[要出典]

1937年09月

事変の収拾に関する日本政府の基本的立場は、あくまで日中間の問題として解決し、第三国の斡旋や干渉を排除するというものであった。しかし、9月に入り、長期戦の様相となると、軍事目的の達成に応じて「第三国の好意的斡旋」を活用する和平も視野に入ってくる。まず名乗りをあげたのはイギリスであった。9月中旬、新着任のロバート・クレイギー駐日大使が仲介の可能性について広田外相に打診を行い、広田は具体的な和平条件を提示している。それは、華北非武装地帯の設定、排日取締りと防共協力を条件に華北政権の解消と国民政府の行政容認、満州国の不問などであった。これらの条件は蔣介石に伝えられたが、国際的な圧力や制裁を期待する蔣は受諾に否定的であった。このとき国際連盟では、中国政府の提訴を受け9月中旬から日中紛争を審議中であった[2]

1937年10月

戦局が激しくなる中、日本は1937年(昭和12年)10月1日に「支那事変対処要綱」を四相決定(総理、外務、陸軍、海軍)し、停戦条件と国交調整方針を策定した。10月下旬、九カ国条約関係国会議(ブリュッセル会議)の対日招請状が届くと、日本は不参加を決定したが、同時に「軍事行動の目的がほぼ達成された時期には第三国の公正な和平斡旋を受理する」方針を外務省・陸軍省・海軍省との間で三省決定した。陸軍参謀本部に所属していた石原莞爾少将の第一部長離任転出直前、第二部の馬奈木敬信中佐が「今度支那の大使に着任したトラウトマンはベルリンで補佐官をしていた時代の友人である」と言ったので、石原は「それは願ってもない。すぐ支那に行ってトラウトマンと会い、日支和平工作の手がかりを作ってくれ」と、馬奈木を上海に行かせた。この後、石原は第一部長を離任、満州国の関東軍へ転出した。日本政府と軍部の首脳は早急に戦争を終えたいとの気持ちから、第三国の公正な斡旋の申し出があった場合は船津和平工作案の範囲内で受諾するとの方針を外務省と陸海軍三者間で決め、広田弘毅外相より10月27日、イギリスアメリカフランス、ドイツ、イタリアに対して、日支交渉のための第三国の好意的斡旋を受諾する用意のあることを伝えた。


10月30日、トラウトマンは、国民政府外交部次長陳介を訪問し、ドイツはコミュニケーションのチャンネルとして奉仕する用意があることを伝えた。陳介は、蔣介石元帥が日本の条件は何であるかを知りたがっていると述べた。トラウトマンは現時点でまだ日本の条件をはっきり掴んでいないため、「私が数日中に元帥と会談することを望んでいる」と答えることに留まった。だが、国民政府に次の二点を伝えるように勧めた。すなわち、「我々が日本へのコミュニケーションのチャンネルとして奉仕する意志を持っていること、そして、私が日本政府に対し、先ず、中国が和解の用意があるとだけ伝える権限を与えられていること」であった。なにゆえに蔣介石が講和を受け入れようとしたのだろうか。実は馬奈木とオットーが上海に到着したころ、10月25日、国民政府国防会議が「停戦問題」を議題に秘密会議を開催している。

1937年11月

11月03日、クレーギーイギリス大使より堀内次官のところへ九ヵ国条約会議に関する重要な情報がもたらされた。それは会議に臨む諸国の基本姿勢を伝えたものである。大使は本国政府に対し、ブリュッセル会議においては

1.対日制裁は論議すべからず。
2.来だ適当の時期にあらざるを以て即時調停又は斡旋を決すべからず。
3.此の際東亜に特殊の利害関係あるに、三国より成る小委員会を設置して日支問題に関し連絡を保持せしめ適当の時期を俟ち一国又は数国にて斡旋をなす途を開き置くべく要するに此の際将来に於ける単独の斡旋の途を全然閉塞せざること最も肝要なる。
旨の意見を上申[3]

したのである。しかも、「右意見ハ当地ニテ米、仏、白三国大使ニモ之ヲ内諾シタルニ何レモ賛成シ三国大使ヨリ夫々本国政府へ上申セル次第ニシテ武府会議ニ対シ相当効果アルモノト思考ス」とも言っている。すなわち、イギリス側は、集団力による対日制裁の方向を否定し、日本が力をいれている第三国仲介を通しての対中国直接交渉の方向に同調したのである。これは日本が推進している「トラウトマン工作」に一気に拍車を駆ける結果となったのである。

第二次上海事変で、蔣介石はドイツ式の精鋭部隊をすべて失った。一方、広田はいわゆる第1条件を提示した。そして同時に広田は戦争が継続される場合には、この条件ははるかに加重されるであろうと強調した[4]

実は7月29日の閣議で承認されたもので、開戦前の事態収拾案である。参謀本部はこの戦争を局地戦と考えていた。戦果による条件の改変を考えていなかったし外交に属することは関与を避けた。ただこの時参謀本部の情報部はかなり正確に国民革命軍(国府軍)の暗号を解読していたとみられ、国民党政府内部の情況についてよく把握していた。蔣介石が日本側の和平提案やブリュッセル会議へ関心をもったため国府軍の全面退却はやや遅巡しており結果としての混乱を歓迎する面もあった。

11月上旬に広田から日本の和平条件7項目をディルクセン駐日ドイツ大使が接受し、ベルリンのアドルフ・ヒトラーの諒承を得て、トラウトマン大使が王寵恵外交部長に日本の意向を伝えたが、王は蔣介石の意見として、『中国は国際連盟に提訴してあり、九カ国条約の関係国がブリュッセルで会議中なので、その結果を見るまでは、日本の条件を考応すべきではない』との返事をした。11月2日に広田は第1条件をディルクセンに手渡し、11月3日にディルクセンはドイツ外務省に会談の模様を報告し、「日本は確かに以上のような条件を基礎とした和平を希望している。もし南京政府がこれらの条件を受け入れなければ、日本は、中国の最後の崩壊まで無情にも戦争を続ける決心である。私の意見では、これらの条件は極めて穏健であり、南京が面子を失わずにこれらの条件を受け入れることができよう。われわれは現在、これらの条件を受諾するよう南京に圧力を加える必要があろう」と述べた。ドイツ外務省も日本側の示した条件は交渉開始の基礎として妥当なものと判断し、同日トラウトマン大使宛てにこれを中国側に伝えるよう訓令した。11月5日に蔣介石は第1条件を入手した。

1.外蒙と同じ国際的地位を持つ内蒙自治政府の樹立。
2.華北に、満州国境より天津北京にわたる非武装地帯を設定、中国警察隊が治安維持[5]。ただちに和平が成立するときは華北の全行政権は南京政府に委ねられるが、日本としては長官には親日的人物を希望する。もし直ちに和平が成立しない場合は新しい行政機関を設ける必要がある。この新機関は平和が結ばれた後にもその機能を継続する(ただし今日までのところ日本側には華北新政権を設立する意向はない。)。
3.上海に非武装地帯を拡大し、国際警察により管理する。
4.排日政策の停止。
5.中ソ不可侵条約と矛盾しない形での共同防共。
6.日本製品に対する関税引き下げ。
7.中国における外国人の権利の尊重。[6]

上記の条件では満州国の正式承認は要求していない。

11月6日、トラウトマンは、孔祥煕実業部長だけが列席している場で蔣介石に日本側の意向を伝えた。蔣介石は現在これに応じられないと回答した。蔣介石は第一次案がトラウトマンより示された時にこう述べた、「日本側が事変前の状態に復帰するのでない限り、どんな要求も受諾できない」、「もし自分がこの(日本側の)条件を受諾したら、わが政府世論の大浪に押し流されてしまうだろう。…日本のやり方でわが政府が倒されれば、共産主義政権が誕生するだろうが、その結果は日本にとって和平の機会の消滅である。共産主義者は決して降伏しないだろうからである」と極秘に述べた。一部分の条件については討議し、友好なる諒解を求めることもできるが、これらはすべて事変前の状態に回復することを前提としなければならない」と強い口調で返答したのである。蔣介石が事変前の状態回復を強く主張したのは、彼自身の説明によれば、もし、日本側の要求を受諾すれば、中国政府は世論によって押しつぶされ、中国に革命が起こるだろうという判断による。中国は抵抗によって勝利をかち取る可能性はないが、中国政府の崩壊は共産党が中国で優位を占めること、すなわち、日本と中国の講和は永遠に不可能である、ということになる。それでは、中国側が言う事変前の状態とは具体的にどういう内容だったのだろうか。石射局長の記録によれば、ディルクセン大使から次のような中国側の和平解決条件がもたらされた。

1.北支
北支の主権領土及行政の完整を確保し得れは経済開発、及資源の供給に関し相当の譲歩をなす。各国駐兵権を全部放棄せしむれは最も可なるも、然らされは日本の駐兵は義和団条約規定の地域とし、兵カは列国との振合に応し別に条約を以て定む。
2.上海
(a)8月13日以前の原状に復す
(b)上海停戦協定所定の地域内に於て、武装団体防御施設禁止に関するか如き事項は国際協定を以て規定す。日本及列国の上海に於ける駐兵及軍事施設は租界守備区誠に必要なる最小限度に減し、其兵かは現共同委員会又は別の委員会に於て研究決定す、右有効期限を当分5年とす。
(c)前項区域は略現停戦協定区域とし之を著しく拡張するは不可なり。

これを概観するとわかるように、中国の最大の関心は、華北における中央の主権と日本の駐兵に開する制限を実現することであった。

蔣介石は、開催中のブリュッセル会議において、なんらかの形で対日制裁が決議されるものと期待していたので回答を留保した。

上海陥落の前日の11月11日、蔣介石は首都南京で、南京を放棄するか、死守するか、李宗仁白崇禧何応欽唐生智徐永昌、ドイツの軍事顧問団団長のアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンといった将軍らと善後策を諮っていた。李宗仁は「私は南京防守に反対である。その理由は戦術上、南京は他と隔絶しており、敵は三方から包囲可能で、しかも北面は長江によって退路が阻まれている。今、挫折敗北を喫した部隊を孤城の防衛に配置しても、長く守ることは望みがたい」と述べた。ドイツ人顧問もこれに賛成し、無用の犠牲は生まぬよう、南京放棄を「極力主張」した。このように南京放棄論が大勢を占めていたが、突如、唐生智が南京死守を力説する。そこで、蔣介石は、「わが血肉をもって南京城と生死を共にする」と誓う唐生智を南京防衛軍司令官に任命し、南京死守を決定した。しかし、唐は後に徹底抗戦を叫びながら降伏の手続きをせずに逃亡してしまう。

だが日本はなお和平への望みをあきらめず、ブリュッセル会議最終日の11月15日、広田はアメリカのグルー大使に「日本軍の上海での作戦は順調だがこれ以上支那軍を追撃する必要はない。この時期に平和解決を図るのは支那自身のためになり、支那政府が南京を放棄するのは非常に愚かなことだ」等を述べ、現在ならば日本の講和条件は穏当なものであるので、アメリカが蔣介石に対し和平交渉に応ずうよう説得してほしいと希望し、もし支那側に和平の意思があるなら、日本は代表者を上海に派遣しようとまで語った。

蔣介石は大場鎮(上海近郊)陥落をもって敗北とみなす軍事顧問ファルケンハウゼンの進言を容れず、また英米などの干渉により日本が国府軍の殲滅に乗り出さず、戦線を維持できると観測した。広田への回答はせず引き延ばしを図った。

首都南京からの撤退に蔣介石が反対し、固守方針を定めた。11月20日の重慶への「遷都宣言」で蔣介石は「盧溝橋事件発生以来…日本の侵略は止まる事を知らず…各地の将士は奮って国難に赴き…死すとも退かず…日本は更に暴威を揮い…わが首都に迫る…およそ血気ある者で瓦全より玉砕を欲せざる者はない。…」と述べ、戦争に固執した。

壊走した国府軍への日本軍の網は締まりつつあった。国民党政府要人誰もが11月中旬には破滅的な事態となりつつあることを認識し始めた。11月28日から蔣介石は第1条件受諾の根回しを開始した。12月2日午後4時の南京にて、蔣介石は徐永昌、唐生智、白崇禧、顧祝同銭大鈞らを招集し日本側の条件についての意見を求めた。

和平条件に「華北の全行政権は南京政府に委ねる」が記載されているため、白崇禧は「こんな条件ならなぜ戦争するのか」、徐永昌は「これだけの条件なら承認してよい」と述べた。顧祝同は受諾に賛成、最後に唐生智が「みなが賛成なら賛成でいい」といったという。最後に蔣介石は「ドイツの調停は拒否すべきでない」「華北の政権は保持しなければならない」と言明した。

1937年12月

12月2日、蔣介石は第1条件を交渉の基礎として受け入れることをトラウトマンに伝達した。しかしこの段階でも蔣介石の対日不信は根強く「日本に対してはあえて信用できない。日本は条約を平気で違約し、話もあてにならない」と不信を露わにしつつ、「華北の行政主権は、どこまでも維持されねばならぬ。この範囲においてならば、これら条件を談判の基礎とすることができる。」ただし「日本が戦勝国の態度を以て臨み、この条件を最後通牒としてはならない」などとした。

しかしながら、中国側が返答を保留している間に、日本は上海を攻略し次いで南京を攻略した。12月13日に、日本軍が南京陥落。日本国内では「強硬論」が強まった。日本政府は、講和条件を賠償を含む厳しい条件にした。12月21日の閣議で新条件を決定した。東亜局長の石射猪太郎は発言権のない立場にもかかわらず、思わず「かくのごとく条件が加重されるのでは、中国側は到底和平に応じないであろう」と発言したが無視された。絶望した石射は、当日の日記に「こうなれば案文などどうでもよし。日本は行く処まで行って、行き詰らねば駄目と見切りをつける」と記している。

支那は容共抗日満政策を放棄し、日満両国の防共政策に協力する。
所要地域に非武装地帯をもうけ特殊の機構を設定する。
日満支三国間に緊密な経済協定を締結する。
支那は帝国にたいして所要の賠償をする。

以上の他口頭説明として細目を次のように付加した

支那は満州国を承認する。
支那は排日反満政策を放棄する。
北支・内蒙古に非武装地帯を設定する。
北支は支那主権の下において、日満支三国の共存共栄を実現するに適当な機構を設定しこれに広汎な権限を与え日満支経済合作の実をあげる。
内蒙古に防共自治政府を設定する。
支那は防共政策を確立し、日満両国の防共政策遂行に協力する。
日本軍の中支占拠地域に非武装地帯を設定して、特殊機構を設ける。また上海市には租界外に特殊政権をもうけ日支協力して治安維持と経済発展にあたる。
日満支三国は資源開発、関税、交易、航空、通信に関し協定を締結する。
支那は帝国にたいし所要の賠償をする。

付記

北支・内蒙古・中支の一定地域に必要な期間、日本軍の保障駐屯することを認める。
前諸項に関する日支間の協定成立後に停戦する 。

広田は回答期限を1月5日として、12月22日にこれをディルクセンに提出した。日本政府は、南京攻略後の12月下旬に満州国の承認と賠償等の条件を加重した第2次和平案を国民政府に伝えた。蔣介石は第2次和平案には態度を硬化させ、交渉打ち切りを視野に入れながら詳細を日本側に問い合わせたため、第一次近衛内閣は遷延策であると判断して交渉を打ち切ることを決定した。

加重の理由は、第二次上海事変は中国軍による上海の日本海軍に対する奇襲攻撃をもって始まり、上海戦における日本側犠牲者は日露戦争旅順攻撃における犠牲者に匹敵(4万1千人)するものであったからと言われている。

1938年1月

多田駿中将。支那駐屯軍司令官、参謀本部次長でも日中和平を唱えていた

蔣介石は「日本側の条件は、わが国を征服して滅亡させるためのものだ。屈服してほろびるよりは、戦って敗れてほろびたほうがよい」、「断固として拒絶せよ」と述べた。日本では1月11日には参謀本部の要請によって日露戦争以来の御前会議が開かれる。参謀本部は御前会議開催について、「戦勝国が敗戦国に対し過酷な条件を強要する」ことを戒める意味がある、と説明した。参謀本部は最後まで交渉による和平を主張するが、1月15日に政府は最終的に交渉の打ち切りを決定した。

この時、広田が「私の永い間の外交官生活の経験から見て、中国側の態度は、和平解決の誠意のない事は明らかであると信じます。参謀次長は外務大臣を信用することができませんか?」と発言。米内はこれに同調し「政府は外務大臣を信頼しております。統帥部が外務大臣を信用しないという事は、政府不信任である。それでは政府は辞職せざるを得ない」と発言。これに対し、多田駿参謀次長は「明治天皇は、かって辞職なしと仰せられた。この国家重大の時期に、政府が辞職するなど何事でありますか」と応酬したとされ、最終的に多田が内閣総辞職の政府側の圧力に屈した形になった。しかし、なお参謀本部は諦めず最後の賭として、昭和天皇への上奏により政府決定の再考を得ようとした。しかし、先に上奏した近衛によって、参謀本部の試みは阻まれた。このような打ち切りに際しては、蔣政権との和平交渉継続を強く主張し、第一次近衛声明の発表を断固阻止しようと食い下がる多田参謀次長に対し、米内海相が大本営政府連絡会議で「内閣総辞職になるぞ!」と恫喝して黙らせたことが知られる。

翌16日、近衛内閣は「帝國政府は爾後国民政府を対手とせず。真に提携するに足りる新興支那政権に期待し、これと国交を調整して更生支那の建設に協力せんとす」と声明を発した(第一次近衛声明)。同時に日本はドイツ側に和平交渉への謝意と共に打ち切りを伝え、ここに交渉は終了した。

太平洋戦争大東亜戦争)後、文官である広田弘毅は日中戦争を開始・拡大させた責任を問われ、極東国際軍事裁判において絞首刑に処された。

補足

トラウトマン和平工作は太平洋戦争へ至る重大な政策の過程であったにも関わらず、日本近代史ではあまり取り扱われない事柄である。これ以降、中国側の呑めない過酷な条件により和平が出来ず、1938年1月の近衛声明(「国民政府を対手とせず」)で、2年間半近く日中関係は最悪の状態になった。しかし、1940年に行われた桐工作では条件を緩和させ、蔣介石、板垣征四郎汪兆銘の三者が参加する大物会談に発展する和平工作になった。しかし桐工作の条件である華北への日本軍の防共駐屯は蔣介石が断固として反対し、交渉中に成立した第2次近衛内閣で陸相に就任した東條英機も日本陸軍の中国からの無条件撤退に断固として反対した。

年表

1937年

  • 11月2日 - 交渉開始。第1次和平案が日本より駐日ドイツ大使に連絡される。
  • 11月3日 - ブリュッセル会議(15日迄)
  • 11月5日 - 国民政府に和平案が伝えられる。
  • 11月9日 - 上海陥落。
  • 12月1日 - 大本営が南京攻略を正式に発令。
  • 12月2日 - 蔣介石が第1次和平案受諾の意向をトラウトマンに伝える。
  • 12月7日 - 蔣介石の和平案受諾の意向が日本政府に伝わる。
  • 12月13日 - 南京攻略戦終結。
  • 12月21日 - 第2次和平案閣議決定、翌日駐日ドイツ大使に連絡。
  • 12月26日 - 第2次和平案が蔣介石に伝えられる。

1938年

  • 1月12日 - 日本政府、回答を督促。
  • 1月14日 - 国民政府より、和平案に対する問い合わせ。
  • 1月15日 - 大本営政府連絡会議の場で交渉打ち切りを決定。
  • 1月16日 - 日本政府、交渉打ち切りの声明。(第一次近衛声明)

脚注

  1. ^ 当時の参謀総長は皇族元帥閑院宮載仁親王大将であり、参謀本部の長としての事実上の実権は参謀次長である多田が握っている。
  2. ^ 戸部良一著『ピース・フィーラー支那事変和平工作の群像』67-71頁
  3. ^ 劉傑『日中戦争下の外交』より。
  4. ^ (「日独伊三国同盟の研究」85・86ページ)。
  5. ^ 冀東防共自治政府があった場所。
  6. ^ 大杉一雄『日中十五年戦争史 なぜ戦争は長期化したか』中央公論社中公新書〉、1996年、[要ページ番号]

関連項目