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「重慶爆撃」の版間の差分

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== 背景 ==
== 背景 ==
1937年の[[第二次上海事変]]の結果、日本軍は[[中華民国]]の[[首都]][[南京市|南京]]を攻略し占領した([[南京攻略戦]])。これに対して、[[介石]]の[[中国国民党]]政府は首都機能を南京から[[漢口]]に移転した。しかし漢口も陥落したため、さらに内陸である[[四川省|四川]]の重慶への首都移転を実行した。
1937年の[[第二次上海事変]]の結果、日本軍は[[中華民国]]の[[首都]][[南京市|南京]]を攻略し占領した([[南京攻略戦]])。これに対して、[[介石]]の[[中国国民党]]政府は首都機能を南京から[[漢口]]に移転した。しかし漢口も陥落したため、さらに内陸である[[四川省|四川]]の重慶への首都移転を実行した。


{{要出典範囲|[[大本営]]は地上軍による重慶の攻略を計画したが、重慶が天然の要害の地である事や、[[兵站]]の問題もあり、即時攻略は困難であるという結論に達した。|date=2020年3月}}
{{要出典範囲|[[大本営]]は地上軍による重慶の攻略を計画したが、重慶が天然の要害の地である事や、[[兵站]]の問題もあり、即時攻略は困難であるという結論に達した。|date=2020年3月}}
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== 爆撃の効果 ==
== 爆撃の効果 ==
[[File:Casualties of a mass panic - Chungking, China.jpg|250px|thumb|「防空壕に戻ろうとして踏みつけられたり窒息したりして死亡した人々」の写真(撮影:[[カール・マイダンス]])]]
[[File:Casualties of a mass panic - Chungking, China.jpg|250px|thumb|「防空壕に戻ろうとして踏みつけられたり窒息したりして死亡した人々」の写真(撮影:[[カール・マイダンス]])]]
{{要出典範囲|日本軍の航空部隊は介石の国民党政府を屈服させることは出来なかった。|date=2020年3月}}また、{{要出典範囲|百二号作戦で介石の司令部の位置を特定し施設を狙った爆撃を行ったとしている資料もあるが、そもそも当時の航法の限界([[無線通信|無線]]や[[レーダー]]などの誘導方法は当時存在しない)もあり、司令部施設に命中弾は無かった(2発命中とも言われるが、どちらにせよ介石は無事だった)。|date=2020年3月}}
{{要出典範囲|日本軍の航空部隊は介石の国民党政府を屈服させることは出来なかった。|date=2020年3月}}また、{{要出典範囲|百二号作戦で介石の司令部の位置を特定し施設を狙った爆撃を行ったとしている資料もあるが、そもそも当時の航法の限界([[無線通信|無線]]や[[レーダー]]などの誘導方法は当時存在しない)もあり、司令部施設に命中弾は無かった(2発命中とも言われるが、どちらにせよ介石は無事だった)。|date=2020年3月}}


{{要出典範囲|国民党司令部をピンポイントで狙ったという主張に対しては、成功の可能性や被害地域の広さから疑義が呈せられている。当初はある程度そのように意図した作戦だったものの、効果が上がらない為に目標付近を虱潰し攻撃する絨毯爆撃にシフトしていったとする説が有力である。|date=2020年3月}}
{{要出典範囲|国民党司令部をピンポイントで狙ったという主張に対しては、成功の可能性や被害地域の広さから疑義が呈せられている。当初はある程度そのように意図した作戦だったものの、効果が上がらない為に目標付近を虱潰し攻撃する絨毯爆撃にシフトしていったとする説が有力である。|date=2020年3月}}
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{{要出典範囲|国民党政府は軍事施設を重慶市内に置き住民を盾として、空爆に対する充分な都市防御策を取っておらず、[[防空壕]]の不足や換気装置の不備による事故などもあり、多数の犠牲者が発生した。|date=2020年3月}}
{{要出典範囲|国民党政府は軍事施設を重慶市内に置き住民を盾として、空爆に対する充分な都市防御策を取っておらず、[[防空壕]]の不足や換気装置の不備による事故などもあり、多数の犠牲者が発生した。|date=2020年3月}}


{{要出典範囲|1トン足らずの爆弾しか積めない日本軍の爆撃機による爆撃の効果については、日本軍内部に疑問視する声もあった。|date=2020年3月}}しかし、{{要出典範囲|現実には[[国民革命軍|中国軍]]に与えた心理的な影響は大きく、介石の日記によれば、ほとんど戦争を単独で遂行することができないまでに追い込まれたと感じていたという。|date=2020年3月}}
{{要出典範囲|1トン足らずの爆弾しか積めない日本軍の爆撃機による爆撃の効果については、日本軍内部に疑問視する声もあった。|date=2020年3月}}しかし、{{要出典範囲|現実には[[国民革命軍|中国軍]]に与えた心理的な影響は大きく、介石の日記によれば、ほとんど戦争を単独で遂行することができないまでに追い込まれたと感じていたという。|date=2020年3月}}


{{要出典範囲|この重慶爆撃に際しては、当時の日本軍[[戦闘機]]の[[航続距離]]が[[爆撃機]]のそれに及ばないため、奥地の重慶まで爆撃機を掩護できず、そのため日本軍爆撃機にかなりの被害が発生した。|date=2020年3月}}{{要出典範囲|重慶爆撃以前に立案され開発が進められていた十二試艦上戦闘機が[[零式艦上戦闘機|零式戦闘機]]として制式化、初めて戦線に投入され13機の零戦で27機の国民党軍機を全滅させる戦果を得るなど、重慶爆撃に貢献している。|date=2020年3月}}
{{要出典範囲|この重慶爆撃に際しては、当時の日本軍[[戦闘機]]の[[航続距離]]が[[爆撃機]]のそれに及ばないため、奥地の重慶まで爆撃機を掩護できず、そのため日本軍爆撃機にかなりの被害が発生した。|date=2020年3月}}{{要出典範囲|重慶爆撃以前に立案され開発が進められていた十二試艦上戦闘機が[[零式艦上戦闘機|零式戦闘機]]として制式化、初めて戦線に投入され13機の零戦で27機の国民党軍機を全滅させる戦果を得るなど、重慶爆撃に貢献している。|date=2020年3月}}

2020年9月15日 (火) 13:32時点における版

陸鷲重慶對岸の軍事施設爆碎 (八月十九日)=軍撮影」(『東京朝日新聞』昭和十五年八月二十四日 第一萬九千五百四十號)

重慶爆撃(じゅうけいばくげき)は、日中戦争支那事変)中の1938年12月18日から1943年8月23日にかけて、日本軍により断続的に218回行われた重慶に対する戦略爆撃[1]

背景

1937年の第二次上海事変の結果、日本軍は中華民国首都南京を攻略し占領した(南京攻略戦)。これに対して、蔣介石中国国民党政府は首都機能を南京から漢口に移転した。しかし漢口も陥落したため、さらに内陸である四川の重慶への首都移転を実行した。

大本営は地上軍による重慶の攻略を計画したが、重慶が天然の要害の地である事や、兵站の問題もあり、即時攻略は困難であるという結論に達した。[要出典]

立案

こうした状況を受けて大本営は1938年12月2日、中支那方面軍に対し「航空侵攻により敵の戦略中枢に攻撃を加えると共に航空撃滅戦の決行」との指示を出した。[要出典]しかし、直ちに大規模な爆撃を行う能力は当時の日本海軍には無く、また中国軍航空部隊の迎撃も無視する事は出来なかった。[要出典]

中央統帥部は現地部隊に対し「航空侵攻作戦は概ね1939年秋以降に実施するので、各部隊はそれを目処として、整備訓練に努めるように」と通達した。[要出典]

稼働率や飛行性能の劣るイ式100型重爆撃機イタリアフィアット社製BR.20)や防御火器が貧弱な九三式重爆撃機では、中国軍の迎撃や対空砲火で被害が増大したため、防備の固められた重慶に対しては、より新鋭の九七式重爆撃機九六式陸上攻撃機を主体とする陸海軍航空兵力による長距離侵攻を実施する事となった。[要出典]

作戦の実行

重慶爆撃を主導した井上成美支那方面艦隊参謀長
日本軍爆撃後の重慶(1941年)

爆撃は主に1939年から1941年の、視界が確保できる春から秋の間に行われ、投下した爆弾は1940年には延べ4333トンに達した[2]爆撃は海軍航空隊、陸軍航空隊それぞれが日程調整のうえ実施した。爆撃目標は「戦略施設」であり、1939年4月の現地部隊への指示では、「敵の最高統帥、最高政治機関の捕捉撃滅に勤めよ」とあり、アメリカイギリスなど第三国の施設への被害は避けるようにと厳命されていた。[要出典]しかし重慶の気候は霧がちで曇天の日が多いため目視での精密爆撃は難しく、目標施設以外に被害が発生する可能性があった。そのため後期からは目標付近に対して絨毯爆撃を行った。[要出典]

重慶爆撃のなかでも特に大規模な絨毯爆撃であったのが、海軍主導によって行われた1940年5月17日から9月5日までの百一号作戦、および1941年5月から8月までの百二号作戦である。日本の軍中枢で日中戦争とは別に対アメリカ・イギリス・オランダとの開戦が取りざたされはじめたことから、海軍、特に中国方面で作戦指導にあたっていた井上成美支那方面艦隊参謀長らが、日中戦争の早期終結を目的に提言した作戦であった。[要出典]

一方で陸軍ではこの百一号作戦と百二号作戦に対して飛行部隊を一時協同させたものの、効果が薄く無意味かつ非人道的・国際法に反する行為であるとして絨毯爆撃に強く反対する声があり、第3飛行団長として重慶爆撃を実施していた遠藤三郎陸軍少将が中止を主張、上級部隊である第3飛行集団木下敏陸軍中将に「重慶爆撃無用論」を1941年9月3日に提出している(遠藤第3飛行団長は実際に重慶を爆撃する九七式重爆に何度も搭乗し、その無意味さ・非人道性を確認している)。この「重慶爆撃無用論」は参謀本部作戦課にまで届き採用され、陸軍は重慶爆撃への参加を中止することとなった[3]

爆撃の効果

「防空壕に戻ろうとして踏みつけられたり窒息したりして死亡した人々」の写真(撮影:カール・マイダンス

日本軍の航空部隊は蔣介石の国民党政府を屈服させることは出来なかった。[要出典]また、百二号作戦で蔣介石の司令部の位置を特定し施設を狙った爆撃を行ったとしている資料もあるが、そもそも当時の航法の限界(無線レーダーなどの誘導方法は当時存在しない)もあり、司令部施設に命中弾は無かった(2発命中とも言われるが、どちらにせよ蔣介石は無事だった)。[要出典]

国民党司令部をピンポイントで狙ったという主張に対しては、成功の可能性や被害地域の広さから疑義が呈せられている。当初はある程度そのように意図した作戦だったものの、効果が上がらない為に目標付近を虱潰し攻撃する絨毯爆撃にシフトしていったとする説が有力である。[要出典]

国民党政府は軍事施設を重慶市内に置き住民を盾として、空爆に対する充分な都市防御策を取っておらず、防空壕の不足や換気装置の不備による事故などもあり、多数の犠牲者が発生した。[要出典]

1トン足らずの爆弾しか積めない日本軍の爆撃機による爆撃の効果については、日本軍内部に疑問視する声もあった。[要出典]しかし、現実には中国軍に与えた心理的な影響は大きく、蔣介石の日記によれば、ほとんど戦争を単独で遂行することができないまでに追い込まれたと感じていたという。[要出典]

この重慶爆撃に際しては、当時の日本軍戦闘機航続距離爆撃機のそれに及ばないため、奥地の重慶まで爆撃機を掩護できず、そのため日本軍爆撃機にかなりの被害が発生した。[要出典]重慶爆撃以前に立案され開発が進められていた十二試艦上戦闘機が零式戦闘機として制式化、初めて戦線に投入され13機の零戦で27機の国民党軍機を全滅させる戦果を得るなど、重慶爆撃に貢献している。[要出典]

爆撃への評価

重慶爆撃は、アメリカなどの連合国軍による日本本土空襲広島長崎への原子爆弾投下の正当性の根拠としても利用された。[要出典]一方で、日本の戦争犯罪を裁く極東国際軍事裁判では、連合国による大規模な日本無差別爆撃で重慶爆撃は問題とされず起訴もされなかった、絨毯爆撃を提案し百一号作戦と百二号作戦を推し進めた井上成美海軍大将なども戦犯指定はされていない。[要出典]

この爆撃による被害の規模については推測に頼る部分も大きい。さらに、それを日本軍がどの程度意図していたか、または作戦の付随的影響として許容されると判断していたかについても諸説あり、現在も論争の対象となっている。[要出典]

当時、一人で重慶で取材をしながら、重慶爆撃を体験したアメリカ人ジャーナリスト、エドガー・スノーは、重慶爆撃を通じて日本軍が勝利するには、空からだけではなく、地上部隊の重慶突入が不可欠だと指摘した。張鴻鵬は「スノーのこの指摘は上述した遠藤三郎の主張と一致していると思う。」と主張した。吉田曠二によると、当時「日本の陸海軍部隊は長期に及ぶ重慶戦略爆撃で、その航空燃料と戦争資源を消耗し、80万人の陸軍の地上部隊もソ満国境から中国大陸の各地に分散したままで、とても重慶に集中して敵の首都に突入する余力は見出しえなかった。」という[4]

重慶爆撃の戦史上の位置づけ

重慶爆撃は日中戦争・第二次世界大戦と続くこの時期の世界戦争の中で、1937年のゲルニカ爆撃に続く最初期の組織的な戦略爆撃に位置づけられる[要出典][注釈 1][注釈 2][注釈 3]

重慶爆撃を題材とした作品

映画

脚注

注釈

  1. ^ ゲルニカ以前にも、第一次世界大戦期にドイツによるロンドン空爆(1915年5月31日飛行船ツェッペリン)や、ゴータ G.IVを利用したイギリス本土爆撃などがある。ドイツによる戦略爆撃 (第一次世界大戦)も参照。[要出典]
  2. ^ 日本軍による初の都市空爆は満州事変のさいに関東軍独立飛行第一〇中隊主力により実施された1931年10月8日の錦州爆撃である。但し計画立案者の石原莞爾は偵察中に応射を受けたため自衛のための反撃および誤爆としている。[要出典]
  3. ^ 戦時国際法に抵触する空襲手段を採用した別の嚆矢としてはイタリア空軍が挙げられる。1935年から39年にかけてエチオピアで500トン以上の化学剤(マスタード剤)の投下をおこなっている。[要出典]

出典

  1. ^ 日付・回数は『戦略爆撃の思想―ゲルニカ・重慶・広島』(前田哲男 凱風社)による。[要ページ番号]
  2. ^ 佐々木隆爾編 『昭和史の事典』[要ページ番号]
  3. ^ 愛知大学リポジトリ 愛知大学国際問題研究所 張鴻鵬『遠藤三郎と重慶爆撃 ──「北進」から「南進」への国策転換──
  4. ^ 張鴻鵬. “遠藤三郎と重慶爆撃”. 愛知大学国際問題研究所紀要 (愛知大学) 146. https://aichiu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=7829&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1 2020年3月19日閲覧。. 

参考資料

関連項目