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「橘大郎女」の版間の差分

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'''橘大郎女'''(たちばな の おおいらつめ、生没年不詳)は、[[飛鳥時代]]の[[皇族]]。[[聖徳太子]]の妃。父は[[尾張皇子]]([[敏達天皇]]の皇子)で[[推古天皇]]の孫にあたる。'''位奈部橘王'''(いなべのたちばなのおおきみ)ともいう。子に[[白髪部王]]、[[手嶋女王]]。
'''橘大郎女'''(たちばな の おおいらつめ、生没年不詳)は、[[飛鳥時代]]の[[皇族]]。[[聖徳太子]]の妃。父は[[尾張皇子]]([[敏達天皇]]の皇子)で[[推古天皇]]の孫にあたる。'''位奈部橘王'''(いなべのたちばなのおおきみ)ともいう。子に[[白髪部王]]、[[手嶋女王]]。


== 天寿国曼荼羅帳 ==
== 天寿国曼荼羅帳 ==
[[622年]]に聖徳太子が薨去すると、橘大郎女は推古天皇に願い出て、釆女に'''天寿国曼荼羅帳'''(てんじゅこくまんだらしゅうちょう、天寿国帳とも言う)を作らせた。これは、聖徳太子の死を悼んで、死後に行ったとされる'''天寿国'''の様子を描かせたものと言われる。現存する日本最古の刺で、[[国宝]]に指定されている。[[中宮寺]]に伝わっていたが、大部分が失われ、現在では残片が残るのみである。(別項「[[天寿国帳]]」を参照。)
[[622年]]に聖徳太子が薨去すると、橘大郎女は推古天皇に願い出て、釆女に'''天寿国曼荼羅帳'''(てんじゅこくまんだらしゅうちょう、天寿国帳とも言う)を作らせた。これは、聖徳太子の死を悼んで、死後に行ったとされる'''天寿国'''の様子を描かせたものと言われる。現存する日本最古の刺で、[[国宝]]に指定されている。[[中宮寺]]に伝わっていたが、大部分が失われ、現在では残片が残るのみである。(別項「[[天寿国帳]]」を参照。)


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2020年9月15日 (火) 12:52時点における版

橘大郎女(たちばな の おおいらつめ、生没年不詳)は、飛鳥時代皇族聖徳太子の妃。父は尾張皇子敏達天皇の皇子)で推古天皇の孫にあたる。位奈部橘王(いなべのたちばなのおおきみ)ともいう。子に白髪部王手嶋女王

天寿国曼荼羅繡帳

622年に聖徳太子が薨去すると、橘大郎女は推古天皇に願い出て、釆女に天寿国曼荼羅繡帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう、天寿国繡帳とも言う)を作らせた。これは、聖徳太子の死を悼んで、死後に行ったとされる天寿国の様子を描かせたものと言われる。現存する日本最古の刺繡で、国宝に指定されている。中宮寺に伝わっていたが、大部分が失われ、現在では残片が残るのみである。(別項「天寿国繡帳」を参照。)