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承和10年([[843年]])には従者から謀反を企んでいると告発されて左衛門府に拘禁されていた[[文室宮田麻呂]]の尋問を担当し<ref>『続日本後紀』承和10年12月26日条</ref>、宮田麻呂は[[伊豆国]]への[[流罪]]となった<ref>『続日本後紀』承和10年12月29日条</ref>。
承和10年([[843年]])には従者から謀反を企んでいると告発されて左衛門府に拘禁されていた[[文室宮田麻呂]]の尋問を担当し<ref>『続日本後紀』承和10年12月26日条</ref>、宮田麻呂は[[伊豆国]]への[[流罪]]となった<ref>『続日本後紀』承和10年12月29日条</ref>。


その後、[[弁官|左少弁]]を兼ねる。承和12年([[845年]])に[[法隆寺]]の僧侶・[[善愷]]による同寺[[檀那|壇越]]の[[少納言]]・[[登美直名]]に対する告訴を他の弁官と共に審理し、直名を遠流とする。この訴訟の手続きを巡って、翌承和13年([[846年]])になってから審理に参加しなかった右少弁・[[伴善男]]が審理を行った5名の弁官を弾劾する。結局この弾劾は認められ、岳雄は他の弁官と共に私罪にあたるとして解官の上で[[贖銅]]10斤を課された([[善がい訴訟事件|善愷訴訟事件]])<ref>『続日本後紀』承和13年11月14日条</ref>。さらに承和14年([[847年]])には弾劾された4人の元弁官と共に[[位記]]を破毀されている。
その後、[[弁官|左少弁]]を兼ねる。承和12年([[845年]])に[[法隆寺]]の僧侶・[[善愷]]による同寺[[檀那|壇越]]の[[少納言]]・[[登美直名]]に対する告訴を他の弁官と共に審理し、直名を遠流とする。この訴訟の手続きを巡って、翌承和13年([[846年]])になってから審理に参加しなかった右少弁・[[伴善男]]が審理を行った5名の弁官を弾劾する。結局この弾劾は認められ、岳雄は他の弁官と共に私罪にあたるとして解官の上で[[贖銅]]10斤を課された([[善愷訴訟事件]])<ref>『続日本後紀』承和13年11月14日条</ref>。さらに承和14年([[847年]])には弾劾された4人の元弁官と共に[[位記]]を破毀されている。


翌[[嘉祥]]元年12月([[849年]]1月)には事件で位記を破毀された元弁官が本位より一階降格した上で再叙されているが、『[[続日本後紀]]』に岳雄に関する記述はなく<ref>『続日本後紀』嘉祥元年12月25日条</ref>、また『[[尊卑分脈]]』でもこの事件で官位を剥奪されて間もなく卒したとの記述があり、これまでには没していたと考えられる。
翌[[嘉祥]]元年12月([[849年]]1月)には事件で位記を破毀された元弁官が本位より一階降格した上で再叙されているが、『[[続日本後紀]]』に岳雄に関する記述はなく<ref>『続日本後紀』嘉祥元年12月25日条</ref>、また『[[尊卑分脈]]』でもこの事件で官位を剥奪されて間もなく卒したとの記述があり、これまでには没していたと考えられる。

2020年9月14日 (月) 23:05時点における版

 
藤原岳雄
時代 平安時代初期
生誕 不明
死没 承和14年(847年
官位 従五位下左少弁
主君 仁明天皇
氏族 藤原南家巨勢麻呂
父母 父:藤原三成、母:藤原真夏
兄弟 岳守岳雄、宜行、是行
従五位下伊予娘、秦広当娘
千乗、助猷、正範、江典、統則、彜倫、忠憲、利法、有式
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藤原 岳雄(ふじわら の おかお)は、平安時代初期の貴族藤原南家巨勢麻呂流、春宮亮藤原三成の子。官位従五位下左少弁

経歴

承和8年(841年従五位下に叙爵し、のち左衛門権佐に任ぜられる。

承和9年(842年)に発生した承和の変では、右馬助・佐伯宮成らと共に近衛兵を率いて、大納言藤原愛発中納言藤原吉野参議文室秋津を呼び出して拘束し幽閉する役目を果たしている[1]

承和10年(843年)には従者から謀反を企んでいると告発されて左衛門府に拘禁されていた文室宮田麻呂の尋問を担当し[2]、宮田麻呂は伊豆国への流罪となった[3]

その後、左少弁を兼ねる。承和12年(845年)に法隆寺の僧侶・善愷による同寺壇越少納言登美直名に対する告訴を他の弁官と共に審理し、直名を遠流とする。この訴訟の手続きを巡って、翌承和13年(846年)になってから審理に参加しなかった右少弁・伴善男が審理を行った5名の弁官を弾劾する。結局この弾劾は認められ、岳雄は他の弁官と共に私罪にあたるとして解官の上で贖銅10斤を課された(善愷訴訟事件[4]。さらに承和14年(847年)には弾劾された4人の元弁官と共に位記を破毀されている。

嘉祥元年12月(849年1月)には事件で位記を破毀された元弁官が本位より一階降格した上で再叙されているが、『続日本後紀』に岳雄に関する記述はなく[5]、また『尊卑分脈』でもこの事件で官位を剥奪されて間もなく卒したとの記述があり、これまでには没していたと考えられる。

官歴

続日本後紀』による。

系譜

『尊卑分脈』による。

  • 父:藤原三成
  • 母:藤原真夏の娘
  • 妻:従五位下伊予娘(姓不詳)
  • 妻:秦広当の娘
  • 生母不詳の子女
    • 男子:藤原江典
    • 男子:藤原統則
    • 男子:藤原彜倫
    • 男子:藤原忠憲
    • 男子:藤原利法
    • 男子:藤原有式

脚注

  1. ^ 『続日本後紀』承和9年7月23日条
  2. ^ 『続日本後紀』承和10年12月26日条
  3. ^ 『続日本後紀』承和10年12月29日条
  4. ^ 『続日本後紀』承和13年11月14日条
  5. ^ 『続日本後紀』嘉祥元年12月25日条

出典