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*読売新聞の''' 真柄''' カメラマンは、入城式の二日ぐらい前に土手のある小さい川に中国人二百人位が「機関銃でやられていた。あれが世にいう“南京大虐殺”だったのではないのか」と証言<ref>鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』1973,P.225</ref>。 |
*読売新聞の''' 真柄''' カメラマンは、入城式の二日ぐらい前に土手のある小さい川に中国人二百人位が「機関銃でやられていた。あれが世にいう“南京大虐殺”だったのではないのか」と証言<ref>鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』1973,P.225</ref>。 |
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*映画「[[南京 (戦線後方記録映画)|南京]]」の製作者の''' 白井茂''' は「虐殺の現場は二度見た。一度は柵があったように思う。はるか離れているところで、銃殺していた。数は覚えていない。揚子江でない川のところで、機関銃で撃っているところも見た。(略)川にとび込んで、向うに泳ぎついた者もいた。二百人ぐらいいたと思う。場所は覚えていない。当時、“大虐殺”という噂はなかった。」と証言<ref>鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』1973,P.227</ref>。 |
*映画「[[南京 (戦線後方記録映画)|南京]]」の製作者の''' 白井茂''' は「虐殺の現場は二度見た。一度は柵があったように思う。はるか離れているところで、銃殺していた。数は覚えていない。揚子江でない川のところで、機関銃で撃っているところも見た。(略)川にとび込んで、向うに泳ぎついた者もいた。二百人ぐらいいたと思う。場所は覚えていない。当時、“大虐殺”という噂はなかった。」と証言<ref>鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』1973,P.227</ref>。 |
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*映画「[[南京 (戦線後方記録映画)|南京]]」の録音技師の''' 藤井慎一''' は「[[ |
*映画「[[南京 (戦線後方記録映画)|南京]]」の録音技師の''' 藤井慎一''' は「[[挹江門事件|挹江門]]付近は物凄い死体で、死骸の上に板を渡し、その上を自動車が通っているほどだった。空襲のあとが生々しかった。小さな川の傍らの門の中で捕虜らしき者を撃っているのを見た。(略)白井氏と一緒だった。(略)それ以外にも、銀行の裏で百人以上が殺されているのを見た。(略)虐殺の噂はきいたように思うが、見たのはこの時だけである。」と証言<ref>鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』1973,P.228</ref>。 |
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2020年9月14日 (月) 23:01時点における版
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南京事件の証言では、南京事件の証言について解説する。
日本人による証言
東京裁判
東京裁判に出廷した日本人証言は宣誓した上で証言し、かつ検察官による反対尋問が行われた[1]。なお、中国人証人に対しての反対尋問は行われていない[1]。
- 上海派遣軍法務官兼検察官の塚本浩次は「私の処断した事件の中に将校は四、五人いたと思うが、その他は兵卒による散発的な事件が大部分であった。罪種は主として掠奪、強姦であり、傷害、窃盗は少なく、それに起因する致死は極めて少なかったと記憶している。殺人も二、三件あったと思うが放火犯を処断した記憶はなく、また集団的虐殺犯は取り扱ったこともない」と証言した[1][2]。
- 中支那方面軍参謀の中山寧人は当時情報収集を主務としていた[2]。中山は「南京に数回行ったが、世に言われるような大事件は、当時聞かなかったし、また見たこともない。」「巡察の際見た二箇所の死体はいずれも軍人の死体であり、南京の城内でも城外でも、民間人の死体は見たことがない」と証言[1]。また南京事件を聞いたのは終戦後であるとし、南京事件なるものは、次の4つに区分して考える必要があり、1)市民に対する虐殺事件は「絶対にそういうことはない」、2)俘虜の虐殺は「誤り伝えられた外に、これもない」、3)外国権益、特に財産に対する侵害は一部にあったが、中国兵がやったのか日本兵がやったのかは不明である、4)婦女子に対する不法行為および掠奪は「小規模においてはあったと考え、はなはだ遺憾に思う」と宣誓供述書で証言した[2][3]。
- 中澤三夫第16師団参謀長は「日本軍人による物資取得の事実は、憲兵から少数の通報を受けた。しかし、住民の逃亡とともに資材もほとんど搬出されており、家屋も空家同様のものが多かった。従って組織的、集団的に掠奪したという事実は全く聞知しないし、勿論司令部として、かかる不法行為を命令し、默認し、許容した事実は、全くない。中国の戦場における掠奪、破壊は大部分が、退却する支那軍に続いて挺身闖入する窮民の常套手段である、ということを私は掠奪の被害者である支那人から直接聞いている。(略)南京で日本軍によって計画的な強姦が行われたという事実は、全くない。少数の散発的な風紀犯はあったが、それらはすべて法に従って処罰された」と証言[1]。
- 松井石根大将・中支那派遣軍司令官は「当時、自分が我軍将兵の軍紀風紀の粛正、その他右目的達成のため執った諸般の処置については、先に証人中山寧人が詳細に証言しているので、再説はしない。自分の南京占領に対する周到な配慮に拘らず、占領当時のこうそうたる状態における、興奮した一部若年将兵の間に忌むべき暴行を行った者があったらしく、これは自分のはなはだ遺憾とするところである。ちなみに南京陥落当時、自分は南京を去ること略々140マイルの蘇州で病臥中で、自分の命令に拘らずこれら暴行が行われたことは知らず、また何等の報告に接せず、17日南京入城後初めて憲兵隊長よりこれを聞き、各部隊に命じて、即刻厳格な調査と処罰をなさしめた。ただし、戦時における支那兵および一部不逞の民衆が、戦乱に乗じて常習的ノ暴行掠奪を行うことは周知の事実であって、南京陥落当時の暴行掠奪も支那軍民の冒したものも、また少なくなかった。これを全部日本軍将兵の責任に帰そうとするのは、事実を誣いるものである。(略)南京陥落後昭和13年2月まで上海に在住したが、その間、12月下旬南京で若干の不祥事件があったとの噂を聞いただけであって、何等このような事実について公的報告を受けたことなく、当法廷で検察側の主張するような大規模な虐殺事件に関しては、1945年終戦後東京での米軍放送によって、初めて聞き知ったものである(略)南京攻略戦闘に際して、支那軍民が爆撃、銃砲火等によって多数死傷したことはあっただろうけれども、検察側が主張するような、計画的または集団的虐殺を行った事実は断じてない」と証言した[2]。東京裁判で松井は不作為の責任を問われBC級戦犯として処刑された。
虐殺があったとする証言
当時、実際に従軍した元日本軍人、外交官、報道記者などの証言が多数存在する。ただし、虐殺数や目撃した現場が証言者によって違うことに注意。
- 陸軍
- 秦賢介 は1957年、山田支隊が幕府山で2万人捕虜を虐殺したと書いた[4][5]しかし、福島民友新聞「郷土部隊戦記」で山田旅団長、両角連隊長が事実と異なると反証した[5]。山田支隊に従軍した福島民報の箭内正五郎は、当時秦賢介は南京にも上海にも行っていないので、戦後兵隊が酒飲み話に話したことを書いたのだろうと述べている[5]。鈴木明は秦賢介の文はフィクションであるとし[6][5]、本多勝一も「不正確な伝聞」と評し[7]、板倉由明は秦賢介は「ニセ証言者」と否定した[8]。
- 田所耕三 は1971年に『アサヒ芸能』で、「私らは下関(南京城西北端の船着場)にいた。鉄条網の鉄条を外して、捕まえた連中を十人ぐらいずつ束にして、井げたに積み上げて油をかけて燃やしちゃった。(略)女が一番の被害者だったな。年寄りから何から全部やっちまった。トラックで部落に乗りつけて、女どもを略奪して兵隊にわける。兵隊十五人から二十人に女ひとり。支那の女は技術はうまいね。殺されたくないから必死なんだろうけど、なかなかいい」「見せしめの為に捕虜を傷つけることもやった。耳を削ぎとる。鼻をけずる。口の中に帯剣を差し込んで切り開く。目の下に帯剣を横にして突っ込むと、魚の目のようなドロリとした白いものが五寸くらい垂れる。こんなことでもやらないと、ほかに楽しみがない。上陸以来久しぶりの遊戯なんだから。将校?知らんぷりをしていたな」と証言[9][10]。その後、田所証言は洞富雄、アイリス・チャン[11]、本宮ひろ志の『国が燃える』で引用された。またニューズウィーク1997年11月30日は田所証言(第114師団)を紹介しながら、1971年のインド・パキスタン分離独立でのパキスタン軍兵士によるベンガル女性への集団レイプを除くならば、南京事件での集団レイプは世界史上最大だったと主張した[12]。しかし、板倉由明によれば、水戸の兵士なら第102連隊で下関までは行っていないし、また数日後には南京から転進しており、証言は信憑性がないとして「ニセ証言者」であると結論した[13]。後に阿羅健一が田所に面会すると「(ルポライターが)南京での残忍な話に執心するので、しばらくして南京での作り話をしてやると、ルポライターは目の色を変えてそれらを書き留めだした。その態度を見て、わたしはいっそう膨らまして話をした。ルポライターはさらにのってきた。それがあの証言で、私自身は城内に入ってもいなければ、下関にも行っていない。あの話はまったくのウソなのだ」と証言が虚偽であるとした[14]。
- 赤星義雄 (歩兵13連隊二等兵)は1979年、創価学会青年部反戦出版委員会本で、14日下関の揚子江岸で「広い川幅いっぱいに、数え切れないほどの死体が浮遊し」「5万人以上」「ほとんどが民間人の死体」が流れていた、と証言[15]。板倉由明は、流速は時速数キロとみて数時間たてば南京から見られなくなる。水は濁っており一部しか水面上に出ていない水死体を遠望して軍民別、年齢などが解かるわけがない。下関は中国軍によって焼き払われ住民は避難していたと思われる、城門は9日に閉鎖され住民は出入りできない状態だった。揚子江上にいた米、英、日の艦船、連絡線乗組員、便乗の新聞記者、碇泊場司令部の日記にはこのような記録がない、等の疑問点を挙げた[16]。
- 高城守一 (輜重6連隊小隊長)も同創価学会青年部反戦出版委員会本[15]で、南京に2日いた。1937年12月14日下関(シャーカン)の兵站まで物資を取りに行った。下関には数隻の輸送船、護衛艦も見えた。揚子江に「民間人と思われる累々たる死体が浮かび」「十名前後のクーリーが射殺されるのを目撃した」「おびただしい糧秣が揚陸されていた」と証言。しかし、板倉は、軍艦の突入が12月13日15時40分で、「軍艦以外の貨物船などが南京まで運航するのは、機雷除去が進んだ18日以降であり、14日というのはおかしいと批判[17]。なお碇泊場司令部勤務の梶谷日記は日付と業務を記してある。
- 中川誠一郎(仮名、野砲六連隊) も同創価学会青年部反戦出版委員会本[15]で中華門攻撃に加わり陥落後、「南京城を素通りして、ただちに蕪湖へと向かった」。途中の下関で、延々と黒焦げの何百台という自動車と何百人にのぼる住民の死体を見た。「『この肉もうまいぞ』と出された肉を何人かの兵が食べた」。それは中国兵の大腿部の肉だったと後で聞かされた、と人肉食を証言した。秦郁彦はこの証言者の「老農夫をなぐり殺したシーンも見た」「二百人近い敗残兵・・・“捕虜をつれて戦ができるか”と一喝され、数日後に皆殺しにしたと聞かされた」回想を、下関釈放捕虜の行く末だった可能性が高いとして採用[18]。中華門は南京城の南端で、蕪湖は南京の南南西90キロ辺りにある。下関は南京の北西端城外だから、素通りしたら下関は通らない。応召し(兵歴記載無し)砲の取扱い訓練も経ずに6日後には分隊長となり、蕪湖では野砲を離れ宣撫班の班長になったと軍歴は不自然である。
- 中山重夫(陸軍戦車隊の上等兵・修理兵)は、1984年6月23日の朝日新聞で「南京入城の2日前、郊外の雨花台で」「白旗を掲げて来る中国人を壕の上に座らせては、日本兵が次々に銃剣で刺し殺していく。一突きでは死に切れず苦しんでいる人を軍靴で壕にけ落としては土をかける。年寄りであろうが、子どもであろうが見境なしの殺りくが続いた」「4時間余りも凝視していた」と証言、戦争の語り部として記録映画なども紹介された[19][20]。しかし、その後の畝本正巳や板倉由明の調査で、中山が所属していた戦車第一大隊(岩仲義治大佐)は中山門正面で戦闘をしており、雨花台で目撃することは場所的にも時間的にも不可能であったことが明かになった[21][20]。また田中正明が朝日新聞に事実確認を依頼すると拒絶された[20]。
- 曽根一夫 は1984年頃、 手記で、分隊長として面子から捕虜の斬首をした、分隊の先頭を決死の渡河をした、分隊員を率い掠奪、(分隊員の後で)輪姦、殺人をした、等々と記す[22]。 笠原十九司が執筆した教科書『世界史B』(平成5年検定)は曽根の文章に似た文を引き、“掠奪”は軍の命令だった[23]とした。板倉は原本提示を要求したが、笠原も一橋出版も無視した[24]。板倉は文部省に改定を要求し、『諸君!』に論考を発表するなど各方面へ働きかけて、出版側は「命令」が曽根本からの引用であることを認め、内容も修正された[25]。|| 板倉由明の反証では、連隊は夏野鎮まで行軍。「曽根氏はこの徴発隊に参加していない」「行軍中御者は馬と共にあり・・・曽根氏が徴発に行って、非行の体験や実見をするはずが無い」、出たことも無い徴発での虐殺や掠奪を行うことは不可能である[26]。戦友会から隊史、戦闘詳報、陣中日誌などの他の資料との考証から、曽根が歩兵分隊長でなく、野戦12中隊第一分隊の前馬、一等兵の新兵で、御者であったことが判明する[27]。ほか至南京途中の虐殺原因を半月ずらした糧秣欠乏に求めた点[28]、架空の下関大虐殺[29]、戦友の残虐談・部落襲撃もその戦友は否定しており[30]、日記も創作であった[31]。一方、秦郁彦は「ほぼ要望に答えてくれる絶好の証言記録」として評価し[32]」、他の「伝聞記[33]」でなく曽根手記から捕虜殺害例[34]、紫金山付近の住民殺害[35]、クーニャン狩り[36]、残虐行為の心的要因[37]に引用した。板倉由明は秦に曽根手記の全削除を要求した[38]。
- 東史郎 は1987年頃、日記を日本共産党の新聞赤旗に連載し、自著『わが南京プラトーン―一召集兵の体験した南京大虐殺』を刊行[39]。証言では、1938年1月23日、南京転出のため立寄った下関と思しき波止場で、なぎさに敵兵の死体が山となって転がっており、毎日トラックで敗残兵で積んできた奴を河の中へ突き落とし射ち殺すのだと、その兵士から聞いた。
隠れている女の子を見つけると100%犯した。1人ではなく5人で犯した。その後は殺し、火をつけて燃やした。罪悪感はなかった[40]。上官の元陸軍第16師団歩兵第20連隊伍長が「中国人を郵便袋の中に入れ、ガソリンをかけて火をつけ、手榴弾を袋のひもに結びつけて沼の中にほうり込んだ」と証言した[40]。しかし、元上官から名誉棄損で提訴され、上官がやったという郵便袋による殺害は物理的に不可能であり、日記も数年後に書いたものと最高裁で判定した[40]。1993年、笠原十九司は東史郎手記から、兵士の安眠のために部落農民を殺すのだった、と教科書『世界史B』に引用した[41]。上杉千年はその不適を説いた[42]。板倉によれば、停泊場司令部は12月28日までに港湾の死体処理を終わらせた[43]。敗残兵の掃蕩も第二次便衣狩りが1月5日に完了している[44]。検証なき引用[45]は、内容の真偽をめぐる裁判が係争中でもあり、差し替えられた。東は訪中するたびに英雄として各地で熱烈歓迎を受け[46]、アメリカでも2015年、カリフォルニア州の公立高校の世界史の授業で東証言が教材として使用されている[40]。 - 太田寿男 が撫順戦犯管理所で1954年に供述した内容が1990年に報道された。(産経新聞1990年9月4日。毎日新聞1990年12月14日夕刊[47]) 。供述では、A少佐は昭和12年12月14日から15日まで6.5万の死体のうち3.5万人を揚子江に流し、3万体を対岸で焼却。太田は16日から18日まで1.9万人、A少佐は1.6万の死体を流した。南京碇泊場司令部が14万から18日までに処理した死体は10万人(産経新聞)[48]。同司令部以外の南京攻略部隊による5万人の死体処理と合計すると15万の死体を処理した[47]。毎日新聞は、供述が事実なら、中国側「15万5千余」と合わせ「南京大屠殺30万」が証明されることになり、『侵華日軍南京大屠殺史稿』他に要旨を載せたと報じた[47]。「認罪」し「思想改造」の程度によって罪の軽重が決まる撫順戦犯管理所で長期拘置中(事件から17年後の1954年)に書いた供述書であると板倉は指摘[49]。また、毎日新聞の竹田昌弘記者は取材過程で、事件研究者の畝本正己[50]から梶谷日記に「太田少佐が到着したのは12月25日」とあり[注釈 1]、供述は虚偽であると説明してあったが、報道した[52]。板倉は「明白な犯罪」として毎日新聞社に抗議したが社は謝罪しなかった[53]。日記にアリバイがあること、長期拘置中の供述であること、一次資料による検証等から判断し」、供述は「客観的に信憑性ゼロ」と板倉は結論した[54]。産経新聞は部下の日記を下に信憑性を否定した[55]。また、毎日新聞は江口圭一が「内容は信用できる」と述べたと報じたが[47]、江口は梶谷日記に触れないことは説得力に欠けると記事を書いた竹田昌弘記者に苦言を呈した[56]。後に毎日は梶谷日記について報じた[57][58]。一方、早稲田大学教授中原道子は太田の供述を“真実”とする[59]。板倉は中原の著作7論点11ヵ所に真実である証明を求めた[60]が、「日中両国の専門家の研究をふまえ」とのみ岩波側から回答があった[61]。中原は板倉の証明要求を「前向きで建設的な姿勢はいささかも読み取ることができ[62]」ないと言い、自らは「戦争を知らない世代に歴史の真実を伝える[63]」として板倉を一蹴した。
- 船橋照吉 は、 1991年頃石原発言を許さない京都集会実行委員会の冊子『歴史を偽造するのは誰か?』で証言[64]。しかし、板倉由明の再調査では「基本的事項があやふやで、肝心の点は忘れた」といい、また、板倉が歩兵九連隊の実戦記録とはなはだしく異なることを指摘すると、結局、「自分は輜重特務兵であった」と「真実」を告げ、日記の偽造を認めた[65]。舟橋は「東史郎、赤旗記者下里正樹(「隠された連隊史」著者)、吉田保(京都機関紙印刷センター代表)などに説き伏せられてイヤイヤやったものだ、とか、旅費は持つから中国へ行こう、と誘われた」とも板倉に語った[66]。輜重特務兵なら、最前線でトーチカ攻撃をしたり、捕虜の機関銃での虐殺などは架空の話だったことになる[67]。
- 2002年、松岡環編纂の証言集「南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて-元兵士一〇二人の証言」(社会評論社)が刊行し、ニュース・ステーションで関連して放送された[68]。同著の不自然さや間違いに対して東中野修道と阿羅健一らの否定派[69]だけでなく、本多勝一と小野賢二ら肯定派も批判した[70]。
- 海軍
- 奥宮正武 は1997年の著書で、1937年12月25日、碼頭の下流の倉庫群に約30名の中国人が無蓋のトラックで運ばれ、構内の広場では、縛られた中国人十数名が軍刀や銃剣で惨殺され揚子江に投棄されていた。12月27日にも同じような処刑が行なわれていたので、混乱もなく中国人をどうやって連れてきたのかと、下士官に尋ねると、下司官は「城内で、戦場の跡片付けをさせている中国人に、”腹のすいた者は手を上げよ”と言って、手を上げた者を食事の場所に連れていくかのようにして、トラックに乗せているとのことです」と説明。また、日本刀や銃剣で処刑しているのは、弾薬節約のために上官から命じられたと答えたと証言[71]。
- 2014年、第24駆逐隊、海風の信号兵だった三谷翔は松岡環の募集に応じて、証言をするようになった[72]。証言によれば、12月12日の烏竜山砲台を揚子江から攻撃し、12月13日に中山埠頭の方から中国人の死体を載せた4隻の筏を目撃、陥落4日後の中山北路の広場にあった50〜60体の死体の山の「多くは老人や女性で、子どももおり、すぐに一般市民であることがわかった」との証言を中国網のインタビューに答えた[72]。12月18日午後、軍艦のブリッジで見張りをしていると、下関南岸から機関銃の銃声が聞こえたので望遠鏡で見ると中国人が処刑されていた、その後数日、朝から晩までトラックで20人、30人が連行され処刑された、「南京を離れたのは12月25日だが、それまで下関の岸では毎日こうだった」と証言[72]。三谷は「中山北路だけがこうだったわけでなく、南京全体が地獄だったはずだ。陸軍は恥知らずで、やりすぎた」と述べている[72]。江蘇省社会科学院の孫宅巍は、この証言は、時、地点、死体処理の方法など既存の大虐殺の史実と符合し、重要な史料的価値を持っていると評価した[72]。三谷は2015年に日本テレビのNNNドキュメントでもインタビューに答えた[72]。
- 報道員
- 今井正剛 (朝日新聞)は1956年に、(1937年12月15日夜)「数百人、数千人」の中国人が下関(シャアカン)、揚子江の碼頭で射殺された音を聞き、今井は「おそらくそのうちの何パーセントだけが敗残兵であつたほかは、その大部分が南京市民であつただろうことは想像に難くなかった」として、敗残兵でない者も含まれていたとした[73][74]。さらに、早朝に遺体を処理していた苦力たちも射殺され、ある将校は約2万人をやったと言った、として「完全な殲滅掃蕩」である、とした[73]。しかし、12月17日東京朝日新聞の座談会では事件について触れていないし[75]、座談会に出席していた橋本登美三郎も当時虐殺について聞いていないと戦後に答えている[76]。また、今井と同行していた朝日新聞記者森山喬は「そんな話はついぞ聞いたことがない」と証言[77]。東京朝日新聞の足立和雄は「今井君は自分で見て書く人じゃなかった。危険な前線には出ないで、いつも後方にいたと聞いている」「今井君は人から聞いたことを脚色して書くのがうまかった」と証言[78]。竹本忠雄と大原康男は、当時の今井のスケジュールから現場を見ることは不可能であったと評している[1]。
- 守山義雄 は1964年以前[79](証言初出不明[80])、非戦闘員の市民を数多く殺した。多くの婦女子に暴行を加えて殺した、少なくとも4万人が殺害されたと証言[80]。また、戦時中ドイツ留学生だった篠原正瑛は守山からの伝聞として、日本軍は、老人、婦人、子供など三万数千の中国人を城壁内に追い込んで、城壁の上から手榴弾と機関銃で皆殺しにし、城壁内は血の海に長靴がつかるほどだったと述べた[81]。 ただし、南京で守山と同行した東京朝日新聞の足立和雄は、南京で我々は「(長靴に血が流れこむなどという)そんなことは見ていないし、後で守山君から聞いたこともない」と証言している[78]。
- 大宅壮一 (従軍記者)は1966年、 「入城前後、入城までの過程において相当の大虐殺があったことは事実だと思う。三十万とか、建物の三分の一とか、数字はちょっと信用できないけどね。」と述べた[82]。
- 読売新聞の 真柄 カメラマンは、入城式の二日ぐらい前に土手のある小さい川に中国人二百人位が「機関銃でやられていた。あれが世にいう“南京大虐殺”だったのではないのか」と証言[83]。
- 映画「南京」の製作者の 白井茂 は「虐殺の現場は二度見た。一度は柵があったように思う。はるか離れているところで、銃殺していた。数は覚えていない。揚子江でない川のところで、機関銃で撃っているところも見た。(略)川にとび込んで、向うに泳ぎついた者もいた。二百人ぐらいいたと思う。場所は覚えていない。当時、“大虐殺”という噂はなかった。」と証言[84]。
- 映画「南京」の録音技師の 藤井慎一 は「挹江門付近は物凄い死体で、死骸の上に板を渡し、その上を自動車が通っているほどだった。空襲のあとが生々しかった。小さな川の傍らの門の中で捕虜らしき者を撃っているのを見た。(略)白井氏と一緒だった。(略)それ以外にも、銀行の裏で百人以上が殺されているのを見た。(略)虐殺の噂はきいたように思うが、見たのはこの時だけである。」と証言[85]。
- 文官
- 日高信六郎 (外交官) は東京裁判で法廷証言し、1966年には、「残虐事件の最大の原因の一つは、上層部の命令が徹底しなかったことであろう。たとえば捕虜の処遇については、高級参謀は松井さん同様心胆を砕いていたが、実際には、入城直後でもあり、恐怖心も手伝って無闇に殺してしまったらしい。揚子江岸に捕虜たちの死骸が数珠つなぎになって累々を打ち捨てられているさまは、いいようもないほど不愉快であった。(中略)兵の取締りに手が廻らなかったのは当然だった。そして一度残虐な行為が始まると自然残虐なことに慣れ、また一種の嗜虐的心理になるらしい。(中略)荷物を市民に運ばせて、用が済むと「ご苦労さん」という代りに射ち殺してしまう。不感症になっていて、たいして驚かないという有様であった」と証言[86]。
「大虐殺」がなかったとする証言
- 陸軍
- 松井石根中支那方面軍司令官は東京裁判で「(大虐殺は)公的な報告を受けたことがなく、終戦後米軍の放送で初めて知った」と証言し、供述書では「巡視の際、約20人の中国兵の戦死体を見たが、市内の秩序はおおむね回復した」と述べ、「南京入城後、非行が行われたと憲兵隊長から聞き、各部隊に調査と処罰をさせた」と証言し、当時松井の部下は、非行件数は10件から20件程度だったと裁判前の尋問で供述した[87]。
- 上海派遣軍参謀・大西一大尉[88]。1937年12月13日午後から南京に入城し[89]、南京陥落後一年間特務機関長として滞在した[88]。当時、上海派遣軍の中で虐殺について「話題になったことはない」、強姦は何件かあったが、暴行や掠奪は見たことがないと証言[88]。
- 上海派遣軍嘱託、軍司令官付・岡田尚は、強姦は数えるほどで、「(一般市民を)虐殺したということはありえません」、城内での火事についても記憶がない、しかし捕虜や敗残兵について「やったことはある」が、当時の状況で「果たしてそれが虐殺といえるか」疑問であると証言したうえで、自らを中国びいきであるとし、満州国建設にも反対であったし、日支事変で日本がやりすぎたこともあるが、南京防衛の中国軍が降伏勧告を受け入れなかったのは中国側で、その責任者の唐生智が逃げたことを批判し、降伏拒否がなければ捕虜殺害もなかったと述べている[90]。なお岡田は1937年12月12日に蘇州から湯水鎮へ向かう途中で女性兵士を含む中国兵捕虜千人から二千人がクリークの土手に座らされて処刑されているのを目撃している。
- 第10軍参謀・谷田勇は、1937年12月14日午後3時、下関埠頭に死体1000人〜3000人があったが、これは第16師団が追い詰めたもので、「これが後日虐殺を称されているものではないか」と述べ、さらに12月19日までの南京滞在の間に「死体数は数千ないし一万程度で、まして集団虐殺の跡などは発見できませんでした。したがって、中国側が終戦後の極東国際軍事裁判で主張した数十万は誇大意図的な誇張であると確信いたしております」と証言した[91]。
- 第10軍参謀・金子倫介は、南京事件について「聞いたことはありませんでした。戦後、東京裁判で聞いてびっくりしました。何か隠しているとか、言い渋っているとかいうことはなく、本当に南京では何も見てません。」と証言した[92]。
- 第10軍参謀・吉永朴(すなお)[93]。「南京大虐殺は白髪三千丈式に、後で中国人が言っていること」と証言した[93]。
- 第10軍参謀・寺田雅雄は、第10軍の軍紀はそれほど悪くはなかったし、当時南京事件を聞いたことはないと証言した[94]。
- 第10軍参謀・仙頭俊三は「12月12日、浦口(揚子江をはさんで下関の対岸)に進出した時、浦口には味方の十五榴(九六式十五糎榴弾砲)が盛んに落下していました。揚子江両岸に浮遊した敵の死体は目撃したところ数百でしょうか、中流にはあまり死体は認めませんでした。下関の岸壁が鮮血に染っていたのを目撃し、かつ死体は手足をしばられていたようでした。虐殺ということは当時は全く知りませんでした。軍紀に関して国崎支隊に関する限り悪かったことはありません」と証言した[95]。
- 侍従武官の後藤光蔵は南京に入城した時、「南京は人一人いない街となっており、小生はその一軒に泊まったのですが、何事もありませんでした」と証言した[96]。
- 上海派遣軍特務部員・経理将校の岡田酉次[97]。中国軍には女性兵士がいた、抵抗する敗残兵もいて、便衣兵もいて、「これらがやられるのも見ました。これらの屍があとで虐殺と言われたのではないでしょうか」と証言している[97]。
- 参謀本部庶務課長・諫山春樹は、参謀本部庶務課は全ての報告に目を通すが、日本兵の軍紀が悪かったと当時話題になったことはなく、また「虐殺事件が話題になったことも、箝口令をしいたことも絶対にありません」と証言した[98]。
- 陸軍省軍務局軍事課編成班・中支那派遣軍参謀(昭和13年)大槻章は、虐殺事件について「そういった形跡は全然ありませんでした。何もない。軍司令部参謀といろんな話をしたが、話題になったことも、聞いたこともない。虐殺があったというのは嘘」であり、「虐殺なんていうのは命令がなければできないこと」で、あったとすれば当時話題になったはずだと証言している[99]。
- 野砲兵第22連隊長・(終戦時第21師団長)三国直福は、当時日本兵の軍紀の乱れや事件について何も聞かなかったと証言し[100]、さらに自分が広東での戦犯裁判で被告になった経験について、裁判はめちゃくちゃで、罪状では三国が汪兆銘政権を作ったとか(三国は南京特務機関長だったが深くかかわっていないと述べている)、中国市民に暴行をふるったなどで、証拠を求めると、中国軍が市民に被害を出せと命令して出したもので、場所も日付も師団のいた場所とほとんど合致しないものであったと証言している[101]
- 上海憲兵隊の岡村適三は、当時、事件についても軍紀についても特別聞いたことはない、日本軍が威張っているということは聞いたと証言した[102]
- 第16師団歩兵第20連隊(福知山連隊)大隊長森王琢は「私の大隊は南京城の東正門の中山門を攻撃した。激戦したが、13日の午前3時10分、砲撃で城壁を崩し、その勢いではい上がり、軍旗を立てました。私はその時は城外の丘の上におり、城内には師団長と共に十五日に入場した。宿営地について陸軍省の先輩に会い、その日の午後、二人で戦場の視察に出かけた。山陵、紫金山など見て歩いた。翌年の1月19日に命令で転進したが、それまでは南京とその周辺の警備に当たつていた。したがって南京の大虐殺が行われたという時期、あったかないか、私は確信をもってお話しできるただ一人の人間だと思っています。例えば火事があったという人、なかったという人がいる。あったという場合には焼け跡を示すことが出来るが、なかった場合というのは、明かしは立てにくい。それと同じで、南京で虐殺があった、婦人が乱暴された、家が焼かれたと盛んに言われているが、それがほとんどウソであることを申し上げる」と証言している[103]。
- 第6師団歩兵第23連隊中隊長の吉川正司は、「突入翌日の12月13日には城内の掃蕩をやっているが、城内に敵兵は一兵も見ず、一般住民もいない全くの死の街であった。連隊はそれ以降、主力を水西門東南方地区の市街地に、第1大隊をもって12月21日まで水西門外に駐屯し、警備にあたったが、翌13年1月13日に蕪湖へと転進するまで、虐殺事件など見たことも聞いたこともなかったと断言できる。」と証言[104]。
- 第6師団歩兵第23連隊第2中隊長・坂元昵[104]。
- 第6師団歩兵第23連隊安楽秀雄[104]。
- 第6師団歩兵第23連隊中山有良[104]。
- 第6師団歩兵第13連隊伍長古沢智[105]
- 第6師団歩兵第47連隊獣医務曹長の城光宣は、昭和12年12月13日中華門から入城、「城内は空っぽ」で兵隊も住民もいなかった、「無抵抗の民間人を殺すのが虐殺。だが、人がいない以上、虐殺があるはずがない」し、城内では遺体も見ていないと証言[106]。また中国戦線に5年間従軍したが、中国人の集落に駐留する場合は、日本軍と住民を分けるため集落の中央に線を引き、住民側に立入禁止を厳命され、憲兵もいたし、違反は絶対にできなかった。軍紀はそれほど厳しかったと証言している[107]。さらに30万人虐殺したはでっち上げであり、貶められるのは我慢ならないし、南京裁判で死刑になった谷寿夫中将に対して何もしていないので哀れであると述べた[106]。
- 第6師団第13連隊 第3大隊 砲兵小隊・永田尚武[105]
- 第9師団 第18旅団司令部・齋藤敏胤[105]
- 第9師団歩兵第7連隊・喜多留治[105]は、12月14日からの掃討戦に参加し、安全区の警備も担当した[107]。喜多は、安全区の民間人になりすました便衣兵掃討には厳重な命令があり、住民への配慮や、将校の指揮に必ず従うことを命じられており、掃討は同師団の金沢、富山連隊が担当し、他部隊が安全区に入らないよう「金沢」「富山」という合言葉を使うなど警備は厳重で、そうした警備をすり抜けて日本軍が略奪や強姦するなどということは「ありえないことです」と証言[107]。
- 第9師団 歩兵第7連隊 第11中隊・納谷勝[105]
- 第9師団歩兵第36連隊伍長・近藤平太夫[105]は陥落後は「露店が何軒か出ていて、日本兵相手に商売をしていた。靴修理店、散髪屋などだった」「露店で印鑑を作り、城内は極めて平穏だった」「住民が平和に商売をしている一方で、毎日たくさんの人が虐殺されているというようなことは全く考えられません」と証言[108]。
- 野中祥三郎[105]
- 第16師団歩兵第20連隊伍長の橋本光治は、昭和12年12月13日に入城、12月23日まで城内外の敗残兵掃討作戦に参加。橋下は戦後、当時部下の上等兵だった東史郎から著書で郵便袋に中国人を入れて殺害したと著書に書かれ、名誉毀損で提訴し勝訴した(最高裁確定)[107]。橋下は「戦争中も軍紀は守られていた。そんな残虐行為ができるわけがない」また、「婦女子に手をかけてはいけないと厳命されていたし、夜間外出は禁止され、任務以外に自由な時間はありませんでした」と証言[107]。
- 第16師団輜重兵16連隊第6中隊・稲垣清[105]は12月16日に入城し、住民の姿をみかけ、時計の修理のため時計屋を訪れたと証言[108]。
- 第16師団第33連隊第2大隊第5中隊第1小隊長・市川治平[105]
- 歩兵第65連隊(両角業作部隊)の栗原利一は12月17日幕府山事件での捕虜殺害について証言を残しているが、「これは虐殺ではなく戦闘として行ったもの」で、「殺したなかに一般人は一人もいない。当時日本軍の戦果は私たちの13,500を含めて7万といわれていたが、現在中国で言うような30万、40万という大虐殺などとても考えられない。」と述べた[109]。
- 第36師団歩兵第224連隊の内貴直次少尉は陥落の6年後の昭和18年夏に南京に滞在したが「街は商店や人であふれ、平和な様子だった。もし、大虐殺があれば、住民の恨みを買い、われわれは平穏に駐留できなかったはずだ」と証言[87]。
- 陸軍士官学校58期の和田泰一少尉は「当時の記録を読めば事実は別にあることは明らかなのに大虐殺説を許してきた私たちの責任も大きい」と述べた[87]。
- 独立軽装甲車第二中隊小隊長の畝元正己が、以下のように南京戦の実態を述べる。江南平野200マイルの南京追撃戦で日本軍は一地に長く駐留することはなかったし、掠奪や暴行を行っておらず、都市の戦禍は攻防戦によって生じたもので、日本軍のみの故意のものではないと述べている。日本軍は追撃にあたって敗残兵を深追いしなかったため、村落や山中に逃走した敗残兵が、便衣兵としてゲリラ化し、後方部隊を襲撃して日本軍を悩ませたとする。また、日本軍は補給が不十分であったため将兵が鬼獣化したと称されるが、上海南京間200里を約一ヶ月(11/11〜12/13)で進撃したため、一日行程平均7里で補給作戦は困難なものではなかったし、上陸後引き続いて追撃に移った当初は補給不足のため現地物資によったが、12月10日以後は後方兵站も追随していた、と証言する。また、上海派遣軍参謀大西一は、松井司令官よる蘇州の文化と住民の保護を命じられ、日本軍入城を禁じたと主張する。第9師団司令部は城内に入らず、その翌日に到着した軍司令部は蘇州城外に司令部を置いた[110]。
- 海軍
- 第3艦隊第11戦隊の砲艦勢多艦長の寺崎隆治は、「その時は戦争ですから抵抗する中国兵は射殺しましたし、混乱してますから逃げまどっている住民や反抗する市民も多少はいたでしょう。それは戦争の続きです。こういう情況のもとに起こった戦死体を戦後、南京虐殺だと言っている」と証言している[111]。また南京裁判で処刑された谷寿夫について「国際通で、国際法に詳しい人ですから、それを考えても南京虐殺は間違いだ」と証言している[111]。
- 第三艦隊第11戦隊の砲艦比良艦長の土井申二は、宝塔橋街の治安回復を行い、紅卍字会の陳漢森から礼状を受け取ったが、虐殺はなかった、礼状もそうだが中国人は誇張して表現すると証言した[112]。
- 上海海軍武官府、第3艦隊司令部付の重村実は、入城式のため12月17日に到着したが、目撃したのは中国人が民家に入って、便器など手当たり次第掠奪している姿で、日本兵による残虐行為は見ていないが、便衣兵を殺害したとは聞いた、「この時、兵隊なのか市民なのか、それは中国人に指摘させた」と聞いたと証言した[113]。
- 第二連合航空隊参謀・源田実[114]。
- 海軍第12航空隊3等航空兵曹の原田要は九五式艦上戦闘機で光華門を攻撃したが、陥落後の城内は露店が立ち、「南京は誠に和やかに尽きる、という印象でした」「非常に平和な進駐」だったと記憶していると証言し、「何十万人もの大虐殺は信用できない。もし、大虐殺があれば、中国人はわれわれに和やかに接しただろうか」と述べている[108]。
- 文官
- 当時南京の日本大使館で、南京安全区国際委員会委員長ジョン・ラーベとの交渉にもあたっていた[115]外交官補福田篤泰は「20万、30万の虐殺はおろか千単位の虐殺も絶対にない。(略)衆人環視の中である。そんなことなどしたら、それこそ大問題だ。絶対にウソである。宣伝謀略である」と述べた[116]。
- 企画院事務官(陸軍省から出向)岡田芳正は、南京事件について当時聞いたことはなく、戦後はじめて聞いた、「南京事件というのは、中国がそれまでやってきた宣伝戦を戦後を行ったまでのこと」と証言した[117]。
- 外務省領事館補の岩井英一[118]。
- 陥落と同時に南京入りし、年明けに南京総領事館で勤務した領事館補の粕谷孝夫は、事件について直接聞いたことはなく、渉外部長広田豊大佐からも聞いていないと証言した[119]。
- 西本願寺の従軍僧侶大谷光照法主は12月14日に南京入りし、17日の入城式に参列、18日の慰霊祭を行ったが「虐殺を見ておりませんし、噂も聞きませんでした。もうその時は戦闘は全く終息していて一市内は平静で一市民の盗もほとんど見かけず、虐殺の起るような環境ではありませんでした。日本軍は城内城外に適宜宿営し、のんびり休養をとっていました」と証言[120]。
- 報道員
- 大阪朝日新聞の山本治は、「朝日新聞では話題になったこともありません」、また白川威海上海支局長からも聞いていないと証言[121]。
- 東京朝日新聞・橋本登美三郎(当時上海支局次長)は、事件は全然聞いていない、もし事件が発生していれば、記者の間で話題になるはずだと証言した[122]。
- 陥落後から一ヶ月間南京にいた東京日々新聞金沢喜雄カメラマンは、「私は南京をやたら歩いていますが、虐殺を見たことがなければ兵隊から聞いたこともありません」、また新聞社内では一度も話題になっていないと証言した[123]。
- 東京日日新聞の佐藤振寿カメラマンは、虐殺は見ていない、陥落三日後の16日・17日になると大通りには店も出ていた、噂として3千人の捕虜を下関で戦闘として殺害したと聞いた、と証言した[124]。また佐藤は百人斬り競争を撮影したが、百人斬りができないのは明らかで、戦後の東京裁判で記事はフィクションだったと浅海記者がはっきり言えばよかったが、何か考えることがあったのだろうと述べている[125]。
- 大阪毎日新聞の五島広作[126]は第6師団(谷寿夫師団長)に従軍し1938年1月10日まで南京にいたが、中国人虐殺命令は聞いたことがなく、「東京裁判があってからの作り話」ではないか、と証言した[127]。また、事件があったらしいと噂を当時聞いたので朝日、読売、同盟各社に問い合わせたが、どの社も知らないので、中国の宣伝工作だろうと考えたとも証言した[128]。
- 報知新聞の二村次郎カメラマンは、揚子江での死体について聞いたことがあるが「虐殺されたものではなく、数が多いので話題になったのだと思います」と証言した[129]。
- 報知新聞の田口利介は、南京城内で見た死体は2,3体で、下関にも何もなかったと証言[130]。
- 読売新聞の樋口哲雄カメラマンは、「(虐殺の)形跡を見たことがありません。あったとよくいわれていますが、どこでどんなものがあったのか」「やらなきゃこっちがたられるからやったのを虐殺と言っているのだと思います」と証言した[131]。
- 東京日日新聞の鈴木二郎は、戦後検事側証人として「百人斬りは虐殺ではない」と証言し、さらにその後百人斬り競争について文章を発表し[132]、山本七平、鈴木明と論争になったが[133][134]、中山門上、励志社前などでそれぞれ数人ほどの敗残兵の処刑、下関の死体1000体以上を目撃し「これら全てが虐殺だったかどうかというと、全てが虐殺だと必ずしも言えない。しかし、それは敗戦国の運命で、虐殺になってしまいます。」、南京全体の虐殺については「自分が見たことではないから言えない、わかりません」と証言した[134]。
- 読売新聞の森博カメラマンは、「捕虜にやる食糧がないし、収容する所がない、放してもまた兵隊になる、それで困って」捕虜を揚子江で殺戮したと聞いた、しかし南京では市民への虐殺は見ていないと証言した[135]。
- 同盟通信の新井正義は、中国兵の死体に便衣の者もいたし、中に捕虜の死体もあっただろうが、20万の大虐殺は聞いたことがない、日本兵が捕虜に米を入れてあげるのを見た、入城式直後には小売店や甘味料もよく売っていた、虐殺については東京裁判ではじめて聞いた、と証言した[136]。
- 同盟通信の浅井達三カメラマンは、当時社内で事件は話題にならなかった、パラマウントのアーサー・メンケンからも聞かなかった、浅井は戦後東京裁判を撮影したが、松井大将が起訴されるのは責任者だから仕方ない、ただし「20万もの虐殺と言ってますが、数の面ではそうは思いません。南京の人口の大半がいなくなる数ですから」と証言している[137]。
- 同盟通信の細波孝は、湯山からと推測される捕虜の連行を見たあと、入城式前日か当日の早朝に下関でのトーチカ内や揚子江での死体を見た、「それを見て、国際法違反も考えましたが、戦闘の犠牲者だと思いました」「その頃は、やらなければこちらがやられますから」と証言し、また上海支社長の松本重治と大学で何かがあったらしいので四人で行ったが何も事件の形跡はなかったと証言した[138]
- 新愛知新聞の南正義は、13日に中山門から入城すると日本兵の死体2、3体が街路樹のプラタナスに吊るされ、火で炙ってあるのを見たが、中国人への「虐殺があったなど誰も言ってませんし、見ていない。日本が戦争で負けてから中国がでっちあげて言い出したことです」と述べ、また捕虜殺害については「その時『決戦に捕虜なし』という言葉があって、捕虜という考えは日本軍にはなかったと思います。もちろん中国だって、逃げる時は家を焼き払い、物を壊して逃げ、便衣隊になってスパイをやるし、 捕虜になって助かるという気はありません。お互い捕虜という概念がなく、助かろうという気もないから、捕虜をやったというのも変な話です。それは、あとからこういう国際法に照らし合わせればということでね。 戦場を知らない人がそれを虐殺だと言っているだけです。便衣隊のことを虐殺だと言ってる人もいますが、それは虐殺ではありません」と証言した[139]。
- 福岡日日新聞の三苫幹之助は、陥落直後の南京入りしたが「大虐殺の話なんか見ても聞いてもおりません。痕跡すら何一つありませんでした」と証言している[140]。また三苫が書いた昭和14年の福岡日日新聞記事では、中国人市民の証言として、日本軍が到着する以前の南京安全区のイホロ難民区では、中国軍兵士や銃を持って夜昼検察に来て、食糧や物品を強奪し、独身男性は労役のために拉致され、夜は女性が拉致されていた、と証言している[141][140]。
- 都新聞の小池秋羊は、中国兵の戦死体は何十体見たが、虐殺の話を聞いたことはない、ただし南京全部を見たわけではない、と証言した[142]。また小池は、日本の補助憲兵が難民区に潜入している敗残兵を摘出し、十人か二十人かにまとめて連行したを見ている。直接見ていないが、郊外で射殺したのではないかと推測している。また、第16師団の兵隊が食糧などを掠奪しているのは目撃し、それをシャンハイ・イブニング・ポストやノースチャイナ・デイリー・ニューズなどの外人記者が記事にした。小池はそれらの記事を当時上海で目にした。
- 福島民報の箭内正五郎は、第65連隊(山田支隊)に従軍したが軍紀が乱れたこともなく、上海と比べると南京はあまり激しくない戦線であった、戦後にいわれた大虐殺はなかったと証言した[5]
- 海軍従軍絵画通信員で画家の住谷磐根は、埠頭で敗残兵1000人弱を銃剣で処刑したのを目撃し、翌朝いってみると遺体は約800体ほどでまだ動いている中国兵もいた、「これがあとで南京虐殺といわれたものだと思います」、ただし「日本軍としては中国兵を殲滅しなければなりません。それが戦争ですし、そうしないと今度は日本軍がやられてしまいます。そういう全体をわからなければ一部分を取り上げても間違いになります。南京虐殺といわれるのもそういうものです」、市民は避難区にいたし中国兵は逃走していたからいわゆる南京大虐殺はありえない、自転車で城内をスケッチしてまわったが、虐殺は一度も見ていない、と証言している[143]。
- 外務省情報部付の渡辺義雄カメラマンは、入城式の前日か2日前に現地入りして、下関で中国兵を処刑していたと聞いた、あとで将校と下士官に聞くと捕虜を監獄に入れたが入りきれないし食糧もなく、やむをえずやった、捕虜と犯罪人で合計一万人位いたと聞いたという。渡辺が直接見たのは中国兵の死体ばかりで、日本兵による残虐行為は見ていないと証言[144]。
- 陸軍報道班員の小柳次一カメラマンは、揚子江で300人中国兵を殺したとは聞いたが「戦場だからそういう話はいくらでもありますし、戦後いわれているような話は聞いたことがありません」と証言している[145]。
- 読売新聞上海特派員だった原四郎は、陥落後三ヶ月後に虐殺があったらしいと聞いたが、当時軍が箝口令を敷いたわけでもなく、不思議に思ったので各支局に問い合わせたが不明だったので、中国の宣伝工作だろうというのが大方の意見だった、と証言した[146]。
- 雑誌「大亜細亜主義」従軍記者の田中正明[147]。1938年8月に南京に滞在した[147]。田中は当時従軍した大宅壮一、西條八十、草野心平、木村毅、林芙美子、石川達三も「20万-30万の大虐殺」を目撃していないと述べている[148]。なお、大宅は戦後、虐殺はあったと述べているが、目撃証言ではない。
- 朝日新聞・藤本亀記者は12月13日、光華門から南京に入ったが、「従軍の間、特別に何の事件も見たり聞いたりはしませんでした」と証言[149]。
- 大阪毎日新聞・西野源記者は第九師団と共に光華門方面から南京に入城したが、虐殺は当時聞いたことがない、「戦場では幾多の流説があるのが当然のことです」と証言[120]。
- 中央公論社特派員として従軍した作家の石川達三は1946年、「女をはづかしめ、殺害し、民家のものを掠奪し、等々の暴行はいたるところで行はれた、入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき街上は屍累々大変なものだつた、 大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた。また武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使ふのはもつたいないとあつて、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、 この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃のいつせい掃射で 片ツぱしから殺害した。戦争中の興奮から兵隊が無軌道の行動に逸脱するのはありがちのことではあるが、南京の場合はいくら何でも無茶だと思つた、 三重県からきた片山某といふ従軍僧は読経なんかそツちのけで殺人をしてあるいた、左手に数珠をかけ右手にシヤベルを持つて民衆にとびこみ、にげまどふ武器なき支那兵をたゝき殺して歩いた、その数は廿名を下らない、彼の良心はそのことで少しも痛まず部隊長や師団長のところで自慢話してゐた、支那へさへ行けば簡単に人も殺せるし女も勝手にできるといふ考へが日本人全体の中に永年培はれてきたのではあるまいか。ただしこれらの虐殺や暴行を松井司令官が知つてゐたかどうかは知らぬ 『一般住民でも抵抗するものは容赦なく殺してよろしい』といふ命令が首脳部からきたといふ話をきいたことがあるがそれが師団長からきたものか部隊長からきたものかそれも知らなかつた」と書いた[150]が、後年、石川は田中正明へのインタビューに「大殺戮の痕跡は一片も見ておりません」と証言している[151]。また石原慎太郎にも、大虐殺はなかったと石川は語ったという[152]。死去する三ヶ月前の1984年(昭和59年)10月には阿羅健一へ「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。何万の死体の処理はとても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」と返事した[153]。
- 前田雄二 (同盟通信社社会部記者) は1937年12月16日、新井と写真の祓川らと軍官学校で処刑現場を目撃した[154]。捕虜を一人ずつ校庭に引きだし、下士官がそれを前方の防空壕の方向に走らせ、待ち構えた兵隊が銃剣で背後から突き貫き、壕に転げ落ちると、止めを刺すという「処刑」を三カ所で並行して実行しており、傍らの将校は「新兵教育だ」といったという[154]。午後、交通銀行の裏の池の畔でも捕虜が処刑されているのを連絡員の中村太郎と目撃した[154]。12月17日夜には揚子江岸の千、二千に達する死体を見て、城内の警備司令部参謀に尋ねると「少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した」との説明を受けた[154]。前田は後年、これらは戦闘の範囲に入るものであり、十数万とも三十万人ともいわれる「大虐殺」に対して、「長江沿いや江門、それに“処刑”、私自身が見た事実、これらの中には戦闘につながるものがあるかも知れないが、これらの事実が核になって噂が拡幅され、戦争被害までが積み重ねられて、巨大な数字にふくれあがった」ものであると述べている[154]。
- 東京朝日新聞記者の 足立和雄 は1965年に「日本軍の大部隊が、南京をめざして四方八方から殺到した。それといっしょに、多数の従軍記者が南京に集ってきた。そのなかに、守山君と私もふくまれていた。朝日新聞支局のそばに、焼跡でできた広場があった。そこに、日本兵に看視されて、中国人が長い列を作っていた。南京にとどまっていたほとんどすべての中国人男子が、便衣隊と称して捕えられたのである。私たちの仲間がその中の一人を、事変前に朝日の支局で使っていた男だと証言して、助けてやった。そのことがあってから、朝日の支局には助命を願う女こどもが押しかけてきたが、私たちの力では、それ以上何ともできなかった。"便衣隊"は、その妻や子が泣き叫ぶ眼の前で、つぎつぎに銃殺された。「悲しいねえ」私は、守山君にいった。守山君も、泣かんばかりの顔をしていた。そして、つぶやいた。「日本は、これで戦争に勝つ資格を失ったよ」と。内地では、おそらく南京攻略の祝賀行事に沸いていたときに、私たちの心は、怒りと悲しみにふるえていた」と書いたが[155]、1987年に足立和雄は、「大虐殺」は見ていない、ただし、軍の便衣隊掃蕩にはやりすぎがあったかもしれないと証言[78]。また『守山義雄文集』に寄稿した「私と南京大虐殺」という題名は「不用意だった」と後に反省の弁を述べている[78]。また、「南京大虐殺については意識的に嘘をついている人がたくさんいる」と述べ、後輩の本多勝一の主張にも残念だと批判している[78]。
- 同盟通信社特派員の小山丈夫は、1938年夏の外人記者南京視察団から虐殺事件について質問も受けなかったし、小山も東京裁判で初めて事件を知ったと証言[148]。
中国人の証言
戦後の戦犯裁判での証言については「南京事件 (代表的なトピック)#戦後の軍事裁判における扱い」を参照
- 東京裁判で中国人証人に対しての反対尋問は行われていない[1]。
- 李秀英 - 松村俊夫は、李について「証言のたびに内容がクルクル変わるのは、実体験でない証拠だろう」と著書に書き、名誉毀損に当たるとして民事裁判を1999年9月に起こされた。東京地裁は判決で「(松村には、李が)嘘を言ったと信じる相当の理由はなかった」と述べ、松村に150万円の支払いを命じた。2005年1月に最高裁上告棄却となり原告の勝訴が確定した。
- 夏淑琴 -新路口事件の証言者。これに対し、東中野修道は事件発生時間のくい違い、本人の年齢に関する情報があいまいなこと等から、偽の証言と主張し[156]、さらに事件の被害者と夏淑琴 は別人とした[157]。夏は中国と日本で東中野に対して名誉毀損訴訟を起こした。日本では、最高裁まで争った結果、原告が勝訴した。
欧米人の証言
ベイツとスマイスの南京裁判での証言については「南京事件 (代表的なトピック)#戦後の軍事裁判における扱い」を参照
- ジョン・マギー - 南京安全区国際委員会委員。東京裁判で証言したが、その評価を巡って論争がある。マギーの撮影したフィルム(マギー・フィルム)[158]は2015年10月ユネスコ記憶遺産登録。
- マイナー・シール・ベイツ- 南京安全区国際委員会委員。南京裁判で証人となる。東中野修道は、当時のアメリカの一部の新聞の写真のキャプション[159]に書いてあることを根拠に、マイナー・シール・ベイツは中国国民政府顧問であるとする。ベイツは東京日日新聞昭和12年12月26日では「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです」という矛盾ある行動をとっているとされた。なお、同12月17日号第11面ではベイツは「日支親善のため活躍を続けてゐる親日家」と報道されている。証言記録は2015年10月ユネスコ記憶遺産登録。
- ルイス・S・C・スマイス - 南京安全区国際委員会委員。南京裁判で証人となる。
- ベルンハルト・シンドバーグ - 南京大虐殺紀念館の朱成山館長は、シンバーグは南京大虐殺の目撃者であるとする[160][161]。ただし、シンドバーグは掠奪や強姦の被害を受けた棲霞山寺の僧侶の報告を翻訳したにとどまる[162]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g 再審「南京大虐殺」 世界に訴える日本の冤罪,2016年9月30日閲覧。書籍は明成社 (2000)
- ^ a b c d 冨士信夫『「南京大虐殺」はこうして作られた――東京裁判の欺瞞』pp148-201.
- ^ 阿羅健一『謎解き「南京事件」』
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- ^ 板倉由明 1999, p. 353 「カギ括弧で括られた文章は引用文だから、・・・原典・原文が存在するはず」と原本提示を求めたが、笠原・出版社側は無視。
- ^ 板倉由明 1999, p. 365 『諸君!』「世界史教科書に出現した曽根一夫の亡霊」。7箇月後、出版側は「命令」が曽根本からの引用であることを認め、その部分を改めた。「あったに違いない個々人の不行跡が、あたかも軍命令、最終的には国家意志、によって行われたかのよう」な笠原の記述は、使用本から削除された。
- ^ 板倉由明 1999, p. 262
- ^ 板倉由明 1999, p. 254
- ^ 板倉由明 1999, p. 260 「他師団の記録などでも・・・20日を過ぎると水運で糧秣が運ばれ・・・供給が緩和されていく」
- ^ 板倉由明 1999, p. 275 曽根は糧秣受領に下関へ行ったと言うが、「下関が兵站基地になったのは・・・野砲三の南京出発以後である」等々を指摘する。
- ^ 板倉由明 1999, p. 277 紫金山付近の「残酷な話も兵科を歩兵とし、部隊の駐留地を南京東北方(実際には野砲三は光華門南方の山西村付近に19日まで宿営)に設定したウソの上に構成されている」。戦友はいずれも強く否定。「自分は南京には行っていないとN氏は語っている」
- ^ 板倉由明 1999, p. 258 『原本は二年前に処分し』たという日記は、すべて新カナ遣いで書かれている。続編「出版の際作ったものと推定するのが自然であろう」
- ^ 板倉由明 1999, p. 243 『諸君!』1984年10月号の「松井大将は泣いたか?」秦郁彦
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- ^ 板倉由明 1999, p. 235 「間違ってもらっては困るが、筆者が秦氏に要求しているのは、単なるレイプ場面の削除ではなく、曽根一夫手記全部の削除なのである」
- ^ 『わが南京プラトーン―一召集兵の体験した南京大虐殺』(青木書店、1987)。『東史郎日記』 熊本出版文化会館、2001年刊行。
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- 篠原正瑛「西にナチズム 東に軍国主義」『日中文化交流』1970.8.1 No157 P5
- 下里正樹『隠された聯隊史』青木書店1987年
- 下里正樹『続隠された聯隊史』青木書店1988年
- ジョン・ラーベ「南京の真実」 講談社文庫2000年
- 創価学会青年部反戦出版委員会編『揚子江が哭いている 熊本第六師団出兵の記録』、第三文明社.1979年
- 曽根一夫『私記南京虐殺』『続私記南京虐殺』彩流社1984年
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- 竹本忠雄、大原康男共著『再審「南京大虐殺」 世界に訴える日本の冤罪』明成社 (2000)
- 田中正明『南京事件の総括』小学館文庫
- 南京事件調査研究会 編訳 『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』
- 秦郁彦『南京事件―「虐殺」の構造』中央公論社〈中公新書〉、1986年2月。ISBN 978-4121007957。
- 秦郁彦『南京事件―「虐殺」の構造』(増補版)中央公論新社〈中公新書〉、2007年7月。ISBN 978-4121907950。
- 東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』展転社、1998年8月。ISBN 978-4886561534。
- 広田弘毅伝記刊行会編「広田弘毅」1966年(1992年復刻)
- 本多勝一『南京への道』朝日新聞社 1987年、朝日文庫1990年。
- 松岡環編著『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』社会評論社2002年
- ミニー・ヴォートリン「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」大月書店 1999年
- 渡辺正男「上海・南京・漢口 五十五年目の真実」別冊文芸春秋 1993年新春特別号