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家伝の示現流を学んだが、性格が穏やかであり、剛毅な異母弟<ref>東郷家系図は同母兄弟とするが、位照の弟子である[[久保之英]]の「示現流聞書喫緊録附録系図」は異母兄弟とし、この経緯を詳しく述べている。</ref>の[[東郷実勝]]と[[家督]]を争った末、脱藩を企てたため[[日向国|日向]]高岡郷<ref>現在の[[宮崎県]][[宮崎市]]高岡町、国富町の一部、綾町の一部を含む地域</ref>で捕縛され、[[奄美大島]]に[[遠島]]となった。このため東郷家を廃嫡され、家督は息子の[[東郷実昉|実昉]]が継ぐことになったが、実昉は年少であった上に母方で育ったために流儀に未熟であったため、示現流の指導は東郷家に代わって[[薬丸兼慶]]が行った。 |
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遠島から戻ると東郷家に戻ったが、のちに弟の実勝が、延享年間に藩主[[島津宗信]]の恩赦により終身流刑地から戻ると当主で実子の実昉により追い出される。位照は大変不満であったが、仕方なく武村に移り住んだ。当然ながら息子からの援助が全くなかった。このために貧困に苦しみ、貧窮のあまり町人にまで伝授し、非難もされたと「示現流喫緊録付録系図」にある。 |
遠島から戻ると東郷家に戻ったが、のちに弟の実勝が、延享年間に藩主[[島津宗信]]の恩赦により終身流刑地から戻ると当主で実子の実昉により追い出される。位照は大変不満であったが、仕方なく武村に移り住んだ。当然ながら息子からの援助が全くなかった。このために貧困に苦しみ、貧窮のあまり町人にまで伝授し、非難もされたと「示現流喫緊録付録系図」にある。 |
2020年9月11日 (金) 22:09時点における版
東郷 位照(とうごう たかてる、元禄7年1月28日(1694年2月21日) - 安永9年5月10日(1780年6月12日))は、薩摩藩士。剣術示現流第四代東郷実満の長男。当初、嗣子であったが、廃嫡。通称は藤五左衛門[1]、長門之助。諱は、はじめ重矩(しげのり)、のち位照に改める[2]。母は比志島義時の孫娘で、位照は家老比志島範房の養父の甥でもある。
人物
家伝の示現流を学んだが、性格が穏やかであり、剛毅な異母弟[3]の東郷実勝と家督を争った末、脱藩を企てたため日向高岡郷[4]で捕縛され、奄美大島に遠島となった。このため東郷家を廃嫡され、家督は息子の実昉が継ぐことになったが、実昉は年少であった上に母方で育ったために流儀に未熟であったため、示現流の指導は東郷家に代わって薬丸兼慶が行った。
遠島から戻ると東郷家に戻ったが、のちに弟の実勝が、延享年間に藩主島津宗信の恩赦により終身流刑地から戻ると当主で実子の実昉により追い出される。位照は大変不満であったが、仕方なく武村に移り住んだ。当然ながら息子からの援助が全くなかった。このために貧困に苦しみ、貧窮のあまり町人にまで伝授し、非難もされたと「示現流喫緊録付録系図」にある。
外城士等に示現流を教授した。父と同じく学問は十分ではなかったが、位照自身は多くの伝書を残し、今に残っている[5]。世人は剛毅な実勝の方が示現流に通じていると思っていたが、実際に奥義に達していたのは位照だったという。晩年に東郷家に戻り、孫の実乙に奥義の全てを伝授して死去した。
薬丸兼慶の孫、兼富は、はじめ父の兼中より家伝の剣術を学んだが、位照は兼富の才能を見抜き、明和5年(1768年)久保之英邸にて、兼中、兼富父子及び久保之英に示現流の免許を伝授している。位照の死後、位照の教えを求める弟子たちは薬丸氏に教えを乞うた。
家族、親族
- 妻:竹下種昌の娘
- 子:東郷実昉
脚注
- ^ 「平姓東郷氏支族系図」では藤後左衛門とあるがこれは誤り。「鹿児島市史Ⅲ」ではそこを踏まえて藤五左衛門としている。
- ^ 将軍家世子・徳川家重の元服によるもの。江戸時代には、将軍の諱やその字の訓読みは藩主レベルでも将軍が下賜しない限り使用しない慣習があり、長州藩の毛利重就や桑名藩の松平定猷のように、藩主でも改名や読みを変える場合があった。薩摩藩では将軍や藩主の本名の字を使ってならないという藩法がある(「薩藩政要録」参照)。これにより通字が「重」の字であった薩摩の渋谷氏一族(実満・位照父子のほか、入来院重教(定恒)など)はいっせいに改名している。
- ^ 東郷家系図は同母兄弟とするが、位照の弟子である久保之英の「示現流聞書喫緊録附録系図」は異母兄弟とし、この経緯を詳しく述べている。
- ^ 現在の宮崎県宮崎市高岡町、国富町の一部、綾町の一部を含む地域
- ^ 「示現流兵法書」(宝暦10年)等
参考文献
- 「平姓東郷氏支族系図」(鹿児島県立図書館蔵)
- 鹿児島県史料集(34) 示現流関係資料、鹿児島県史料刊行会、平成6年
- 宮下満郎「池上四郎伝補説」(「敬天愛人」第20号別刷 西郷南州顕彰会)