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「東郷実満」の版間の差分

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ここに至り、東郷家の示現流の名声は大きく衰えた。また、このころ藩内では示現流系の剣術のうち、東郷家から独立していた[[太刀流]]や[[古示現流|古示現流(帆足流)]]の名声が高くなっていた。これを憂いた東郷家の門弟達は藩への働きかけを行い、宝永7年(1710年)に実満による藩主・[[島津吉貴]]への示現流上覧を実現させた。吉貴はその出来に満足しなかったが、改めて[[鹿児島城]]下の、天神馬場(現在の[[鹿児島市]][[東千石町]]の地)へ屋敷を与え、東郷家の示現流が復興されることとなった。
ここに至り、東郷家の示現流の名声は大きく衰えた。また、このころ藩内では示現流系の剣術のうち、東郷家から独立していた[[太刀流]]や[[古示現流|古示現流(帆足流)]]の名声が高くなっていた。これを憂いた東郷家の門弟達は藩への働きかけを行い、宝永7年(1710年)に実満による藩主・[[島津吉貴]]への示現流上覧を実現させた。吉貴はその出来に満足しなかったが、改めて[[鹿児島城]]下の、天神馬場(現在の[[鹿児島市]][[東千石町]]の地)へ屋敷を与え、東郷家の示現流が復興されることとなった。


こうして再び示現流は隆盛するかと思われたが、文武兼ね備えた長子の[[東郷位照|位照]]が後継者争いを原因とした脱藩事件で廃嫡され、喧嘩両成敗的な判断の結果、後継者争いに関与した次男の実勝ではなく、位照と離縁して実家に帰っていた嫁の家で育ち、東郷家から出ていた孫(位照の子)の[[東郷実はる|実昉]]が跡を継ぐなど、混迷は続くことになる。さらに正徳2年(1712年)、拝領した天神馬場の屋敷が類火延焼する。しかしながら、以前と違い、藩より切米を拝領していたこともあり、その後も天神馬場の宅地で暮らしつづけた。
こうして再び示現流は隆盛するかと思われたが、文武兼ね備えた長子の[[東郷位照|位照]]が後継者争いを原因とした脱藩事件で廃嫡され、喧嘩両成敗的な判断の結果、後継者争いに関与した次男の実勝ではなく、位照と離縁して実家に帰っていた嫁の家で育ち、東郷家から出ていた孫(位照の子)の[[東郷実|実昉]]が跡を継ぐなど、混迷は続くことになる。さらに正徳2年(1712年)、拝領した天神馬場の屋敷が類火延焼する。しかしながら、以前と違い、藩より切米を拝領していたこともあり、その後も天神馬場の宅地で暮らしつづけた。


== 著作 ==
== 著作 ==

2020年9月11日 (金) 22:09時点における版

東郷 実満(とうごう さねみつ、1672年(寛文12年) - 1733年(享保18年))は江戸時代薩摩藩士剣客示現流第4代)。通称藤兵衛ははじめ重通[1]重治、後に実満[2]。示現流第3代・東郷重利の子。

経歴

  • 1672年(寛文12年)、示現流第3代・東郷重利の子として生まれる。
  • 1674年(延宝2年)2月28日、藩主・島津光久に初お目見えする。
  • 1710年(宝永7年)、藩主・島津吉貴に示現流を上覧。
  • 1712年(正徳2年)、拝領した天神馬場の屋敷が類火延焼する。
  • 1732年(享保17年)、弟子の伊地知清右衛門が、道場破りに来た剣客・豊田五郎兵衛(タイ捨流から豊田流を開いた)を倒したことが藩法の立合禁制を破ったとして、伊地知、豊田共々処罰される。
  • 1733年(享保18年)、死去。墓所は祖先と同じく曹洞宗松原山南林寺。

人物等

誕生を島津光久の嗣子・島津綱久が喜んだと言う。晩年の子であった上、重利が中風にかかったために直接、示現流の相伝を受けられず、高弟の伊集院久明を通じて相伝された。これにより宗家としての東郷家の権威が落ちるとともに、実満自身、父や祖父・重方ほどの技量はなかったため、弟子の多くが離れてしまう。さらに、実満は父や祖父のように吏僚として栄達する才覚もなかった[3]。そのため家が困窮し、叔父たちの経済的援助も足りず、ついには島津家拝領の屋敷を手放し伊集院郷直木村(現在の鹿児島市直木町)に逼塞する。

ここに至り、東郷家の示現流の名声は大きく衰えた。また、このころ藩内では示現流系の剣術のうち、東郷家から独立していた太刀流古示現流(帆足流)の名声が高くなっていた。これを憂いた東郷家の門弟達は藩への働きかけを行い、宝永7年(1710年)に実満による藩主・島津吉貴への示現流上覧を実現させた。吉貴はその出来に満足しなかったが、改めて鹿児島城下の、天神馬場(現在の鹿児島市東千石町の地)へ屋敷を与え、東郷家の示現流が復興されることとなった。

こうして再び示現流は隆盛するかと思われたが、文武兼ね備えた長子の位照が後継者争いを原因とした脱藩事件で廃嫡され、喧嘩両成敗的な判断の結果、後継者争いに関与した次男の実勝ではなく、位照と離縁して実家に帰っていた嫁の家で育ち、東郷家から出ていた孫(位照の子)の実昉が跡を継ぐなど、混迷は続くことになる。さらに正徳2年(1712年)、拝領した天神馬場の屋敷が類火延焼する。しかしながら、以前と違い、藩より切米を拝領していたこともあり、その後も天神馬場の宅地で暮らしつづけた。

著作

  • 「示現流飛燕之次第」(享保16年)
  • 「東郷実満覚書」(享保14年1編及び年不詳1編)

親族、家族

脚注

  1. ^ 「鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 諸氏系図」の『比志島氏系図』では、比志島義時の孫娘は「東郷藤兵衛重通」に嫁いでいるが、これは実満と思われる。
  2. ^ a b 将軍家世子徳川家重元服によるもの。江戸時代には、将軍の諱やその字の訓読みは藩主レベルでも将軍が下賜しない限り使用しない慣習があり、長州藩毛利重就桑名藩松平定猷のように、藩主でも改名や読みを変える場合があった。薩摩藩では将軍や藩主の本名の字を使ってならないという藩法がある(「薩藩政要録」参照)。これにより通字が「」の字であった薩摩の渋谷氏一族(実満一家や入来院重教(定恒)など)はいっせいに改名している。なお、「」の字は東郷家始祖の車内実重にちなむ
  3. ^ 久保之英の「示現流聞書喫緊録附録系図」には「重治者文盲也」とある。「分盲」とは武士の教養として必要な漢文の読み書き能力が十分でないことである。なお同資料では子の位照、実勝も「文盲」であったとしている。なお、「東郷氏支族家系図」では一時、島津綱貴の側小姓であったという。
  4. ^ 「東郷氏支族家系図」では、孫右衛門とあり、その娘としているが、『鹿児島県史料』では義時の子範武の次女である。範武は家督相続の1年後に死亡し、義時は[[元和 (日本)|]]年間から元禄5年の人であったから、孫娘とした比志島家系図の方が信憑性がある。養曾孫の比志島範房は島津吉貴の家老であった
  5. ^ 「東郷家系図」による。しかしながら「示現流聞書喫緊録附録系図」では比志島義時の娘は位照を産んですぐに亡くなり実勝の母は二階堂行家の娘とする。
  6. ^ 「鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集三」の『二階堂家正統系図』参照。なお、行格の子、行宅以降は「出右衛門」を称す。「東郷氏支族家系図」では行格の実父(養父は伯父二階堂三右衛門定行)二階堂源右衛門行家の娘とする。「諸家大概」では、二階堂源右衛門は藤原氏南家流二階堂氏嫡家であり、阿多郡田布施から、鹿児島に移ると言うが、この源右衛門は「鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集」では行格とする。

参考文献

  • 『鹿児島県史料集(34)』 示現流関係資料、鹿児島県史料刊行会、平成6年
  • 本田親礼「平姓東郷氏支族系図」(天明2年 鹿児島県立図書館蔵)
  • 『鹿児島県史料集IV 諸家大概他』
  • 東郷重政「示現流年代記」(鹿児島県立図書館蔵)
    東郷重政は示現流師範家11代目当主で現当主の父である
  • 「鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集三」