「本多忠考」の版間の差分
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2020年9月11日 (金) 21:54時点における版
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
---|---|
生誕 | 文化2年(1805年) |
死没 | 明治12年(1879年)11月21日 |
改名 | 乙見敬次郎(幼名)、忠祥(初名)、忠考 |
戒名 | 天誉晴空寿遷騰雲院 |
墓所 | 愛知県岡崎市能見町の源空寺 |
官位 | 従五位下美濃守、中務大輔 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 三河岡崎藩主 |
氏族 | 本多氏(平八郎家)→乙見氏→本多氏 |
父母 | 本多忠顕、乙見氏 |
兄弟 |
忠考、本多忠敬正室、丹羽氏賢正室、 阿部正暠正室、井上正廬正室ら |
妻 | 堀田正愛養女・幸 |
子 |
忠胤、水野忠誠、稲垣太清、 本多忠民正室、秀、栄子ら 忠民 |
本多 忠考(ほんだ ただなか)は、江戸時代後期の大名。三河国岡崎藩4代藩主。官位は従五位下・美濃守、中務大輔。忠勝系本多家宗家14代。
生涯
文化2年(1805年)、3代藩主・本多忠顕の四男として誕生。四男のため、はじめ母方の姓で乙見敬次郎を名乗っていた。文化11年(1814年)に本多姓に復し、本多忠祥と名乗る(のちに忠考と改名)。
文政4年(1821年)2月9日、父が隠居した際、親藩から養子を迎えようという動きもあったが、家督抗争の末に忠考が家督を継いだ。このとき、従五位下中務大輔に叙位・任官する。しかし文政11年(1828年)の矢作川洪水で2万石の損害と70人余りの死者を出すなど、藩財政の困難はさらに促進される。しかもこのような中で忠考は病弱で藩政が執れず、とても藩の窮境を打開できるような人物ではなかった。
また、実子・忠胤も病弱だったため(ただし他にも実子はいた)、親藩高松松平家から忠民を婿養子として迎え、天保6年(1835年)5月24日に忠民に家督を譲って隠居した。