本多康重
表示
本多康重像(忠恩寺蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天文23年(1554年) |
死没 | 慶長16年3月22日(1611年5月4日) |
別名 | 通称:彦次郎 |
墓所 | 撰要寺(静岡県掛川市横須賀) |
官位 | 従五位下豊後守 |
主君 | 徳川家康→秀忠 |
藩 | 上野白井藩主→三河岡崎藩主 |
氏族 | 本多氏(本多豊後守家) |
父母 | 父:本多広孝、母:松平義春の娘 |
妻 | 正室:石川家成の娘 |
子 | 康紀、紀貞、重世、娘(諏訪頼水正室)、娘(飛鳥井雅庸室)、娘(堀利重正室)、娘(遠藤慶勝正室) |
本多 康重(ほんだ やすしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。三河岡崎藩初代藩主。大名としての本多豊後守家初代。
本多広孝の長男。母は東条松平義春の娘。正室は大垣藩主・石川家成の娘。子に康紀(長男)、紀貞(三男)、重世(四男)、娘(諏訪頼水正室)、娘(飛鳥井雅庸室)、娘(堀利重正室)、娘(遠藤慶勝正室)ら。通称は彦次郎。官位は従五位下、豊後守。
生涯
[編集]永禄5年(1562年)、元服し主君の徳川家康から片諱を与えられる。永禄12年(1569年)、掛川城攻めにて初陣を果たした。元亀元年(1570年)の姉川の戦いや天正3年(1575年)5月の長篠の戦いに参加し、特に長篠の戦いにおける鳶巣山の戦いで武田軍に左股を撃たれ、その弾は生涯にわたり抜けなかった。
天正5年(1577年)、家督を継ぐ。小田原征伐後に家康が関東に移されると、三河田原城より上野白井藩に移され2万石を与えられた。関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)には三河岡崎藩に5万石を与えられた。
慶長16年(1611年)3月22日、58歳で死去し、跡を長男の康紀が継いだ。墓所は静岡県掛川市横須賀の撰要寺。
系譜
[編集]父母
正室
- 石川家成の娘
子女
備考
[編集]- 俳優鶴見辰吾の母方の先祖に当たる。