「崔庠」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
1行目: | 1行目: | ||
'''崔 庠'''(さい しょう、生年不詳 - [[533年]])は、[[北魏]]の[[官僚]]。[[字]]は文序。[[東清河郡]][[ |
'''崔 庠'''(さい しょう、生年不詳 - [[533年]])は、[[北魏]]の[[官僚]]。[[字]]は文序。[[東清河郡]][[淄川区|鄃県]]の出身。[[本貫]]は[[清河郡]][[東武城県]]。 |
||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
2020年9月11日 (金) 21:06時点における最新版
崔 庠(さい しょう、生年不詳 - 533年)は、北魏の官僚。字は文序。東清河郡鄃県の出身。本貫は清河郡東武城県。
経歴
[編集]崔長文の従弟にあたる。才幹があった。はじめ侍御史・員外散騎侍郎・給事中に任じられた。たびたび高句麗への使節として出国した。歩兵校尉に転じ、さらに司空掾に転じて、左右直長を兼ねた。後に相州長史として出向した。洛陽に召還されると、河陰県令や洛陽県令に任じられ、剛直なことで知られた。東郡太守に転じた。529年(永安2年)、元顥が南朝梁の支援を得て北進し、東郡の郡境に迫ると、崔庠は郡を放棄して郷里に逃げ帰った。河内に避難していた孝荘帝が洛陽に帰還すると、崔庠は平原伯の爵位を受け、潁川郡太守に任じられた。532年(永熙元年)、東徐州刺史に転じた。533年(永熙2年)5月、城民の王早・蘭宝らに殺害された[1]。後に驃騎将軍・吏部尚書・斉州刺史の位を追贈された。
子の崔罕が平原伯の爵位を嗣いだが、北斉が建国されると、爵位を降格された。