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北伐終了後も、[[1929年]](民国18年)に陝西招撫使、豫西警備司令を、その翌年に国民革命軍第34師師長を歴任し、主に[[紅軍]]との戦いを担当した。しかし、[[1931年]](民国20年)3月、鄂豫皖ソビエト区で紅軍との戦闘に敗北して捕虜とされてしまう。翌年8月11日、国民革命軍への内応を図ったとして、[[張国燾]]の命により河南省[[信陽市|光山県]]で銃殺刑に処された。享年50。国民政府から陸軍上将の位を追贈されている<ref name=Xu/><ref name=Liu/> |
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2020年9月6日 (日) 11:27時点における版
岳維峻 | |
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プロフィール | |
出生: | 1883年(清光緒9年) |
死去: |
1932年(民国21年)8月11日 中華民国河南省光山県 |
出身地: | 清陝西省同州府蒲城県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 岳維峻 |
簡体字: | 岳维峻 |
拼音: | Yuè Wéijùn |
ラテン字: | Yüe Wei-chün |
和名表記: | がく いしゅん |
発音転記: | ユエ ウェイジュン |
岳 維峻(がく いしゅん)は中華民国の軍人。北京政府、国民軍、国民政府(国民革命軍)に属した。字または号は西峰。岳飛の後裔とされる。[1][2][3]
事跡
16歳のとき、武学貢生となる。陝西省の革命派指導者である胡景翼の部下となり、また、中国同盟会にも加入した。辛亥革命後も一貫して胡に随従し、二次革命(第二革命)や護国戦争(第三革命)にも参加した。陝西第1師の旅長、1918年1月、胡が陝西靖国軍右翼軍を組織すると第3遊撃支隊司令や前敵総指揮として陳樹藩や劉鎮華と対峙した。1924年(民国13年)9月、勝威将軍の位を授与された。同年の第2次奉直戦争、北京政変(首都革命)を経て、胡が馮玉祥率いる国民軍に参加し、副司令兼第2軍軍長に就任すると、岳は国民軍第2師師長に任命された。[4][1][5][6][7]
同年12月、胡景翼が河南督軍として同省に入ると、岳維峻もこれに従った。まもなく、陝西督軍劉鎮華の配下である憨玉琨と胡との間で地盤争いが勃発すると(「胡憨之戦」)、岳はこれに参戦し、劉・憨を撃破する上で功があった。しかし、勝利直後の1925年(民国14年)4月10日、胡は病に倒れて急逝してしまう。岳は胡の地位を後継して、国民軍第2軍軍長兼署理河南督弁となった。第2軍は河南全省で25万人を擁していたが、うち国民軍出身者は4万人ほどしかおらず、他は土着軍閥の毅軍や豫軍出身者、呉佩孚軍や劉鎮華軍からの投降者などの寄せ集めであった[8]。
1926年(民国15年)1月に直隷派呉佩孚の支援を受けた劉は反撃に転じ、靳雲鶚の第1軍、寇英傑の第2路軍とともに河南省に進攻を開始。国民軍嫡系の田生春の第2師第4旅、楊瑞軒の第10混成旅を南部、蒋士傑の第11師を南東部の信陽、魯軍と対峙していた李紀才の第9師を東部に配備し、その他軍主力は開封鄭州、洛陽に配備する[9]。特に、蒋の第11師は第2路軍を1ヵ月以上押し留めるなど健闘を見せたが、国民軍出身ではなかった第11師第16旅長兼豫東鎮守使・郭振才が無抵抗のまま靳雲鶚に東部の帰徳を明け渡し、更に26日、毅軍の米振標も開封で靳を迎え入れ[9]、28日には鄭州への進軍の動きを見せていた[9]。岳は3月1日、鄭州で緊急会議を開いたところ、撤退が多数を占めたため、2日、鄭州を放棄、大部分は洛陽に、一部は直隷に向かった[10]。同日、鄭州は元部下で直隷派に寝返っていた田維勤の第20師が制圧した[10]。6日、李雲竜らとともに汽車で洛陽に到着したが、地元の紅槍会に弾薬を積載した貨車を襲撃され、更に西に逃れる[9][10]。劉鎮華はそれを追い、潼関を占領した[9]。
1926年(民国15年)9月の馮玉祥による五原誓師を経て、岳も国民革命軍に加わった。以後、第2集団軍第5方面軍総指揮、第3軍副軍長などを歴任し、北伐にも貢献した。[4][1][11][6][7]
北伐終了後も、1929年(民国18年)に陝西招撫使、豫西警備司令を、その翌年に国民革命軍第34師師長を歴任し、主に紅軍との戦いを担当した。しかし、1931年(民国20年)3月、鄂豫皖ソビエト区で紅軍との戦闘に敗北して捕虜とされてしまう。翌年8月11日、国民革命軍への内応を図ったとして、張国燾の命により河南省光山県で銃殺刑に処された。享年50。国民政府から陸軍上将の位を追贈されている[4][1] [11][6]。
注
- ^ a b c d 劉国銘主編(2005)、1585頁。
- ^ 劉紹唐主編(1975)、94頁。
- ^ ちなみに同じく岳飛の後裔とされる当時の要人としては岳開先もいる。ただし岳開先の出身地は四川省成都府である。なお外務省情報部編(1928)、465頁は、同頁内で岳開先につき「岳飛二十六世ノ孫ナリト稱セラル」と記述している一方で、岳維峻については何故か「前清武将ノ名門出ナル」としか記述していない。
- ^ a b c 徐主編(2007)、868頁。
- ^ 劉紹唐主編(1975)、94-95頁。
- ^ a b c 来ほか(2000)、1151頁。
- ^ a b 外務省情報部編(1928)、465頁。
- ^ 丁文江 (2007). 民国军事近纪 广东军事纪. 中华书局. p. 70. ISBN 9787101055320
- ^ a b c d e 邓书杰,李 梅,吴晓莉,苏继红 (2005). 风暴来临(1920-1929). 中国历史大事详解3. 吉林音像出版社. p. 479
- ^ a b c 蔣介石年譜(1887~1926). 九州出版社. (2012). p. 1125
- ^ a b 劉紹唐主編(1975)、95頁。
参考文献
- 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7。
- 劉紹唐主編『民国人物小伝 第1冊』伝記文学出版社、1975年。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 外務省情報部『現代支那人名鑑 改訂』東亜同文会調査編纂部、1928年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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