「ガッリエヌス」の版間の差分
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東方属州でもフルウィウス・マクリアヌス([[:en:Macrianus Major|en]])らが皇帝を僭称した。一方、ガッリエヌスは当時通商都市の一つであった[[パルミラ]]の実力者・[[セプティミウス・オダエナトゥス]]と結び、オダエナトゥスは軍隊を率いてペルシア軍の宿営地、アンティオキアに夜襲をかけてペルシア軍を敗走させ、エメサ(現:[[ホムス]])で皇帝を僭称していた[[ティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥス]]を討ち果たした。 |
東方属州でもフルウィウス・マクリアヌス([[:en:Macrianus Major|en]])らが皇帝を僭称した。一方、ガッリエヌスは当時通商都市の一つであった[[パルミラ]]の実力者・[[セプティミウス・オダエナトゥス]]と結び、オダエナトゥスは軍隊を率いてペルシア軍の宿営地、アンティオキアに夜襲をかけてペルシア軍を敗走させ、エメサ(現:[[ホムス]])で皇帝を僭称していた[[ティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥス]]を討ち果たした。 |
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しかし、帝国の権威失墜により[[ゴート族]]をはじめとする蛮族による帝国進入も激しくなる。また、オダエナトゥスはローマのために、さらに小アジアのゴート族を討伐に出かけてそれに成功して帰還したが、甥の[[マエオニウス]](Maeonius)との諍いから、宴会の最中、彼に暗殺されてしまった。オダエナトゥスの妻・[[ゼノビア]]がマエオニウスを処刑し、幼少の息子[[ウァバッラトゥス]]を後継者に据えてパルミラの実権を握ると、ゼノビアは今までのパルミラの方針を転換し、公然とローマに反旗を翻した。こうしてローマ帝国は、[[ガリア帝国]]・[[パルミラ |
しかし、帝国の権威失墜により[[ゴート族]]をはじめとする蛮族による帝国進入も激しくなる。また、オダエナトゥスはローマのために、さらに小アジアのゴート族を討伐に出かけてそれに成功して帰還したが、甥の[[マエオニウス]](Maeonius)との諍いから、宴会の最中、彼に暗殺されてしまった。オダエナトゥスの妻・[[ゼノビア]]がマエオニウスを処刑し、幼少の息子[[ウァバッラトゥス]]を後継者に据えてパルミラの実権を握ると、ゼノビアは今までのパルミラの方針を転換し、公然とローマに反旗を翻した。こうしてローマ帝国は、[[ガリア帝国]]・[[パルミラ帝国]]による帝国三分割を許してしまう。 |
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この事態に、皇帝ガッリエヌスは精力的に蛮族撃退に繰り出すが、ガリア帝国・パルミラは現状のまま放置することになった。蛮族対策のために[[エクィテス|騎士階級]]から登用した騎兵部隊を軍の主力とし、ローマ軍、ひいてはローマ市民層の変質をもたらした。ポストゥムスや[[アウレオルス]]ら皇帝を僭称する者達も相次ぎ、ローマ帝国の歴史においても屈指の国難の中、奮闘に奮闘を重ねたが結果が伴わず、[[クラウディウス・ゴティクス]]らのクーデターにより殺害された。 |
この事態に、皇帝ガッリエヌスは精力的に蛮族撃退に繰り出すが、ガリア帝国・パルミラは現状のまま放置することになった。蛮族対策のために[[エクィテス|騎士階級]]から登用した騎兵部隊を軍の主力とし、ローマ軍、ひいてはローマ市民層の変質をもたらした。ポストゥムスや[[アウレオルス]]ら皇帝を僭称する者達も相次ぎ、ローマ帝国の歴史においても屈指の国難の中、奮闘に奮闘を重ねたが結果が伴わず、[[クラウディウス・ゴティクス]]らのクーデターにより殺害された。 |
2020年9月5日 (土) 00:25時点における版
ガッリエヌス Gallienus | |
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ローマ皇帝 | |
ガッリエヌスの頭像 | |
在位 |
253年10月 - 268年9月 260年までウァレリアヌス帝と共治 |
全名 |
プブリウス・リキニウス・エグナティウス・ガッリエヌス(即位前) Publius Licinius Egnatius Gallienus インペラトル・カエサル・プブリウス・リキニウス・エグナティウス・ガッリエヌス・ピウス・フェリクス・インウィクトゥス・アウグストゥス(皇帝名) Imperator Caesar Publius Licinius Egnatius Gallienus Pius Felix Invictus Augustus |
出生 |
213年か218年 |
死去 |
268年10月 メディオラヌム近郊 |
配偶者 | ユリア・コルネリア・サロニナ |
子女 |
小ウァレリアヌス サロニヌス マリニアヌス |
父親 | ウァレリアヌス |
母親 | エグナティア・マリニアナ |
プブリウス・リキニウス・エグナティウス・ガッリエヌス(ラテン語: Publius Licinius Egnatius Gallienus, 218年頃 - 268年)は、軍人皇帝時代のローマ帝国の皇帝(共同皇帝としての在位:253年 - 260年、単独では260年 - 268年)。父親のウァレリアヌスと共に、エトルリアの血を引いていたという。
生涯
253年に父ウァレリアヌスと共に共同皇帝として即位し、ウァレリアヌスは帝国東部の戦線を、ガッリエヌスは帝国西部の戦線を担当することになった。
256年、サーサーン朝(ペルシア)のシャープール1世が、ローマ帝国領カッパドキアに侵攻。ウァレリアヌス率いるローマ軍は、259年にシリア属州のアンティオキアに到着する。ここを前線基地として、ペルシアとの戦いが開始された。ところが、父である皇帝ウァレリアヌスが259年にエデッサの戦いに敗れてペルシアに捕らえられたことにより、共同皇帝から単独皇帝に登位した。
しかし、ローマ皇帝捕囚のニュースはローマ帝国の権威を失墜させ、ガッリエヌスの息子プブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌスを殺害したマルクス・カッシアニウス・ラティニウス・ポストゥムスはローマ帝国内にガリア帝国を建国して皇帝を僭称した。
東方属州でもフルウィウス・マクリアヌス(en)らが皇帝を僭称した。一方、ガッリエヌスは当時通商都市の一つであったパルミラの実力者・セプティミウス・オダエナトゥスと結び、オダエナトゥスは軍隊を率いてペルシア軍の宿営地、アンティオキアに夜襲をかけてペルシア軍を敗走させ、エメサ(現:ホムス)で皇帝を僭称していたティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥスを討ち果たした。
しかし、帝国の権威失墜によりゴート族をはじめとする蛮族による帝国進入も激しくなる。また、オダエナトゥスはローマのために、さらに小アジアのゴート族を討伐に出かけてそれに成功して帰還したが、甥のマエオニウス(Maeonius)との諍いから、宴会の最中、彼に暗殺されてしまった。オダエナトゥスの妻・ゼノビアがマエオニウスを処刑し、幼少の息子ウァバッラトゥスを後継者に据えてパルミラの実権を握ると、ゼノビアは今までのパルミラの方針を転換し、公然とローマに反旗を翻した。こうしてローマ帝国は、ガリア帝国・パルミラ帝国による帝国三分割を許してしまう。
この事態に、皇帝ガッリエヌスは精力的に蛮族撃退に繰り出すが、ガリア帝国・パルミラは現状のまま放置することになった。蛮族対策のために騎士階級から登用した騎兵部隊を軍の主力とし、ローマ軍、ひいてはローマ市民層の変質をもたらした。ポストゥムスやアウレオルスら皇帝を僭称する者達も相次ぎ、ローマ帝国の歴史においても屈指の国難の中、奮闘に奮闘を重ねたが結果が伴わず、クラウディウス・ゴティクスらのクーデターにより殺害された。
ガッリエヌスは当時の国難に対処するための下記のような対処を重ねたが、結果、危機はますます深刻化した。
その1つがライン川とドナウ川防衛線を繋げていたリメス・ゲルマニクス(ゲルマニア防壁)の放棄である。当時防壁内に入り込んでいたアラマンニ族にその内部での居住を許し、その防衛を請け負わせようとした。そのために居住内建設資金という名目で、年貢金を支払うことまで受け入れた。当初は蛮族の侵入を阻止出来たものの、防壁の喪失はのちの時代に深く影響することになる。
また1つに、軍人と文官のキャリアを分離したことがある。元老院階級を筆頭とするエリート層に武官と文官との両方を経験させることで、総合的な視野と能力を有する人材を育成するというローマの伝統を失わせる結果となったといわれる。しかし、この文武の分離と、元老院階級の代わりに騎士階級の者たちを登用したと言う「ガリエヌス勅令」はそもそもの有無や、その実態をめぐって激しい論争がある(後述)。
彼はいくつかの詩も残しており、また哲学にも関心を抱き、哲学者プロティノスとも交流があった。
文武官の分離と歴史的意義
先行の研究者たちは、ローマ帝国の政治体制変容の指標として着目したのは「騎士階級の興隆」であり、ガリエヌス勅令は、これに決定的役割を果たしたと見做された。しかし、この記事は、4世紀の元老院議員で史家アウレリウス・ウィクトルの『皇帝史』にしか見えず、この『皇帝史』の史料的価値は低い事から、存在そのものが疑わしい。また、騎士身分者達の元老院身分官職への進出は、前帝のウァレリアヌス時代から始まっており、しかもその登用者は財務に明るい者が大半を占めた帝政期と異なり、大半は軍人が任命されている。
ウァレリアヌス帝時代を境に、皇帝は帝国防衛のためローマ市から離れ、軍隊と共に戦線が近い戦略的重要都市に常駐するようになっていった。この為、ローマ市に集まっている元老院議員との関係が希薄化し、反対に皇帝と軍人の間に密接な関係が生まれ、彼らの圧力かあるいは軍事的要請に従って、軍人層が台頭が促された。政治と軍事の分離は、こうした統治構造の変化が引き起こした現象であり、後のイリュリア出身皇帝の出現を準備する歴史的要因となったと考えられる[1]。
脚注
- ^ 井上文則 「第1章 「ガリエヌス勅令」をめぐって」、『軍人皇帝時代の研究 ローマ帝国の変容』収録、岩波書店、2008年 ISBN 978-4-00-022622-6
参考文献
- クリス・スカー 青柳正規監修、月村澄枝訳『ローマ皇帝歴代誌』、創元社、1998年、300頁。
- Bray,John.Gallienus :A study in reformist and sexual politics,us,wake field ,1999,p.404.