「藤堂高邁」の版間の差分
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| 兄弟 = 菊松、甲、[[藤堂高嶽|高嶽]]、順、[[藤堂高兌|高兌]]、穀、睦、挙、'''高邁'''、<br/>湧、埴、[[藤堂高允|高允]]、[[木下利徳]]、[[藤堂高愨|高愨]]、[[藤堂高醸|高醸]]、<br/>[[藤堂高 |
| 兄弟 = 菊松、甲、[[藤堂高嶽|高嶽]]、順、[[藤堂高兌|高兌]]、穀、睦、挙、'''高邁'''、<br/>湧、埴、[[藤堂高允|高允]]、[[木下利徳]]、[[藤堂高愨|高愨]]、[[藤堂高醸|高醸]]、<br/>[[藤堂高秭|高秭]]、そよ、彩、つれ、絃、延 |
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| 子 = 本([[藤堂信復]]室)、広三郎、西川信三郎<br/>隣、内田当之丞、[[藤堂高聴|高聴]]、重八郎<br/>周([[西村五斤]]室)、花([[服部竹助]]室)<br/>品([[箕浦少内]]室)、清([[町井秀太郎]]室)<br />養子:'''''[[藤堂高秭|高秭]]''''' |
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天明6年([[1786年]])3月2日、第7代藩主・藤堂高敦(のちに[[津藩]]の第9代藩主・[[藤堂高嶷]]となる)の五男として生まれる。[[文化 (元号)|文化]]3年([[1806年]])8月に父が死去すると、久居藩主を継いでいた同母兄の[[藤堂高兌|高兌]]が10月12日に津藩主を継ぐこととなった。そのため、高邁が12月10日に久居藩主を継いだ。文化4年([[1807年]])12月16日、従五位下・佐渡守に叙位・任官する。 |
天明6年([[1786年]])3月2日、第7代藩主・藤堂高敦(のちに[[津藩]]の第9代藩主・[[藤堂高嶷]]となる)の五男として生まれる。[[文化 (元号)|文化]]3年([[1806年]])8月に父が死去すると、久居藩主を継いでいた同母兄の[[藤堂高兌|高兌]]が10月12日に津藩主を継ぐこととなった。そのため、高邁が12月10日に久居藩主を継いだ。文化4年([[1807年]])12月16日、従五位下・佐渡守に叙位・任官する。 |
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藩政では、兄と共同して藩財政の苦しい久居藩の再建に努めた。倹約や緊縮財政、自ら綿服を着用しての生活制限を行い、文化7年([[1810年]])6月24日には文武の奨励も行っている。[[文政]]元年([[1818年]])12月18日に家督を弟で養子の[[藤堂高 |
藩政では、兄と共同して藩財政の苦しい久居藩の再建に努めた。倹約や緊縮財政、自ら綿服を着用しての生活制限を行い、文化7年([[1810年]])6月24日には文武の奨励も行っている。[[文政]]元年([[1818年]])12月18日に家督を弟で養子の[[藤堂高秭|高秭]]に譲って[[隠居]]し、大膳亮に遷任する。 |
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文政11年(1828年)9月26日、久居で死去した。享年43。 |
文政11年(1828年)9月26日、久居で死去した。享年43。 |
2020年9月3日 (木) 11:04時点における版
時代 | 江戸時代後期 |
---|---|
生誕 | 天明6年3月2日(1786年3月31日) |
死没 | 文政11年9月26日(1828年11月3日) |
改名 | 撤三郎(幼名)、高邁、芳崖(法号) |
別名 | 夾甫(字) |
戒名 | 浄国院殿慈忍皆空大居士 |
墓所 | 三重県津市寿町の寒松院 |
官位 | 従五位下、佐渡守、大膳亮 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 伊勢国久居藩主 |
氏族 | 藤堂氏 |
父母 | 父:藤堂高嶷、母:今津氏(智峯院) |
兄弟 |
菊松、甲、高嶽、順、高兌、穀、睦、挙、高邁、 湧、埴、高允、木下利徳、高愨、高醸、 高秭、そよ、彩、つれ、絃、延 |
子 |
本(藤堂信復室)、広三郎、西川信三郎 隣、内田当之丞、高聴、重八郎 周(西村五斤室)、花(服部竹助室) 品(箕浦少内室)、清(町井秀太郎室) 養子:高秭 |
藤堂 高邁(とうどう たかとう)は、伊勢久居藩の第13代藩主。久居陣屋の主。
生涯
天明6年(1786年)3月2日、第7代藩主・藤堂高敦(のちに津藩の第9代藩主・藤堂高嶷となる)の五男として生まれる。文化3年(1806年)8月に父が死去すると、久居藩主を継いでいた同母兄の高兌が10月12日に津藩主を継ぐこととなった。そのため、高邁が12月10日に久居藩主を継いだ。文化4年(1807年)12月16日、従五位下・佐渡守に叙位・任官する。
藩政では、兄と共同して藩財政の苦しい久居藩の再建に努めた。倹約や緊縮財政、自ら綿服を着用しての生活制限を行い、文化7年(1810年)6月24日には文武の奨励も行っている。文政元年(1818年)12月18日に家督を弟で養子の高秭に譲って隠居し、大膳亮に遷任する。
文政11年(1828年)9月26日、久居で死去した。享年43。