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「藤堂高邁」の版間の差分

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| 氏族 = [[藤堂氏]]
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| 父母 = 父:[[藤堂高嶷]]、母:今津氏(智峯院)
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天明6年([[1786年]])3月2日、第7代藩主・藤堂高敦(のちに[[津藩]]の第9代藩主・[[藤堂高嶷]]となる)の五男として生まれる。[[文化 (元号)|文化]]3年([[1806年]])8月に父が死去すると、久居藩主を継いでいた同母兄の[[藤堂高兌|高兌]]が10月12日に津藩主を継ぐこととなった。そのため、高邁が12月10日に久居藩主を継いだ。文化4年([[1807年]])12月16日、従五位下・佐渡守に叙位・任官する。
天明6年([[1786年]])3月2日、第7代藩主・藤堂高敦(のちに[[津藩]]の第9代藩主・[[藤堂高嶷]]となる)の五男として生まれる。[[文化 (元号)|文化]]3年([[1806年]])8月に父が死去すると、久居藩主を継いでいた同母兄の[[藤堂高兌|高兌]]が10月12日に津藩主を継ぐこととなった。そのため、高邁が12月10日に久居藩主を継いだ。文化4年([[1807年]])12月16日、従五位下・佐渡守に叙位・任官する。


藩政では、兄と共同して藩財政の苦しい久居藩の再建に努めた。倹約や緊縮財政、自ら綿服を着用しての生活制限を行い、文化7年([[1810年]])6月24日には文武の奨励も行っている。[[文政]]元年([[1818年]])12月18日に家督を弟で養子の[[藤堂高やつ|高秭]]に譲って[[隠居]]し、大膳亮に遷任する。
藩政では、兄と共同して藩財政の苦しい久居藩の再建に努めた。倹約や緊縮財政、自ら綿服を着用しての生活制限を行い、文化7年([[1810年]])6月24日には文武の奨励も行っている。[[文政]]元年([[1818年]])12月18日に家督を弟で養子の[[藤堂高|高秭]]に譲って[[隠居]]し、大膳亮に遷任する。


文政11年(1828年)9月26日、久居で死去した。享年43。
文政11年(1828年)9月26日、久居で死去した。享年43。

2020年9月3日 (木) 11:04時点における版

 
藤堂 高邁
時代 江戸時代後期
生誕 天明6年3月2日1786年3月31日
死没 文政11年9月26日1828年11月3日
改名 撤三郎(幼名)、高邁、芳崖(法号)
別名 夾甫(字)
戒名 浄国院殿慈忍皆空大居士
墓所 三重県津市寿町の寒松院
官位 従五位下、佐渡守、大膳亮
幕府 江戸幕府
伊勢国久居藩
氏族 藤堂氏
父母 父:藤堂高嶷、母:今津氏(智峯院)
兄弟 菊松、甲、高嶽、順、高兌、穀、睦、挙、高邁
湧、埴、高允木下利徳高愨高醸
高秭、そよ、彩、つれ、絃、延
本(藤堂信復室)、広三郎、西川信三郎
隣、内田当之丞、高聴、重八郎
周(西村五斤室)、花(服部竹助室)
品(箕浦少内室)、清(町井秀太郎室)
養子:高秭
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藤堂 高邁(とうどう たかとう)は、伊勢久居藩の第13代藩主。久居陣屋の主。

生涯

天明6年(1786年)3月2日、第7代藩主・藤堂高敦(のちに津藩の第9代藩主・藤堂高嶷となる)の五男として生まれる。文化3年(1806年)8月に父が死去すると、久居藩主を継いでいた同母兄の高兌が10月12日に津藩主を継ぐこととなった。そのため、高邁が12月10日に久居藩主を継いだ。文化4年(1807年)12月16日、従五位下・佐渡守に叙位・任官する。

藩政では、兄と共同して藩財政の苦しい久居藩の再建に努めた。倹約や緊縮財政、自ら綿服を着用しての生活制限を行い、文化7年(1810年)6月24日には文武の奨励も行っている。文政元年(1818年)12月18日に家督を弟で養子の高秭に譲って隠居し、大膳亮に遷任する。

文政11年(1828年)9月26日、久居で死去した。享年43。