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== 生い立ち ==
== 生い立ち ==
ウィルソンは1856年12月28日に[[牧師]]であった[[ジョゼフ・ラグルズ・ウィルソン]](1822年 - 1903年)博士とジェシー・ジャネット・ウッドロウ(1826年 - 1888年)の4人の子供の3番目、長男として[[バージニア州]][[スタントン (バージニア州)|スタントン]]で生まれる<ref> John Milton Cooper, ''Woodrow Wilson: A Biography'' (2009) pp 13-19</ref>。祖先は[[スコットランド人]]および[[アイルランド系アメリカ人|スコッチ=アイリッシュ]]であった。父方の祖父母は1807年に[[北アイルランド]]の[[ティロン]][[ストラベーン]]から移住した。祖父と父は敬虔なキリスト教牧師であり、特に父は[[合衆国長老教会]]の創設者の一人である。
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2020年8月31日 (月) 00:21時点における版

ウッドロウ・ウィルソン
Woodrow Wilson


任期 1913年3月4日1921年3月4日
副大統領 トーマス・R・マーシャル

任期 1911年1月17日 – 1913年3月1日

出生 1856年12月28日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 バージニア州 スタントン
死去 (1924-02-03) 1924年2月3日(67歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
政党 民主党
受賞 ノーベル平和賞
出身校 プリンストン大学 (B.A)
ジョンズ・ホプキンス大学 (Ph.D.)
現職 研究者(歴史学, 政治学
配偶者 エレン・ウィルソン
イーディス・ウィルソン
子女 マーガレット・ウッドロウ・ウィルソン
ジェシー・ウッドロウ・ウィルソン・セイヤー
エレノア・R・ウィルソン
署名

トーマス・ウッドロウ・ウィルソンThomas Woodrow Wilson, 1856年12月28日 - 1924年2月3日)は、アメリカ合衆国政治家政治学者であり、第28代アメリカ合衆国大統領である。アンドリュー・ジャクソンの次にホワイトハウスで連続2期を務めた2人目の民主党大統領である。

行政学の父と呼ばれる。

概要

進歩主義運動の指導者として1902年から10年までプリンストン大学の総長を務め、1911年から13年までニュージャージー州知事を務めた。1912年の大統領選挙では共和党セオドア・ルーズベルトウィリアム・ハワード・タフトの支持に分裂し、結果として民主党候補であったウィルソンが大統領に当選した。名誉学位ではなく、実際の学問上の業績によって取得した博士号を持つ唯一の大統領である。

1885年にブリンマー大学歴史学および政治学を教えた後、1886年にはジョンズ・ホプキンス大学から政治学の博士号 (Ph.D.) を受ける。1888年にコネチカット州ウェズリアン大学に勤め、1890年にプリンストン大学の法律学と政治経済学の教授に就任、1902年6月9日に満場一致でプリンストンの学長に選ばれた。1910年から翌年までアメリカ政治学会の会長であった。

1887年に執筆した論文『行政の研究』(The Study of Administration )において、政治行政分断論を提起し、実務的に政治(政党政治)と行政の分離(政治行政二分論)を唱え、猟官制の抑制と近代的官僚制の再導入を提唱するとともに、研究領域的に政治学から行政学を分離した。ウィルソンの行政学に関する論文はこれ1つだけであるが、これによって、フランク・グッドナウ英語版と並んでアメリカにおける行政学の創始者として位置づけられている[1][2]

合衆国大統領としては、当初の中立姿勢を放棄して戦争を終わらせるための戦争として第一次世界大戦への参戦を決断し、大戦末期にはウラジーミル・レーニンの「平和に関する布告」に対抗して「十四か条の平和原則」を発表、新世界秩序を掲げてパリ講和会議を主宰、国際連盟の創設に尽力した。その功績により、ノーベル平和賞を受賞している。敬虔な長老派教会の信者であったウィルソンは、教訓主義の深い感覚をインターナショナリズムに取り入れた。それは現在「ウィルソン主義」と呼ばれる。ウィルソン主義は、アメリカ合衆国が民主主義を標榜し国内外の政治体制の変革を追求することを使命と見なすことであり、今日も議論されるアメリカの外交政策の指針となった。ただし、ここまでの成果は慈善家のクリーブランド・ドッジ英語版の協力なしには得られなかった。

生い立ち

ウィルソンは1856年12月28日に牧師であったジョゼフ・ラグルズ・ウィルソン(1822年 - 1903年)博士とジェシー・ジャネット・ウッドロウ(1826年 - 1888年)の4人の子供の3番目、長男としてバージニア州スタントンで生まれる[3]。祖先はスコットランド人およびスコッチ=アイリッシュであった。父方の祖父母は1807年に北アイルランドティロン県ストラベーンから移住した。祖父と父は敬虔なキリスト教牧師であり、特に父は合衆国長老教会の創設者の一人である。

母親はペイズリー出身のトーマス・ウッドロウ博士と、グラスゴー出身のマリオン・ウィリアムソンの娘で、カーライルで生まれた[4]。母方の祖父母の白壁の家は、北アイルランドの観光名所となった[5]

ウィルソンの父親はオハイオ州スチューベンビル出身で、そこでは祖父が『ウェスタン・ヘラルド・アンド・ガゼット』紙を発行していた。同紙は関税支持および反奴隷制の立場にあった[6]。ウィルソンの両親は1851年に南に移動し、連合国を支持した。父親は奴隷制を擁護し、奴隷を所有、彼らのための日曜学校を開いた。父親の教会では傷ついた南軍の兵士の手当もした。彼はまた牧師として短期間南軍に従軍した[7]。ウィルソンの最も初期の記憶は、エイブラハム・リンカーンが大統領に選ばれ、戦争が始まったことであった。ウィルソンはロバート・E・リーの横に立って彼の顔を見上げたことをいつまでも忘れなかった[7]

ウィルソンの父は、1861年にアメリカ合衆国長老教会から分裂した南長老教会の創設者の一人であった。彼は南長老教会の初代の常任牧師であり、1865年から98年まで書記を務め、1879年には長老教会総会議長を務めた。ウィルソン自身は14歳まで、父親が牧師を務めたジョージア州オーガスタで成長した[8]。父は彼に牧師を継がせようとしたが、ウィリアム・グラッドストンに私淑して政治家を志した。ウィルソンは自らを「神の子」と信じていたふしがあり、政治への道を召命と見なしたことで、後にジークムント・フロイトの精神分析対象となった[9]

ウィルソンはディスレクシアのため、9歳まで文字が読めず、11歳まで文章を書くことができなかった[10]。しかしそれを克服するため、速記を独学で覚えた[11]。彼は決断と自己規律を通して学業を修め、自宅で父の指導の下で学んだ後、オーガスタの小さな学校に通った[12]レコンストラクションの間はサウスカロライナ州の州都コロンビアで暮らし、父は同地でコロンビア神学校英語版の教授を務めた[13]

ウィルソンは1873年にノースカロライナのデイビッドソン大学で学び、1年後にプリンストン大学へ編入し1879年に卒業した。彼はファイ・カッパ・サイのメンバーだった。2年目からは政治哲学と歴史に関する書籍を数多く読んだ。ウィルソンが公的生活に入るインスピレーションとなったのはイギリス人の議会スケッチ作家、ヘンリー・ルーシーであった。彼はアメリカン・ホィッグ・クリオソフィック・ソサエティ英語版の活動家であり、リベラル・ディベーティング・ソサエティを結成した[14]

1879年、ウィルソンはバージニア大学で1年間法律を学んだ。卒業はしなかったものの、バージニア・グリー・クラブ英語版およびジェファーソン・リタリティ・アンド・ディベーティング・ソサエティ英語版の活動に深く関わり、会長を務めた[15]。しかしながら体調不良のため大学を辞めることにし、ウィルミントンの自宅に戻り、そこで法律の勉強を続けた[16]

ニュージャージー州知事から大統領へ

ウィルソンは同時代の政治的問題に対する公的コメントにより全国的な評判を得、その立場の政治的重要性は増加した。1910年には民主党のニュージャージー州知事候補に指名されてこれを受諾、秋の選挙に勝利して学者出身知事となった。 1912年の大統領選で民主党は大統領候補にウィルソンを指名した。ウィルソンは大統領選で「ニュー・フリーダム」をスローガンに掲げた。共和党ウィリアム・タフトセオドア・ルーズベルトは互いに対立し、共和党は内部分裂した。結果、ウィルソンは大統領選に勝利した。

大統領として

議会で、ドイツとの休戦協定を読み上げるウィルソン。1918年11月11日

ウィルソンはニュー・フリーダムと呼ばれる進歩主義的国内改革を実行した。企業独占を支えた高率の関税を引き下げるなど、改革の意志を鮮明にした。一方、外交では共和党政権時代の「棍棒外交」や「ドル外交」を批判し、「宣教師外交」を主張したが実態は何も変わらず、中南米諸国から反発を招いた。ウィルソン政権下でハイチが保護国となりドミニカも軍政下に置かれた。また、メキシコ革命の際はアメリカ軍を派遣してベラクルスを武力占領し、革命に干渉した。

任期1期目でウィルソンは連邦準備法連邦取引法英語版クレイトン法農業信用法英語版および1913年歳入法英語版に基づく初めての連邦の累進所得税が議会通過するように民主党を説得した。ウィルソンはその政権に多くの南部人を起用し、彼らによる多くの連邦機関における隔離の拡大を許容した[17]

第一次世界大戦に対してアメリカ合衆国を中立の立場に保ち、それは 1916年の再選に寄与した(彼の再選に向けたキャンペーンのスローガンは「彼は私たちを戦争に巻き込みませんでした」であった)。しかし実際にはアメリカから連合軍側への物資・武器の提供や多額の戦費の貸付が行われており中立国の義務を果たしていない状況であり、それに対抗したドイツによる無制限潜水艦作戦によって発生したルシタニア号沈没事件による国民の反独感情や極東における日本の台頭を懸念する世論によって参戦への圧力は増大し、「ツィンメルマン電報」の暴露から1ヶ月後、アメリカは1917年4月6日にドイツへの宣戦を布告した。開戦に際し、ウィルソンは国内統制を強化し、愛国団体を通じてナショナリズムを煽り、労働運動や反戦運動などを弾圧した。

1917年にウィルソンは南北戦争以来初の徴兵を実施し、自由公債英語版を発行して何十億ドルもの戦費を調達、戦時産業局英語版を設置し、労働組合の成長を促進、リーバー法(戦後廃止)を通して農業と食糧生産を監督し、鉄道の監督を引き継ぎ、最初の連邦政府による麻薬取締法を制定し、反戦運動を抑圧した。彼は1917年から18年にかけて国を覆った反ドイツ感情の波を奨励しなかったが、その動きを止めることもしなかった。

第一次世界大戦末期の1918年1月8日に、ウィルソンは「十四か条の平和原則」を発表した。疲弊したドイツ帝国は降伏し休戦協定の締結へと至った。ウィルソンは英仏に「平和原則」を講和の前提とするように求めた。

パリ講和会議

パリ講和会議におけるアメリカ全権団とそのスタッフ
ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1919年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:国際連盟創設への貢献[18][19]

第一次世界大戦休戦後、和平会談に出席するため1918年12月4日、パリへ出発した。ウィルソンは在職中にヨーロッパへ外遊した最初の大統領である。ウィルソンは「平和原則」で示した公正な態度のため、連合国国民のみならず、旧中央同盟国国民からの期待も集めていた[20]。イギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた[21]。ウィルソンはジョルジュ・クレマンソー仏首相、デビッド・ロイド・ジョージ英首相とともに講和会議の三巨頭として主要な案件に携わり、戦後秩序の決定者の一人となった。しかし十四か条の平和原則がそれまで大戦中に英仏伊日など主要国が結んだ協定や条約を無効にし、アメリカの要求に従って最初から決めるように求める内容であったため会議参加国の反発を招き、特にドイツへの苛酷な賠償を求めるフランスのクレマンソーとの対立は根深く、一時は会議決裂すら危惧される情勢であった。また、国際連盟建設については意欲的であり、講和会議小委員会の一つである国際連盟委員会委員長にはウィルソンが自ら就任している[22]

この委員会で日本全権の牧野伸顕らは、国際連盟憲章に人種差別の禁止を盛り込むという人種的差別撤廃提案を提案した。ウィルソンの側近で代表団の一員であったエドワード・ハウス名誉大佐は日本側から草案を見せられた際に、ウィルソンも賛成するだろうと述べており、翌日にはウィルソンは大統領提案として人種差別撤廃を提案すると日本側に伝達している[23]。しかしイギリス連邦、特にオーストラリアの反発は強く、またアメリカ上院もこの提案が内政干渉にあたり、この提案が通れば条約を批准しないと猛反発した[24]。採決においては11対5で賛成多数だったにもかかわらず、「全会一致でない」「本件のような重大な問題についてはこれまでも全会一致、少なくとも反対者ゼロの状態で採決されてきた」として議長権限により否決とした[25]。一方で、日本が要求したドイツが持っていた山東半島の権益を日本に引き渡すという山東問題においては、日本が連盟不参加をほのめかす強硬措置を執ったため、不本意ではありながらも、親中華民国派が多いアメリカ全権団内部からの反発をまねきながらも、日本に山東半島の権益を引き渡すことに合意している[26]。しかし、最近の研究では日本が アメリカ、イギリス両国に会議への出席を要請されたが日本が参加しなかった場合、大国の日本が参加しなければ会議が成立しなかったという見解が学会を占めている。

ウィルソンはこの件にもあるように、国際連盟成立のために様々な譲歩を余儀なくされ、期待を寄せていた人々からの失望を買った。また山東問題の譲歩などで、アメリカ全権団内からの支持も失った[27]。それでもヴェルサイユ条約をはじめとする各講和条約が成立し、国際連盟も成立する運びとなった。しかしアメリカ上院は、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うという国際連盟規約10条が、モンロー主義を掲げるアメリカの中立主義に抵触すると反発した。側近はこの条項を受諾するに当たって留保条件をつけて上院の同意を得るべきだと説得したが、ウィルソンはこの譲歩に頑として応じなかった[28]。結果、上院は批准を行わず、アメリカは国際連盟に参加することはできなかった。1919年のノーベル平和賞受賞は、連盟創設の功績によるものである。

内閣

ホワイトハウスのポートレイト
職名 氏名 任期
大統領 ウッドロウ・ウィルソン 1913 - 1921
副大統領 トーマス・マーシャル 1913 - 1921
国務長官 ウィリアム・ブライアン 1913 - 1915
ロバート・ランシング 1915 - 1920
ベインブリッジ・コルビー 1920 - 1921
財務長官 ウィリアム・マカドゥー 1913 - 1918
カーター・グラス 1918 - 1920
デイヴィッド・ヒューストン 1920 - 1921
陸軍長官 リンドリー・ガリソン 1913 - 1916
ニュートン・ベイカー 1916 - 1921
司法長官 ジェームズ・マクレイノルズ 1913 - 1914
トーマス・グレゴリー 1914 - 1919
ミッチェル・パルマー 1919 - 1921
郵政長官 アルバート・バーレソン 1913 - 1921
海軍長官 ジョセファス・ダニエルズ 1913 - 1921
内務長官 フランクリン・レーン 1913 - 1920
ジョン・パイン 1920 - 1921
農務長官 デイヴィッド・ヒューストン 1913 - 1920
エドウィン・メレディス 1920 - 1921
商務長官 ウィリアム・レッドフィールド 1913 - 1919
ジョシュア・アレグザンダー 1919 - 1921
労働長官 ウィリアム・ウィルソン 1913 - 1921

政権末期

イーディス・ウィルソン夫人(右)と

もともと偏頭痛が持病であったが、1919年10月2日、コロラド州脳梗塞を発症、一命を取りとめたが、左半身不随、左側視野欠損、言語症と重い後遺症が残り、大統領としての執務は事実上不可能となった。しかし、主治医と大統領夫人のイーディスはこの事実を秘匿し、以後の国政の決裁はイーディスが夫の名で行うこととなった。ウィルソンは長期間のリハビリを経た後、政権末期頃になってようやく閣議に出席できるまでに回復したが、言語に明瞭さは戻ったものの機械的で感情を欠き、政策も無為無策で事なかれ主義が目立つものとなった。こうした事態を収拾し職務を代行すべきであったトーマス・マーシャル副大統領は、そもそもウィルソンと不仲で副大統領職も半ば嫌々引き受けたという事情もあり、大統領の職務不能を知ってもあえて火中の栗を拾おうとはせず、いくつかの儀典に大統領の名代として参加したほかは、職務権限の代行は一切しなかった。

こうした事実が明らかになったのは、実にウィルソンの死後になってからのことであり、これが後の大統領権限継承順位を明文化した憲法修正第25条制定の伏線となった。

結婚

エレン・ルイーズ夫人

1885年にジョージア州出身のエレン・ルイーズ・アクソンと結婚し、マーガレット、ジェシー、エレノアの三女をもうけた。エレンは徐々に健康を害し1914年腎臓炎で死去した。ウィルソンは、在任中に独身だったことのある3人の大統領のうちの一人となっている。

1915年、58歳のウィルソンは、ボーリング家(ポカホンタスの子孫)出身であり未亡人となっていた43歳のイーディス・ボリング・ガルト(Edith Bolling Galt、1872年 - 1961年)を紹介され再婚した。イーディスは第一次世界大戦下でファーストレディの重責を務め、1919年にウィルソンが倒れると2年間にわたり非公式ながら夫に代わって国政をみた。

1921年、ウィルソンと妻はホワイトハウスを離れ、ワシントンD.C.のエンバシー・ロウにある自宅に移った。ウィルソンは毎日のドライブを続け、土曜の夜はキースのボードビル劇場に通った。ウィルソンはアメリカ歴史協会英語版の会長を務めた2人の大統領の一人であった(もう一人はセオドア・ルーズベルト[29]

ウィルソンは1924年2月3日に自宅で死去した。彼はワシントン大聖堂に埋葬された。ウィルソンはワシントンD.C.に埋葬された唯一の大統領である[30]

妻のイーディスは夫の死後37年間を自宅で過ごし、1961年12月28日に死去した。その日はワシントンD.C.近くのウッドロウ・ウィルソン記念橋開通式典開催日で、彼女は式典の主賓であった。彼女は愛犬のルーターを枕元において死去した。

イーディスはアメリカ合衆国ナショナル・トラスト英語版に自宅を、夫の記念博物館にするよう託した。ウッドロウ・ウィルソン・ハウス英語版は博物館として公開される。1964年にはアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定され、1966年にはアメリカ合衆国国家歴史登録財に登録された[31]

ウィルソンは1917年5月31日に遺書を執筆し、妻イーディスを執行者に指名した。彼は娘のマーガレットに独身でいる限り毎年2,500ドルの年金を残し、前妻の動産も娘に託した。残りの財産と不動産はイーディスに相続させ、イーディスの死後に娘達が等分に相続するようにとした。イーディスに子供がいた場合、彼女の子供はウィルソンの娘と同等に遺産を相続したであろう。イーディスには子供がいなかったので、ウィルソンは彼女が3度目の結婚で子供を作った場合に備えていた[32]

その他

ウィルソンの肖像が描かれた10万ドル金貨証券英語版
  • ジョンズ・ホプキンズ大学の学生寮ウィルソン・ハウスは彼にちなんで命名された。
  • プリンストン大学公共政策大学院であるウッドロウ・ウィルソン・スクールも彼にちなんで命名された。しかし2020年6月27日、同大学はウィルソンが人種差別的な政策を進めたとして、彼の名を冠した学部・建物から名前を外すと発表した[33]
  • ウィルソンの肖像は1934年から1946年まで10万ドルの金貨証券英語版に用いられた。この額面10万ドルの金貨証券は金貨証券史上最高額面(および米ドル紙幣の最高額面1万ドルを上回るもの)であるが、行政命令6102英語版により一般市民が金貨証券(および流通用金貨と金地金)の所持を禁じられた後に発行されたものであり、連邦準備銀行財務省の財務処理のためにのみ使用された。
  • 原子力潜水艦ウッドロウ・ウィルソン (USS Woodrow Wilson, SSBN-624) は彼にちなんで命名された。
  • 現在のスロバキアの首都であるブラチスラヴァ市は、第一次世界大戦後短期間「ウィルソン市」(Wilsonovo mesto)と呼ばれた。これはウィルソン大統領がチェコスロバキアの建国を支援したことを記念したものであった。
  • 伝記にアーサー・リンク、草間秀三郎訳『ウッドロー・ウイルソン伝』(南窓社、1980年)がある。
  • 議会での口頭による一般教書演説を、ワシントン以来124年ぶりに行っている。
  • 宮脇淳子は自分がキリストであると証明するために政治を行っていたこと、毛沢東中国共産党)や左翼知識人からの評価が高いことが共通するなどとしてウッドロウ・ウィルソンを「アメリカの洪秀全」と評している[34]
  • 倉山満は著書『嘘だらけの日米近現代史』(扶桑社、2012年)等でウィルソンを「現在の世界の災厄を生み出した男」と批判している。「十四か条の平和原則」は「秘密外交の禁止」は大戦中に英仏伊日が結んだ約束は無効にする、「航海の自由」は海の縄張りを無視するという内容であるため、列強各国を激怒させ、「民族自決」は少数民族として扱われていた人々にその意思と「能力」があるなら主権国家をもたせようとするものであるが、「能力」の定義が極めて曖昧で、実際「武力」として考えられた。「自力で武器を持って立ち上がれ、勝てば国として認める」と捉えられたため、三・一独立運動五・四運動など過激な民族運動を巻き起こした。バルカン半島と中東の新秩序構築は「ハプスブルグ帝国は八つ裂き」「オスマントルコ帝国は抹殺」という内容であるため、両地域で20の国が独立し、現在では50の国になり、14箇条は世界中の過激派を喜ばせるだけの結果となった。またソ連邦が出現した際、レーニンによる共産主義革命という名の「世界全土の暴力による転覆」の訴えは危険極まりなかったため英仏が叩きのめそうとし、日本に東から応援を頼もうとしたが、ウィルソンがこれに待ったをかけ、「我が国は出兵しない」「いや出兵するから日本も協力せよ」「やはり日本の領土的野心が怪しいので兵は最大七万二千人とせよ」と次々と日本に要求し、当時の極端な拝米主義だった原敬内閣はこうした要求を呑んだため、ソ連は生き残りに成功した等、世界を混乱させたとしている。
  • 身長5フィート11インチ(約180cm)[35]

脚註

  1. ^ 真渕勝、『行政学』、有斐閣、2009年、p.532
  2. ^ 西尾勝、『行政学〔新版〕』、有斐閣、2001年、p.28
  3. ^ John Milton Cooper, Woodrow Wilson: A Biography (2009) pp 13-19
  4. ^ Genealogy of President Woodrow Wilson”. Wc.rootsweb.ancestry.com. 2010年9月11日閲覧。
  5. ^ President Wilson House, Dergalt”. Northern Ireland - Ancestral Heritage. Northern Ireland Tourist Board. 2011年2月11日閲覧。
  6. ^ Walworth 1958 p. 4
  7. ^ a b Woodrow Wilson - 28th President, 1913-1921”. PresidentialAvenue.com. 2011年2月11日閲覧。
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  9. ^ Freud, Sigmund and Bullitt, William C. Woodrow Wilson: A Psychological Study (1966)「ウッドロー・ウィルソン 心理学的研究」岸田秀訳(紀伊国屋書店、1969年)
  10. ^ Wilson: A Portrait”. American Experience, PBS Television (2001年). 2009年1月19日閲覧。
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  13. ^ Walworth ch 1
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  16. ^ Cranston 1945
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  29. ^ David Henry Burton. Theodore Roosevelt, American Politician, p.146. Fairleigh Dickinson University Press, 1997, ISBN 0-8386-3727-2
  30. ^ John Whitcomb, Claire Whitcomb. Real Life at the White House, p.262. Routledge, 2002, ISBN 0-415-93951-8
  31. ^ "Woodrow Wilson House", National Park Service Website, accessed 12 Jan 2009
  32. ^ Wills of the U.S. Presidents, edited by Herbert R Collins and David B Weaver (New York: Communication Channels Inc., 1976) 176-177, ISBN 0-916164-01-2.
  33. ^ “ウィルソン元米大統領の名前冠した学部・建物の名称変更…米大「人種差別的政策進めた」”. 讀賣新聞オンラインからYahoo!ニュースへの転載. (2020年6月28日). https://news.yahoo.co.jp/articles/2fce163934a5d436d462c223e5e489ad2ebddd8b 2020年6月29日閲覧。 
  34. ^ https://www.youtube.com/watch?v=B1ZeDigXJz4
  35. ^ The height differences between all the US presidents and first ladies ビジネス・インサイダー

参考文献

  • 牧野雅彦『ヴェルサイユ条約 マックス・ウェーバーとドイツの講和』中央公論新社、2009年。ISBN 978-4121019806 
  • 吉川宏「ロイド・ジョージとヨーロッパの再建-1-」『北大法学論集』第13巻第2号、北海道大学法学部 = The University of Hokkaido, Faculty of Law、1963年1月、282-359頁、NAID 120000973657 
  • 吉川宏「ロイド・ジョージとヨーロッパの再建-2-」『北大法学論集』第13巻第3号、北海道大学法学部、1963年3月、459-551頁、NAID 120000953565 
  • 吉川宏「ロイド・ジョージとヨーロッパの再建-3-」『北大法学論集』第14巻第1号、北海道大学法学部、1963年8月、66-157頁、NAID 120000963326 
  • 吉川宏「ロイド・ジョージとヨーロッパの再建-4(完)-」『北大法学論集』第14巻第2号、北海道大学法学部、1963年12月、203-234頁、NAID 120000964210 
  • 細谷千博「ヴェルサイユ平和会議とロシア問題」『一橋大學研究年報. 法學研究』第2巻、一橋大學、1959年、59-122頁、NAID 110007623673 

永田幸久「第一次世界大戦後における戦後構想と外交展開 : パリ講和会議における人種差別撤廃案を中心として」『中京大学大学院生法学研究論集』第23巻、中京大学、2003年、157-256頁、NAID 110006201180 

  • 中谷直司「ウィルソンと日本 -パリ講和会議における山東問題―」『同志社法學』第56巻第2号、同志社法學會、2004年、79-166頁、NAID 110001045060 

関連項目

外部リンク

公職
先代
ウィリアム・タフト
アメリカ合衆国大統領
1913年3月4日 - 1921年3月4日
次代
ウォレン・ハーディング
先代
ジョン・フランクリン・フォート
ニュージャージー州知事
1911年1月17日 - 1913年3月1日
次代
ジェームズ・フェアマン・フィールダー
(代行)
党職
先代
ウィリアム・ジェニングス・ブライアン
民主党大統領候補
1912年, 1916年
次代
ジェイムズ・コックス
先代
フランク・S・カッツェンバック
民主党ニュージャージー州知事候補
1910年
次代
ジェームズ・フェアマン・フィールダー
学職
先代
フランシス・L・パットン
プリンストン大学総長
1902年 - 1910年
次代
ジョン・A・スチュワート (代行)
ジョン・グリアー・ヒベン
受賞や功績
先代
ジュリオ・ガッティ=カザッツァ
タイム誌の表紙となった人物
1923年11月12日
次代
エーリヒ・ルーデンドルフ
先代
赤十字国際委員会
ノーベル平和賞受賞者
1919年
次代
レオン・ブルジョワ