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「上封寺」の版間の差分

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[[明代]][[嘉靖]]の時(1522年-1566年)に再建された際、天王殿と[[四大天王]]像の建立にあたっては、従来通り復元することが求められた。
[[明代]][[嘉靖]]の時(1522年-1566年)に再建された際、天王殿と[[四大天王]]像の建立にあたっては、従来通り復元することが求められた。


[[清代]]の『南嶽志』に「清[[康熙]]中(1662-1722年)、湖南巡撫[[周召南]]邀請高僧異目来寺作方丈、大修寺舍、建成一座四進両廊大仏寺。」と記録されている。[[同治]]年間(1862年-1874年)、[[曽国セン|曽国荃]]が先頭に立って出資し、寺院を再建<ref>{{cite news|author= |url=http://hunan.ifeng.com/a/20160117/4205865_0.shtml |title=唐浩明首講曽国荃(四):讀書做公益的頭号郷紳 |newspaper=鳳凰網 |date=2016-01-17 |language= zh|location=}}</ref>。
[[清代]]の『南嶽志』に「清[[康熙]]中(1662-1722年)、湖南巡撫[[周召南]]邀請高僧異目来寺作方丈、大修寺舍、建成一座四進両廊大仏寺。」と記録されている。[[同治]]年間(1862年-1874年)、[[曽国荃]]が先頭に立って出資し、寺院を再建<ref>{{cite news|author= |url=http://hunan.ifeng.com/a/20160117/4205865_0.shtml |title=唐浩明首講曽国荃(四):讀書做公益的頭号郷紳 |newspaper=鳳凰網 |date=2016-01-17 |language= zh|location=}}</ref>。


[[中華民国]]二十一年、湖南省政府主席の[[何鍵]]が宝生を招いて住職とした。天王殿、大雄殿、祖堂、禅堂、斉堂、寮房を修復した。
[[中華民国]]二十一年、湖南省政府主席の[[何鍵]]が宝生を招いて住職とした。天王殿、大雄殿、祖堂、禅堂、斉堂、寮房を修復した。

2020年8月26日 (水) 05:17時点における版

上封寺。

上封寺(じょうふうじ)は、中華人民共和国湖南省衡陽市南嶽区にある仏教寺院[1]

歴史

上封寺は、隋代大業年間(605年-618年)に創建された。「上封寺」の名を賜った。

唐代の末期、詩僧斉己上封寺に住した。

明代嘉靖の時(1522年-1566年)に再建された際、天王殿と四大天王像の建立にあたっては、従来通り復元することが求められた。

清代の『南嶽志』に「清康熙中(1662-1722年)、湖南巡撫周召南邀請高僧異目来寺作方丈、大修寺舍、建成一座四進両廊大仏寺。」と記録されている。同治年間(1862年-1874年)、曽国荃が先頭に立って出資し、寺院を再建[2]

中華民国二十一年、湖南省政府主席の何鍵が宝生を招いて住職とした。天王殿、大雄殿、祖堂、禅堂、斉堂、寮房を修復した。

文化大革命の時、紅衛兵により対寺廟などの宗教施設が徹底的に破壊された。

1983年、中華人民共和国国務院は仏寺を漢族地区仏教全国重点寺院に認定した。

1987年に大規模な再建によって、現在の基礎が築かれた。

伽藍

山門、大雄宝殿(本堂)、天王殿、記法堂、蔵経楼、観音殿、弥陀殿

文学

唐代の詩僧斉己の詩に云く:

猿鳥共不到、我来身欲浮。
四方皆碧落、絶頂正清秋。
宇宙知何極、華夷見細流。
壇西独立久、白日転神州。

畢田の詩に詠む:

既壮黄金宇、何言青玉壇。
誰將応供者、又此易仙官。

脚注

座標: 北緯27度17分41秒 東経112度41分39秒 / 北緯27.29483度 東経112.69415度 / 27.29483; 112.69415