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「丁部領」の版間の差分

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丁部領は父の地盤を継いで{{仮リンク|ホアルー洞|label=華閭洞|vi|Động Hoa Lư}}を支配した。叔父の[[丁預]]との抗争の最中2匹の黄龍に命を救われたという伝承があり<ref name="kokura" />、丁預を討伐して帰順させ、勢力を強めた。時に[[トンキン|安南]]は[[十二使君の乱]]によって豪族の地方割拠が進んでおり、丁部領もはじめは十二使君の一人であった[[陳覧]]に従い、後に同盟者となった<ref name="kokura" />。その際に陳覧の跡を継ぐ約束をしており、その死後、勢力を引き継いだ<ref name="kokura" />。
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[[乾和]]9年([[951年]])、[[呉朝]]への納貢を拒んだことから、[[呉昌岌]]・[[呉昌文]]に根拠地の華閭洞を包囲されたが、攻め落とされることはなかった。また使君の一人である[[呉日慶]]を降伏させた後、その母の黄氏を娶って妻とし、また娘の{{仮リンク|ファットキム祠|label=仏金公主|vi|Đền thờ Công chúa Phất Kim}}を呉日慶に嫁がせ、長男の[[丁璉]]には呉日慶の妹を娶らせた。


=== 十二使君の平定 ===
=== 十二使君の平定 ===
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==子女==
==子女==
===男子===
===男子===
#南越王 [[丁リエン|丁璉]](母は不詳)
#南越王 [[丁璉]](母は不詳)
#衛王 [[丁璿]](廃帝、母は{{仮リンク|楊雲娥|zh|楊雲娥}})
#衛王 [[丁璿]](廃帝、母は{{仮リンク|楊雲娥|zh|楊雲娥}})
#皇太子 {{仮リンク|丁項郎|zh|丁項郎}}(母は楊雲娥)
#皇太子 {{仮リンク|丁項郎|zh|丁項郎}}(母は楊雲娥)

2020年8月25日 (火) 05:08時点における版

先皇帝 丁部領
丁朝
初代皇帝
丁先皇像(ホアルー丁先皇廟)
国号 大瞿越
王朝 丁朝
在位期間 968年 - 979年
都城 華閭
姓・諱 丁桓(初名)→丁部領
尊号 大勝明皇帝
諡号 丁先皇[1]
別号 大勝明王、万勝王[1]
生年 乾亨8年2月15日
924年3月22日
没年 太平10年10月979年
丁公著
譚氏
后妃
陵墓 華閭山陵
元号 太平 : 970年 - 979年

丁 部領(てい ぶりょう[2][3][4]、てい ぶれい[5]、ディン・ボ・リン[1]ベトナム語Đinh Bộ Lĩnh / 丁部領)は、丁朝大瞿越中国語版の建国者。後世、丁先皇(ディン・ティエン・ホアン[1]ベトナム語Đinh Tiên Hoàng / 丁先皇)と尊称された。

生涯

ディン・ティエン・ホアン像(ニンビン

初名は丁桓(ディン・ホアン、ベトナム語Đinh Hoàn / 丁桓)といい、母の譚氏がカワウソと交わってできた子であるという伝承がある[1]。父の丁公著ベトナム語版楊廷芸の下で将軍を務め、驩州刺史として呉権に使えたが、丁部領がまだ幼い頃に死去している[1]

丁部領は父の地盤を継いで華閭洞ベトナム語版を支配した。叔父の丁預との抗争の最中2匹の黄龍に命を救われたという伝承があり[1]、丁預を討伐して帰順させ、勢力を強めた。時に安南十二使君の乱によって豪族の地方割拠が進んでおり、丁部領もはじめは十二使君の一人であった陳覧に従い、後に同盟者となった[1]。その際に陳覧の跡を継ぐ約束をしており、その死後、勢力を引き継いだ[1]

乾和9年(951年)、呉朝への納貢を拒んだことから、呉昌岌呉昌文に根拠地の華閭洞を包囲されたが、攻め落とされることはなかった。また使君の一人である呉日慶を降伏させた後、その母の黄氏を娶って妻とし、また娘の仏金公主ベトナム語版を呉日慶に嫁がせ、長男の丁璉には呉日慶の妹を娶らせた。

十二使君の平定

呉朝の呉昌熾を宴会に誘って脅し、屈服させた。また、杜景碩中国語版阮超中国語版とは長年にわたって争った。杜景碩は戦いの中で流れ矢に当たって戦死し、その兵は丁部領に降伏した。阮超は最も頑強な存在であったが、阮超軍の渡河中に突風が起こり、軍船や軍の物資はすべて水中に沈んだことを知った丁部領は、十人の勇士を潜入させて阮超の陣営を焼き、阮超軍を大いに破った。その後、矯順阮守捷中国語版阮寛中国語版呂唐中国語版らの使君を各個撃破して、安南を統一した。負け知らずの丁部領を民衆は「万勝王」と呼んだ[1]

大瞿越皇帝

大宝11年(968年)に帝位につき、国号を「大瞿越(だいくえつ[6]、ダイコーヴェト[7])」とし華閭に都を置いた[1]。華閭はこの後、順天元年(1010年)の昇龍遷都まで都として在り続けた。の皇帝の存在がありながら自らも皇帝を名乗り、丁璉を南越王に封じた[1]。太平2年(971年)には行政官僚・軍司令官・僧侶・道士などに位階制度を設け、軍制も整備した[1]。太平4年(973年)には宋への朝貢を行った[7]。また、ベトナムで初めて元号をもうけ、989年を太平元年とした[1]

晩年は政権の安定を図って多くの有力氏族から皇后を迎えたことがかえって宮廷内乱の元となり、太平10年(979年)、丁璉と共に祗候内人杜釈中国語版によって殺された[1]

関連項目

2011年8月ベトナム人民海軍ロシアから購入したゲパルト型フリゲートが、ベトナム史草創期の王朝を打ち建てた二大皇帝 (丁先皇と李太祖)の名にちなんでディン・ティエン・ホアン英語版リ・タイ・ト英語版と命名された。

子女

男子

  1. 南越王 丁璉(母は不詳)
  2. 衛王 丁璿(廃帝、母は楊雲娥中国語版
  3. 皇太子 丁項郎中国語版(母は楊雲娥)

女子

  1. 明珠公主(陳覧の弟・陳升に嫁す)
  2. 仏金公主(母は不詳、呉日慶に嫁す)

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 小倉貞男『物語 ヴェトナムの歴史 一億人のダイナミズム』〈中公新書〉、62-69頁。ISBN 4-12-101372-7 
  2. ^ 小林知 著「丁部領」、池内宏; 矢野仁一; 橋本増吉 編『東洋歴史大辞典』 中(縮刷復刻)、臨川書店、1986年10月1日、1418-1419頁。ISBN 978-4653014690 
  3. ^ 酒井良樹 著「丁部領」、平凡社 編『アジア歴史事典』 6巻(新装復刊)、平凡社、1984年4月、1418-1419頁。ISBN 978-4582108002 
  4. ^ 日外アソシエーツ編 編『東洋人物レファレンス事典 政治・外交・軍事篇』日外アソシエーツ、2014年8月、429頁。ISBN 978-4-8169-2494-1 
  5. ^ 「東南アジア史の中の「中国」」『東南アジアの歴史―人・物・文化の交流史』、33頁。 
  6. ^ 「ベトナムの拡張」『東南アジアの歴史―人・物・文化の交流史』、50頁。 
  7. ^ a b 石井米雄・桜井由躬雄『ビジュアル版世界の歴史12 東南アジア世界の形成』講談社、116-117頁。ISBN 4-06-188512-X 

参考資料

先代
丁朝の初代皇帝
968年 - 979年
次代
廃帝