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初め[[丁部領]]に仕えて[[十二使君の乱]]の平定に貢献し、[[丁朝]]が成立すると十道将軍殿前都指揮使に任じられている。[[太平 (丁朝)|太平]]10年([[979年]])に丁部領とその長男の[[丁リエン|丁璉]]が祗候内人の{{仮リンク|杜釈|zh|杜釋}}によって殺害されると、後継の次男[[丁璿]]は幼少であったため、黎桓は丁部領の皇后であった{{仮リンク|楊雲娥|zh|楊雲娥}}と私通し、副王を称して丁朝の実権を掌握した。定国公{{仮リンク|阮匐|zh|阮匐}}や外甲の{{仮リンク|丁佃|vi|Đinh Điền}}・{{仮リンク|范盍|vi|Phạm Hạp}}らは、黎桓の専権に反発して挙兵したが、兵力に優っていた黎桓はこれらを鎮圧している。この内乱の時期に[[北宋]]は[[邕州]]知事であった{{仮リンク|侯仁宝|zh|侯仁寶}}の[[安南都護府|安南]]回復の建議を採用し、水陸両路から侯仁宝ら率いる宋軍が侵攻してきた([[白藤江の戦い (981年)|白藤江の戦い]])。この国難を乗り切るべく丁朝の朝臣に推された黎桓は[[980年]]に皇帝に即位、前黎朝を建てた。はじめ大瞿越軍は不利であったが奇襲して宋軍を破った。後に黎桓は北宋からの冊封を求め、北方の[[契丹]]の脅威に晒されていた北宋も黎桓を冊封、[[興統]]5年([[993年]])には[[交趾郡]]王に、[[応天 (前黎朝)|応天]]4年([[997年]])には南平王に封じて前黎朝を承認した。 |
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[[天福 (前黎朝)|天福]]3年([[982年]])には[[チャンパ王国|チャンパ]]に親征してその王都{{仮リンク|インドラプラ (チャンパ)|label=インドラプラ|en|Indrapura (Champa)}}を攻め落とし、臣称して貢納を納めるよう迫った。前黎朝の国内統治の実質は軍政で、法治は峻厳で刑罰は重かった。運河を開鑿して経済の発展を見た。また11人の子を分封して王とし各地の守備・統治に当たらせている。応天9年([[1002年]])には全国十道を路・州・府に改めるなど地方制度の確立を図ったが、諸王間の内訌は続き、また地方豪族の反抗、農民反乱や少数民族の蜂起が多発するなど政情は不穏であった。黎桓はこれらの抵抗に対して過酷な鎮圧を行ったと史書に記されている。応天6年([[999年]])に少数民族である[[ムオン族|芒人]]の乱を平定する際には河蛮洞(現在の[[タインホア省]][[タックタイン県]])など四十九洞を陥とし乱を平定している。応天12年([[1005年]])、長春殿において64歳で崩御した。死後、皇太子であった三男の南封王[[黎龍鉞]]が即位した。 |
2020年8月25日 (火) 01:10時点における版
大行皇帝 黎桓 | |
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前黎朝 | |
初代皇帝 | |
黎大行像(ホアルー) | |
国号 | 大瞿越 |
王朝 | 前黎朝 |
在位期間 | 980年 - 1005年 |
都城 | 華閭 |
姓・諱 | 黎桓 |
尊号 | 明乾応運神武昇平至仁広孝皇帝 |
諡号 | 大行皇帝[1] |
生年 |
大有14年7月15日 (941年8月10日) |
没年 |
応天12年3月8日 (1005年4月19日) |
父 | 黎覔 |
母 | 鄧氏 |
后妃 | 大勝明皇后、奉乾至理皇后、順聖明道皇后、鄭国皇后、范皇后 |
陵墓 | 徳陵 |
元号 |
天福 : 980年 - 988年 興統 : 989年 - 993年 応天 : 994年 - 1005年 |
黎 桓(れい かん、レ・ホアン、ベトナム語:Lê Hoàn / 黎桓)は、前黎朝大瞿越の創始者。後世には黎大行(レ・ダイ・ハイン、ベトナム語:Lê Đại Hành / 黎大行)とも称される。
生涯
愛州清蓮県(現在のハナム省タインリエム県)に黎覔と鄧氏の子として生まれる。先祖は現在の中華人民共和国広西チワン族自治区の桂林市陽朔県の出身であると伝えられる。幼くして両親を失い、同じ愛州の黎観察に養育されて成長した。
初め丁部領に仕えて十二使君の乱の平定に貢献し、丁朝が成立すると十道将軍殿前都指揮使に任じられている。太平10年(979年)に丁部領とその長男の丁璉が祗候内人の杜釈によって殺害されると、後継の次男丁璿は幼少であったため、黎桓は丁部領の皇后であった楊雲娥と私通し、副王を称して丁朝の実権を掌握した。定国公阮匐や外甲の丁佃・范盍らは、黎桓の専権に反発して挙兵したが、兵力に優っていた黎桓はこれらを鎮圧している。この内乱の時期に北宋は邕州知事であった侯仁宝の安南回復の建議を採用し、水陸両路から侯仁宝ら率いる宋軍が侵攻してきた(白藤江の戦い)。この国難を乗り切るべく丁朝の朝臣に推された黎桓は980年に皇帝に即位、前黎朝を建てた。はじめ大瞿越軍は不利であったが奇襲して宋軍を破った。後に黎桓は北宋からの冊封を求め、北方の契丹の脅威に晒されていた北宋も黎桓を冊封、興統5年(993年)には交趾郡王に、応天4年(997年)には南平王に封じて前黎朝を承認した。
天福3年(982年)にはチャンパに親征してその王都インドラプラを攻め落とし、臣称して貢納を納めるよう迫った。前黎朝の国内統治の実質は軍政で、法治は峻厳で刑罰は重かった。運河を開鑿して経済の発展を見た。また11人の子を分封して王とし各地の守備・統治に当たらせている。応天9年(1002年)には全国十道を路・州・府に改めるなど地方制度の確立を図ったが、諸王間の内訌は続き、また地方豪族の反抗、農民反乱や少数民族の蜂起が多発するなど政情は不穏であった。黎桓はこれらの抵抗に対して過酷な鎮圧を行ったと史書に記されている。応天6年(999年)に少数民族である芒人の乱を平定する際には河蛮洞(現在のタインホア省タックタイン県)など四十九洞を陥とし乱を平定している。応天12年(1005年)、長春殿において64歳で崩御した。死後、皇太子であった三男の南封王黎龍鉞が即位した。
子女
男子は11人の子と1人の養子がいた。
子
- 擎天大王 黎龍鍮 - 皇太子に立てられたが早世した。
- 東城大王 黎龍錫(黎龍銀)
- 中宗 黎龍鉞
- 御蛮王 黎龍釘
- 開明大王 黎龍鋌
- 御北王 黎龍釿
- 定藩王 黎龍鏦
- 副王 黎龍鏘
- 中国王 黎龍鏡
- 南国王 黎龍鋩
- 行軍王 黎龍鍉
- 貞明皇后 黎氏仏銀 - 李公蘊に嫁した。
養子
- 扶帯王 楊熙璉 - 楊三哥の孫。はじめ黎桓には子がなかったため養子とした。
脚注
参考資料
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