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伊達 保子(だて やすこ、文政10年(1827年) - 明治37年(1904年)11月13日)は江戸時代末期から明治時代にかけての武家女性。仙台藩11代藩主伊達斉義の3女。初名は佑姫。出家後は貞操院。娘婿である伊達邦成北海道開拓を支えた。

生涯

天保15年、17歳で分家の亘理伊達家13代当主・伊達邦実に嫁ぐ。当時の仙台藩の財政は苦しく、嫁入り道具が作れないので、歴代藩主夫人の嫁入り道具の中から保子が気に入ったものを持参した。

一男一女を産むが、男子は早世。安政6年(1859年)に夫と死別し、落飾する。1人娘の豊子に婿養子として伊達邦成を迎える。宗家では邦成を他家に養子にする予定だったが、保子が反対して強引に亘理伊達家に迎え入れた。

戊辰戦争により亘理伊達家は領地のほとんどを失い、路頭に迷う藩士たちのため、明治2年(1869年)、邦成は北海道移住を決意する。ここで保子は「自分も行きます」と言い張った。保子は邦成の義母とはいえ、伊達宗家の姫君であり、東京に出た兄の慶邦も一緒に住もうと引き留めるが、保子は聞き入れなかった。

保子は身の回りの物を売って旅費を作り、45歳の明治4年2月、第三回移住で胆振国有珠郡(北海道伊達市)に渡った。保子の決断は迷う士族の気持ちを奮い立たせた。

有珠の会所の物置を移して仮住まいした。慣れない環境で暮らす姫君の姿に家臣達は涙した。保子は娘の豊子を伴い、自ら作った草餅を重箱に詰め、開拓に励む人々を労った。明治6年に伊達館ができると、2階に棚を設け、蚕を育てて糸を紡いだ。自ら働き、一粒の米も大切にする保子は開拓民の心の支えとなる。

明治37年、78歳で死去。墓所は娘夫婦と共に伊達市霊園にある。

参考文献