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1961年3月 第2軍司令官。同年5月に起きた[[5・16軍事クーデター]]は消極的に支持していた<ref>{{Cite news | title = 5·16 때 대구 2군사령부에서도 군 출동 있었다 | url= http://news.joins.com/article/17822341 | agency = 中央日報 |language = ko | date = 2015-05-18 | accessdate =2016-01-04}}</ref>。翌6月に予備役編入。[[ジョージ・ワシントン大学]]に留学。1963年3月21日、[[朴正熙]]の軍事政権延長提案に反対するデモを起こした<ref name=news/>。 |
1961年3月 第2軍司令官。同年5月に起きた[[5・16軍事クーデター]]は消極的に支持していた<ref>{{Cite news | title = 5·16 때 대구 2군사령부에서도 군 출동 있었다 | url= http://news.joins.com/article/17822341 | agency = 中央日報 |language = ko | date = 2015-05-18 | accessdate =2016-01-04}}</ref>。翌6月に予備役編入。[[ジョージ・ワシントン大学]]に留学。1963年3月21日、[[朴正熙]]の軍事政権延長提案に反対するデモを起こした<ref name=news/>。 |
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1965年7月14日、[[金弘壹]]、{{仮リンク|金在春|ko|김재춘 (1927년)}}、[[朴炳権]]、朴圓彬、[[白善鎮]]、[[宋堯讃]]、[[孫元一 (軍人)|孫元一]]、[[張徳昌]]、[[李澔]]、{{仮リンク|曺興萬|ko|김재춘 (1927년)}}ら予備役将軍と共に[[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約|日韓協定]]の反対声明を発表<ref>{{cite news| url =http://www.pressian.com/news/article.html?no=121248| title =반공 목사들이 박정희에게 정면으로 반기 든 사연 | newspaper = 프레시안| date = 2014-10-25| accessdate = 2019-08-04| language = ko}}</ref>。デモによって学生と軍が衝突する中、翌8月27日には「国軍将兵に送る呼訴文」を発表<ref name=news0214>{{cite news| url =http://www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/624234.html| title =각하들도 피하지 못한 내란의 추억 | newspaper = 한겨레| date = 2014-02-14| accessdate = 2019-08-04| language = ko}}</ref>。国軍将兵が神聖な国土防衛の使命よりも執権者によって国民や国家の利益に反する目的で動員される悲しき事態に至ったとし、執権者たちを反民族行為者であり、民主主義に逆らう反国家行為者だと糾弾した<ref name=news0214/>。また国軍将兵には、どんな状況でも愛国国民に銃を向けてはならないと訴えた<ref name=news0214/>。 |
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2020年8月24日 (月) 12:00時点における版
崔慶禄 | |
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生誕 |
1920年9月21日 日本統治下朝鮮忠清北道陰城 |
死没 |
2002年9月2日(81歳没) 大韓民国ソウル特別市 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 大韓民国陸軍 |
最終階級 |
准尉(日本陸軍) 中将(韓国陸軍) |
墓所 | 国立大田顕忠院将軍第1墓域14号 |
崔 慶禄(チェ・ギョンロク、최경록)は大韓民国の軍人、外交官、政治家。
経歴
1920年9月、忠清北道陰城に生まれる。1938年、日本陸軍に志願(志願兵1期)。1939年12月、陸軍兵志願者訓練所を修了して歩兵第79連隊に配属[1]。同世代の中で最も優秀な成績で下士官候補生に選ばれた[1]。下士官候補生試験の他に陸軍士官学校の試験にも合格した[2]。入校待機状態である途中、南方に送られニューギニアの戦いを経験した[2]。戦闘で重傷を負ったが、昔から縁のあった第20師団参謀長小野武雄大佐の配慮によって、マニラ陸軍病院、小倉陸軍病院、東京第1陸軍病院を経て搬送された[1]。1944年、豊橋予備士官学校を卒業して准尉に任官。
1946年1月、軍事英語学校卒業、任少尉(軍番10011番)[3]。第1連隊の創設に参与し、同連隊A中隊(中隊長:蔡秉徳大尉)小隊長[4]。
1948年6月21日、第11連隊長となり済州島に赴任した。1950年6月、朝鮮戦争が勃発すると臨津江の戦闘で勇戦した。同年7月、首都師団参謀長。1951年1月14日、憲兵司令官[5]。1952年、国防部第1局長。同年春、戒厳令を宣布するよう命じられた李起鵬国防部長官から意見を求められ「戒厳令の要件を満たしていない」と答え、これに李起鵬も同意して戒厳令を宣布することは出来ないと伝えると、李起鵬と共に現職を解任された[6]。1953年、アメリカ陸軍指揮幕僚大学卒業。
1955年第2軍副司令官。1958年、国防大学院卒業。1959年、国防大学院院長。1960年、陸軍参謀次長。同年4月に起きた四月革命では宋堯讃戒厳司令官の発砲命令に対して中断するように命じた[2]。同年5月に許政は、崔を陸軍参謀総長に採用しようとしたが、張勉と縁があった崔は陸軍参謀総長を遠慮した[2]。しかし張勉が国軍人事を断行し、崔は陸軍参謀総長に就任した[2]。韓国軍で最初の大規模起動訓練を実施[7]。また創軍以来、初めて兵力の削減を実施し、軍の効率性の向上に大きく寄与した[7]。その他、東海岸地域に東海岸警備司令部を創設して海岸線警備を強化した[7]。
1961年3月 第2軍司令官。同年5月に起きた5・16軍事クーデターは消極的に支持していた[8]。翌6月に予備役編入。ジョージ・ワシントン大学に留学。1963年3月21日、朴正熙の軍事政権延長提案に反対するデモを起こした[2]。
1965年7月14日、金弘壹、金在春、朴炳権、朴圓彬、白善鎮、宋堯讃、孫元一、張徳昌、李澔、曺興萬ら予備役将軍と共に日韓協定の反対声明を発表[9]。デモによって学生と軍が衝突する中、翌8月27日には「国軍将兵に送る呼訴文」を発表[10]。国軍将兵が神聖な国土防衛の使命よりも執権者によって国民や国家の利益に反する目的で動員される悲しき事態に至ったとし、執権者たちを反民族行為者であり、民主主義に逆らう反国家行為者だと糾弾した[10]。また国軍将兵には、どんな状況でも愛国国民に銃を向けてはならないと訴えた[10]。
「祖国近代化に参加してほしい」という朴正熙の執拗な説得によって1967年にアメリカから帰国して駐メキシコ大使に赴任[11]。
1971年、駐イギリス大使。
1974年、交通部長官。裡里駅爆発事故が起こると与党はおろか野党ですら鉄道庁長が責任を負うべき事案として引き留めたが、崔は辞任した[11]。
全斗煥の度重なる要請により、1980年から5年間、駐日大使を務めた[11]。
1989年1月、産経新聞に掲載された崔慶禄の寄稿文が波紋を呼んだが[12]、これに対して崔は「陸軍参謀総長、交通長官など公職と駐英、駐日大使など20余年間外交官生活をしてきた私がそのような分別のない言葉を述べたのか」と反問し、寄稿文について否定している[13]。
1987年、在郷軍人会会長。
2002年9月2日午後11時半頃、自宅で老衰により死亡[7]。
叙勲
- 乙支武功勲章
- 忠武武功勲章
- 修交勲章光化章
- 青條勤政勲章
- レジオン・オブ・メリット - 1961年4月11日[14]
出典
- ^ a b c 정안기 2018, p. 190.
- ^ a b c d e f “죽을래야 죽을 수 없고 살래야 살 수 없다” (朝鮮語). 제주의소리. (2014年3月27日) 2016年1月4日閲覧。
- ^ 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国編 上巻』、85頁。
- ^ 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国編 上巻』、118頁。
- ^ “헌병소개 > 역대지휘관 (憲兵紹介 >歴代指揮官)”. 大韓民国陸軍憲兵. 2016年2月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年8月4日閲覧。
- ^ “(354)전시하의 정치파동(3)”. 中央日報. (1972年7月24日) 2019年8月4日閲覧。
- ^ a b c d “[전우광장]제13대 육군참모총장 최경록 장군 별세” (朝鮮語). 국방일보. (2002年9月4日) 2018年2月20日閲覧。
- ^ “5·16 때 대구 2군사령부에서도 군 출동 있었다” (朝鮮語). 中央日報. (2015年5月18日) 2016年1月4日閲覧。
- ^ “반공 목사들이 박정희에게 정면으로 반기 든 사연” (朝鮮語). 프레시안. (2014年10月25日) 2019年8月4日閲覧。
- ^ a b c “각하들도 피하지 못한 내란의 추억” (朝鮮語). 한겨레. (2014年2月14日) 2019年8月4日閲覧。
- ^ a b c “[故 최경록 전 육참총장]"내 탓이오"했던 청렴한 공직자” (朝鮮語). 中央日報. (2002年9月4日) 2020年4月21日閲覧。
- ^ “최경록 전주일대사 일지 기고문 파문” (朝鮮語). 中央日報. (1989年1月11日) 2020年4月21日閲覧。
- ^ “최경록씨 "회견내용 잘못 보도" 산케이 "본인 이의제기 없었다"” (朝鮮語). 中央日報. (1989年1月12日) 2020年4月21日閲覧。
- ^ “Choi Kyung Nok”. Military Times. 2019年8月4日閲覧。
参考
- 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 上巻 建軍と戦争の勃発前まで』原書房、1976年。
- 정안기 (2018). “한국전쟁기 육군특별지원병의 군사적 역량”. 군사연구 (육군군사연구소) 146: 171-206.
軍職 | ||
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先代 張昌国 |
大韓民国陸軍憲兵司令官 第8代:1951.1.14 - 1952.1.20 |
次代 沈彦俸 |
先代 崔榮喜 |
大韓民国陸軍参謀総長 第13代:1960年 - 1961年 |
次代 張都暎 |
先代 張都暎 |
大韓民国陸軍第2軍司令官 第4代:1961年 |
次代 閔キ植 |
外交職 | ||
先代 呉天錫 |
在メキシコ大韓民国大使 第3代:1967年 - 1971年 |
次代 李昌熙 |
先代 裵義煥 |
在イギリス大韓民国大使 第6代:1971年 - 1974年 |
次代 金溶植 |
先代 金正濂 |
駐日大韓民国大使 第7代:1980年 - 1985年 |
次代 李奎浩 |
公職 | ||
先代 金信 |
大韓民国交通部長官 第22代:1974年9月18日 - 1977年11月17日 |
次代 閔丙権 |
先代 白石柱 |
大韓民国在郷軍人会会長 第24代:1987.9.17 - 1988.4.28 |
次代 蘇俊烈 |