孫元一 (軍人)
孫 元一 | |
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生誕 |
1909年6月22日 大韓帝国平安南道江西郡 |
死没 |
1980年2月15日(70歳没) 大韓民国ソウル特別市 |
軍歴 | 大韓民国海軍 |
最終階級 | 中将 |
除隊後 | 国防部長官 |
墓所 | 国立ソウル顕忠院将軍第2墓域5号 |
孫 元一 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 손원일 |
漢字: | 孫元一 |
発音: | ソン・ウォニル |
ローマ字: | Son Won-il、Sohn Won-yil |
孫 元一(ソン・ウォニル、손원일)は、大韓民国の軍人、外交官、政治家。韓国海軍の父と呼ばれる。初代海軍参謀総長を務めた。後に潜水艦・孫元一の艦名となった。別名は孫元逸(손원일)。
人物
[編集]1909年5月、平安南道で牧師の孫貞道の長男として生まれる。三・一運動後、両親と共に吉林省に移住した[1]。
1925年4月30日、吉林省幼少年会吉林幼者会に加入[2]。独立のための宣伝運動に注力し、朝鮮人青少年を対象にした集会活動を展開した[2]。
1927年、上海国立中央大学航海科(上海海洋大学)に入学[3]。1930年6月30日、上海国立中央大学航海科第3期卒業[3]。航海士の免許を取得して上海招商局に勤務した[3]。当時、中国政府は海軍部海軍補官を募集しており、孫元一は試験を受けて7月16日に合格した[4][5]。続けて7月21日に中国海軍部派遣留学生試験に合格してドイツの練習船に乗船[4]。1931年から1932年まで二等航海士としてラムセス号に勤務[4]。ハンブルクのアメリカ汽船会社に勤務した。1933年から上海海岸警備船及び商船に勤務。地中海・大西洋・インド洋・太平洋を回り、英語・ドイツ語・日本語・中国語の五か国語を習得した[6]。
1934年11月25日、平安南道日本警察と平壌部日本警察に逮捕される[7]。2か月の服役後、出監して中国に渡った[8]。金九を助けることにし、東和洋行の天津支店長及び上海支社長として活動しながら臨時政府に資金援助した[8]。
1945年8月16日、奉天から列車に乗り、ソウル駅に到着[9]。8月21日にはソウル街で海軍創設のための人員を募集する張り紙を貼っていたが、そこで同じような内容の張り紙を貼っていた鄭兢謨と出会った[6]。同じ日に合流した韓甲洙の3人で意気投合して海事隊を結成した[6]。海事隊を朝鮮海事報国団と統合して朝鮮海事協会に改称[6]。同年11月11日にソウル寬勳洞で海防兵団を創設した[6]。創立をこの日にした理由については、孫元一は「海軍は紳士であるべき」を信条にしており、「十一」を縦に書くと「士」になることに着目して、士が2つ続くことから、11月11日となった[6]。
1946年1月には海軍兵学校を設立して校長となる。同年6月、海防兵団が朝鮮沿岸警備隊に改編されると総司令官に就任した。
1948年に韓国海軍が発足すると初代参謀総長となった。麗水・順天事件鎮圧の教訓から海兵隊の必要性を感じ、1949年4月に韓国海兵隊を創設。1949年に募金活動で12万ドルを集め、アメリカから哨戒艇4隻を購入。同年10月、艦艇購入のためアメリカに渡ったが、朝鮮戦争の勃発により、1950年7月16日に帰国[10]。7月初め、申性模国防部長官の命令を受けて、浦項警備部司令官に慶州、浦項、盈徳一帯で予備検束した住民200人を処刑するよう命じた[11][12]。朝鮮戦争では多くの海上作戦の成功に寄与した。仁川上陸作戦では韓国海兵連隊の作戦を監督するため海兵と一緒に上陸[13][14]。のちにマッカーサーからシルバースターを授与された[14]。9月18日、第1海兵師団の布告により、仁川の臨時市長となった[14]。
李承晩は海軍を重要視しており、本来なら「陸海空」と呼ぶところを「海陸空」と呼び、最初に孫元一を大将に昇進させようとしたが、「船が一隻も無いのに大将となったら、全世界の海軍が笑うでしょう。将来、海軍が軍艦を持つことになれば大将階級を受けます」と断った[15][16]。
1953年6月、申翼煕国会議長や白斗鎮財務部長官と共にエリザベス女王戴冠式に出席するため出国[17]。プリマスで急遽帰国命令を受けて戻ると李承晩から国防部長官を引き受けるように言われた[17]。当時は李承晩の捕虜釈放で世界が騒然としていたため、それを鎮める目的で国防部長官となったが、結果的に3年も在籍し、戦争の後始末を引き受けた[17]。
国防部長官になって最初の課題は休戦協定であった[18]。李承晩は反対していたが、孫元一は、休戦反対は韓国の意志だけでは達成できない状況にあると説明し、代表ではなくオブザーバーのみ送ることを提案した[18]。
1954年5月、ジュネーヴ会談が開かれることになったが、李承晩は「共産党とは言葉が通じないのに、何のために時間と金を無駄にするのか」と反対であった[18]。これに対してアメリカは、北朝鮮でも代表を送るのに韓国が参加しないのであれば、韓国の国際的な立場が悪くなると圧力をかけた[18]。孫元一は李承晩を説得しようとしたが、中々動かなかった[18]。そこで、代表団を派遣する代わりに、アメリカに韓国軍の装備強化を要求するという選択肢を提案した[18]。
1955年初め、李承晩にアーリントン国立墓地のような無名勇士のための国軍墓地を建てることを提案した[19]。それまでは年に1度ソウル運動場のようなところで戦没将兵の慰霊祭を行っていた[19]。李承晩は良い案として受け入れたが、遺族代表達に金を与えると各道に墓地や記念碑を建てるとして遺族の説得が問題となった[19]。孫元一は遺族代表らに数年前に見たアーリントン墓地を説明し、「毎年行事で大統領以下政府代表が献花するのだから、道ごとに墓地を作れば行事はどうするのか」と説得した[19]。やがて李承晩は6月6日を顕忠日して祝日にすることを決めた[19]。
1955年、韓米首脳会談で合意した軍事援助の内容を協議するため渡米[19]。議会で援助法案を審議している最中であり、削減されるという噂があったため、ウィルソン国防長官に合意された援助金額を必ず実現させることを何度も要請し、ウィルソンも最善を尽くすと約束した[19]。アメリカが約束した7億ドルの援助に関して釘を刺す必要を感じた孫元一は帰国してすぐ飛行場で「軍事援助削減は無い」と記者達に宣言した[19]。しかし帰国後しばらくして6千万ドルが議会で削減されたとの通告が来た[19]。
アメリカに行った甲斐がなく、記者に対する公約も破ったので、国務会の席上で李承晩に辞表を出したが、これに李承晩は驚き「援助の削減は米議会がやることなのに、孫長官は何の責任を負うのか」と引き留めた[19]。「いくら弱小国とはいえ、約束を破られて与えるままに受け取るわけにはいかないでしょう。外国に対して私達の決心を示す意味でも辞表を受け取ってください」と理由を説明したところ、「それなら辞表は保管しますが、各長官もこの精神を見習うように」と答えた[19]。
その翌日、レムニッツァー司令官が辞表の話は本当かと尋ね、これに対して事実だと答え「合意してわずか1年も経たずに約束を破るとはどういうことだ」と抗議した[19]。孫元一の頑強な態度を見たレムニッツァーは「1週間だけ待ってほしい」と言い、5日後に本国政府が削減部分を復活させることにしたと伝えた[19]。
1965年7月14日、金弘壹、金在春、朴炳権、朴圓彬、白善鎮、宋堯讃、張徳昌、李澔、曹興万、崔慶禄ら予備役将軍と共に日韓基本条約の反対声明を発表[20]。デモによって学生と軍が衝突する中、翌8月27日には「国軍将兵に送る呼訴文」を発表[21]。国軍将兵が神聖な国土防衛の使命よりも執権者によって国民や国家の利益に反する目的で動員される悲しき事態に至ったとし、執権者たちを反民族行為者であり、民主主義に逆らう反国家行為者だと糾弾した[21]。また国軍将兵には、どんな状況でも愛国国民に銃を向けてはならないと訴えた[21]。8月29日、金弘壹、金在春、朴炳権、朴圓彬の4名が朴正熙大統領に対する名誉毀損容疑で逮捕され、孫元一も崔慶禄、白善鎭、曺興萬と共に同容疑で取り調べを受けた[22]。
2012年9月、大韓民国国家報勲処が「9月の6・25戦争英雄」に選定[23]。
2013年11月、戦争記念館が「11月の護国人物」に選定[24]。
2017年4月19日、妻の洪恩恵が死去[25]。21日に告別式が行われ、遺体は孫元一の墓の傍に埋葬された[26]。
親族
[編集]独立運動家で牧師の孫貞道は父[27]。尹致昊の弟の尹致昌は姉妹の夫[28]。息子の孫明源は双龍自動車の元社長で、元外務部長官の金東祚の次女と結婚した。元ヘラルドメディア会長の洪政旭は孫娘婿[27]。
経歴
[編集]- 1930年 中国国立中央大学航海学科(第3期)卒業
- 1935年 船長免許取得
- 1945年 帰国
- 1945年8月 海事隊創設
- 1945年11月 海防兵団長
- 1946年1月 海軍兵学校(現海軍士官学校)初代校長
- 1946年6月 南朝鮮海岸警備隊総司令官(海軍中領)
- 1947年1月 海軍大領
- 1948年9月5日 初代海軍参謀総長[29]
- 1948年12月 海軍准将
- 1951年 アメリカ海軍参謀総長の要請でアメリカの海軍省と海軍基地を視察
- 1952年1月12日 海軍中将[30]
- 1952年3月1日 第1艦隊司令官[31]
- 1953年6月 予備役編入、国防部長官就任、エリザベス女王戴冠式参列
- 1954年 ワシントン韓米軍事経済会談代表
- 1955年 韓米軍事援助会談代表
- 1957年6月 駐西ドイツ公使
- 1957年8月 駐西ドイツ大使
- 1963年7月 在野政党統合推進委員会委員新党(国民の党)発揮準備委員
- 1963年8月 国民の党企画委員会委員
- 1963年11月 第6代国会議員(国民の党)落選
- 1964年11月 民主党脱党
- 1966年8月 戦線視察とベトナム派遣軍の慰問のためベトナム訪問
- 1966年10月 アジア民族反共連盟第12次総会代表
- 1967年 民主共和党入党、反共連盟理事、韓国在郷軍人会顧問
- 1968年2月 郷土防衛諮問委員会委員
- 1970年12月 大韓潤滑油会社社長[32]
- 1971年1月 反共連盟理事
- 1971年8月 世界反共連盟総会出席、星友会顧問、国土統一顧問
- 1972年2月24日 韓国弘報協会会長[33]
- 1972年2月29日 反共連盟理事長[34]
- 1972年4月 世界勝共大会出席
- 1972年8月 第6回世界反共連盟総会代表
- 1974年2月 韓国弘報協会会長再任、反共連盟顧問
- 1976年、国際文化協会常任顧問
栄典
[編集]- 太極武功勲章 1951年10月31日[35]
- 金星太極武功勲章 1953年4月5日
- 乙支武功勲章
- 共匪討伐記章
- 朝鮮戦争従軍記章
- シルバースター 1950年11月25日[36][37]
- レジオン・オブ・メリット - 1951年8月16日[38]
- デンマーク赤十字勲章
- 国連従軍記章
出典
[編集]- ^ 노기욱,정현창 2015, p. 193.
- ^ a b 노기욱,정현창 2015, p. 195.
- ^ a b c 노기욱,정현창 2015, p. 204.
- ^ a b c 노기욱,정현창 2015, p. 205.
- ^ “連続刊行物 東亜日報「十九歲의 朝鮮靑年 中國서 海軍補官, 上海國立大學 航海科 出身 孫元逸氏[肖]」” (韓国語). 国史編纂委員会. 2019年9月8日閲覧。
- ^ a b c d e f “[6·25전쟁 60주년 특별기획] 白善燁이 만난 6·25전쟁의 영웅들 <下·끝>” (朝鮮語). 月刊朝鮮. (2010年6月) 2018年1月20日閲覧。
- ^ 노기욱,정현창 2015, p. 206.
- ^ a b 노기욱,정현창 2015, p. 207.
- ^ “땅은 증명한다 〈5〉 손원일과 한국 해군 창설의 무대를 찾아” (朝鮮語). 月刊朝鮮. (2016年11月) 2018年1月27日閲覧。
- ^ “連続刊行物 南朝鮮民報「海軍將軍熱狂的歡迎裡 孫元一總參昨日歸國」” (韓国語). 国史編纂委員会. 2019年11月17日閲覧。
- ^ “6·25때 포항서 해군도 주민 학살…당시 지역사령관 증언” (朝鮮語). dongA.com. (2000年1月11日) 2020年3月16日閲覧。
- ^ 강성현 2014, p. 36.
- ^ “(167)「6·25」20주년…3천 여의 증인회견·내외 자료로 엮은 「다큐멘터리」 한국전쟁 3년” (朝鮮語). 中央日報. (1971年4月26日) 2020年2月19日閲覧。
- ^ a b c Simmons 2000, p. 53.
- ^ “김국헌의 대한민국 장군 評傳〈下〉 軍의 ‘정치 중립’ 정립한 이종찬, ‘해군의 아버지’ 손원일, ‘공군의 건설자’ 장지량” (朝鮮語). 月刊朝鮮. (2015年12月). オリジナルの2018年7月19日時点におけるアーカイブ。 2018年1月19日閲覧。
- ^ “[최보식이 만난 사람] 대한민국 해군 창설자 故 손원일 제독의 부인… '해군의 어머니' 홍은혜 여사[정정내용 있음]” (朝鮮語). 朝鮮日報. (2013年10月14日). オリジナルの2018年7月12日時点におけるアーカイブ。 2018年2月4日閲覧。
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- ^ a b c d e f “(512) 내가 아는 이 박사 경무대 4계 어록(139)손원일” (朝鮮語). 中央日報. (1972年7月17日) 2019年3月31日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m “(513)<제자 윤석오> <제26화>내가 아는 이 박사 경무대 4계 어록(140) 손원일” (朝鮮語). 中央日報. (1972年7月18日) 2023年4月18日閲覧。
- ^ “반공 목사들이 박정희에게 정면으로 반기 든 사연” (朝鮮語). 프레시안. (2014年10月25日) 2018年1月19日閲覧。
- ^ a b c “각하들도 피하지 못한 내란의 추억” (朝鮮語). 한겨레. (2014年2月14日) 2018年1月19日閲覧。
- ^ 民族問題研究所 編『コリア評論』第7巻、第61号、コリア評論社、58頁、1965年10月。
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- ^ a b “[CEO스코어TV] 김동조 전 외무부 장관의 가계도로 본 재계 혼맥” (朝鮮語). CEOSCOREDAILY (2019年6月28日). 2023年10月6日閲覧。
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- ^ 박동찬 2014, p. 176.
- ^ “連続刊行物 馬山日報「李、孫、白三少將 中將으로 各各昇進」” (韓国語). 国史編纂委員会. 2019年11月17日閲覧。
- ^ 박동찬 2014, p. 179.
- ^ “윤활유 회사설립 사장에 손원일씨” (朝鮮語). 中央日報. (1970年12月29日) 2018年7月12日閲覧。
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- ^ “반공 연 이사장에 손원일씨 선출” (朝鮮語). 中央日報. (1972年2月29日) 2018年7月12日閲覧。
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- ^ “榮譽(영예)에 빛나는 我海軍(아해군)” (朝鮮語). 부산일보. (1950年12月25日) 2019年11月17日閲覧。
- ^ “Presenting the Legion of Merit [개성 휴전회담의 UN군 대표단장 미 해군 C. Turner Joy 중장이 국군 해군 손원일 소장에게 훈공장을 수여하는 모습]” (韓国語). 국사편찬위원회 전자사료관. 2020年2月19日閲覧。
参考
[編集]- 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 下巻 漢江線から休戦まで』原書房、1977年。
- 世界政経調査会 編『韓国・北朝鮮人名辞典 1979年版 上巻』世界政経調査会、1980年。
- Edwin H. Simmons (2000). Over the Seawall: U.S. Marines at Inchon. Marine Corps Historical Center
- “孫元一提督 海軍創設、発展に寄与” (韓国語). 国防日報. 2014年9月16日閲覧。
- “<93>韓国海軍の父 孫元一提督” (韓国語). 国防日報. 2014年9月16日閲覧。
- “The Father of the ROK Navy : The Late Admiral Sohn Won-Yil” (英語). 韓国海軍公式サイト. 2014年9月16日閲覧。
- “韓国近現代人物資料(孫元一)” (韓国語). 国史編纂委員会. 2015年12月31日閲覧。
- 박동찬 (2014) (PDF). 통계로 본 6·25전쟁. 국방부 군사편찬연구소. ISBN 979-11-5598-010-1
- 강성현 (2014). “한국전쟁기 예비검속의 법적 구조와 운용 및 결과”. 사회와역사 (한국사회사학회) 103: 7-53 .
- 노기욱,정현창 (2015). “중국에서 손원일의 독립운동”. 지방사와 지방문화 (역사문화학회) 18: 191-212 .
公職 | ||
---|---|---|
先代 申泰英 |
大韓民国国防部長官 第5代:1953.6.30 - 1956.5.26 |
次代 金用雨 |
外交職 | ||
先代 - |
在西ドイツ大韓民国大使 初代:1958 - 1960 |
次代 全奎弘 |
軍職 | ||
先代 - |
大韓民国海軍兵学校校長 初代:1946.1.17 - 1946.3.15 |
次代 金一秉 |
先代 - |
大韓民国海軍参謀総長 初代:1948.9.5 - 1953.6.30 |
次代 朴沃圭 |
先代 - |
大韓民国海軍第1艦隊司令官 初代:1952.3.1 - 1953.5.24 |
次代 朴沃圭 |