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8月17日、拘束適否審査で釈放されたが、依然として朴正熙の引退を主張していたため、殺人教唆の代わりに虚偽事実流布が、さらに第15連隊長時代に交際していたと主張する女性の実子確認民事訴訟が加えられ、9月4日、再び麻浦刑務所に拘束された<ref name=news0330/>。[[1963年大韓民国大統領選挙|1963年大統領選挙]]に獄中出馬するが、野党候補一本化のため辞退した<ref name=news0330/>。 |
8月17日、拘束適否審査で釈放されたが、依然として朴正熙の引退を主張していたため、殺人教唆の代わりに虚偽事実流布が、さらに第15連隊長時代に交際していたと主張する女性の実子確認民事訴訟が加えられ、9月4日、再び麻浦刑務所に拘束された<ref name=news0330/>。[[1963年大韓民国大統領選挙|1963年大統領選挙]]に獄中出馬するが、野党候補一本化のため辞退した<ref name=news0330/>。 |
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1965年7月14日、[[金弘壹]]、{{仮リンク|金在春|ko|김재춘 (1927년)}}、[[朴炳権]]、朴圓彬、[[白善鎮]]、[[孫元一 (軍人)|孫元一]]、[[張徳昌]]、[[李澔]]、{{仮リンク|曺興萬|ko|김재춘 (1927년)}}、[[崔慶禄]]ら予備役将軍と共に[[日韓基本条約]]の反対声明を発表<ref>{{cite news| url =http://www.pressian.com/news/article.html?no=121248| title =반공 목사들이 박정희에게 정면으로 반기 든 사연 | newspaper = 프레시안| date = 2014-10-25| accessdate = 2018-01-19| language = ko}}</ref>。デモによって学生と軍が衝突する中、翌8月27日には「国軍将兵に送る呼訴文」を発表<ref name=news0214>{{cite news| url =http://www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/624234.html| title =각하들도 피하지 못한 내란의 추억 | newspaper = 한겨레| date = 2014-02-14| accessdate = 2018-01-19| language = ko}}</ref>。国軍将兵が神聖な国土防衛の使命よりも執権者によって国民や国家の利益に反する目的で動員される悲しき事態に至ったとし、執権者たちを反民族行為者であり、民主主義に逆らう反国家行為者だと糾弾した<ref name=news0214/>。また国軍将兵には、どんな状況でも愛国国民に銃を向けてはならないと訴えた<ref name=news0214/>。 |
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1970年、仁川製鉄会社社長。 |
1970年、仁川製鉄会社社長。 |
2020年8月24日 (月) 12:00時点における版
宋堯讃 | |
---|---|
参謀総長在任時 | |
渾名 |
Tiger Song 石頭将軍 |
生誕 |
1918年2月13日 日本統治下朝鮮忠清南道青陽郡 |
死没 |
1980年10月18日(62歳没) アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 大韓民国陸軍 |
最終階級 |
曹長(日本陸軍) 中将(韓国陸軍) |
宋堯讃 | |
---|---|
各種表記 | |
ハングル: | 송요찬 |
漢字: | 宋堯讚 |
発音: | ソン・ヨチャン |
日本語読み: | そう・ぎょうさん |
ローマ字: | Song Yo-chan |
宋 堯讃(ソン・ヨチャン、송요찬、1918年2月13日 - 1980年10月18日)は大韓民国の軍人、政治家。
済州島四・三事件では強硬鎮圧作戦で住民の犠牲に大きな役割を果たした人物の1人である[1]。朝鮮戦争では首都師団を指揮し、韓国軍の猛将として知られた[2]。休戦後は参謀総長を務めた。4月革命の時、戒厳司令官であったが学生に対して好意的中立を保ったため李承晩政権崩壊の決め手となった[3]。
人物
1918年2月13日、忠清南道青陽で生まれる。化城公立普通学校卒業[4]。強制労働に引かれるより兵士になった方がいいとして陸軍特別志願兵を志望した[5]。しかし身体の障害(内反膝)により脱落[4]。それでも挫折せず、血のにじむような努力で障害を直し、1939年の陸軍特別志願兵第2期選抜に合格した[4]。陸軍兵志願者訓練所を修了して第20師団所属で陸軍兵志願者訓練所助教として活動した[4]。最終階級は曹長。
1946年4月25日付で軍事英語学校を卒業、任少尉(軍番10096番)[6]。第5連隊の創設に参加し、同連隊A中隊(中隊長:白善燁中尉)小隊長[7]。中隊長を歴任。同年9月、朴炳権中尉らと共に江陵の第8連隊に派遣され、同連隊の編成を援助した[8]。
1947年3月、第8連隊第3大隊長。精強な大隊の建設をモットーに、3か月の訓練期を定め、連日連夜にわたって猛訓練を続けた[9]。将校の中には過労で倒れる者もいた[9]。さらに訓練期間中は外出を禁止し、家族との面会も許さなかった[9]。将兵に不満が蓄積し、大隊長を集団暴行する事態に発展した[10]。
1948年6月、第11連隊副連隊長。1948年7月、第9連隊長(少佐)となり済州島のゲリラ討伐に従事。1948年10月17日、次のような布告文を出した[11]。
本道の治安を破壊し良民の安住を脅かし国権の侵犯を企図する一部不純分子に対し、軍は政府の最高制令を奉持し、これらの売国的行動に断固鉄槌を下し、本道の平和を維持し民族の栄華と安全の大業を遂行する任務を持ち、軍は激烈者を徹底粛清しようとするので、道民の積極的で犠牲的な協調を要望するものである。軍は漢拏山一帯に潜伏し千人共怒すべき蛮行を強行す売国激烈分子を掃討するために、10月20日以後、軍行動終了期間以前も海岸線から5km以外の地点、および山間地帯の無許可通行禁止を布告する。万一、この布告に違反する者に対しては、その理由いかんに関わらず暴徒輩と認定し銃殺に処するであろう。ただし、特殊な用務で山岳地帯通行を必要とする者は、その請願により軍発行特別通行証を交付しその安全を保障する。 — 布告文[12]
この布告文にある5km以外の地点は山岳地帯のみに限定されたものではなく、海辺を除外した中山間の村全てが該当し、中山間の居住を禁止すると同じ事であった[13]。
1948年11月中旬から強硬鎮圧作戦が展開された[14]。11月以前は主に若い男性が犠牲になったのに対して、強行作戦中は老若男女問わず射殺した[14][15]。そのため犠牲者の大部分は宋の在任中に出来たものだった[15]。4・3委員会に申告された犠牲者統計によれば、犠牲となった15歳以下の子供で、宋の在任中に発生した犠牲者は全体の76.5パーセント、61歳以上は全体の76.6パーセントであった[15]。さらにゲリラの根拠地を無くすために中山間部の村は焼かれて焦土化した[15][16]。
1949年2月、第9連隊はソウルに移動し首都旅団(旅団長:李俊植大佐)に編入。
1949年5月、東海岸の第10連隊長。この時、38度線で紛争が多発し第9連隊の正面でも襄陽の遊撃隊訓練所を卒業したゲリラが越境して警察を襲うことが多くなり、耐えかねた宋連隊長は処罰を覚悟の上で訓練所の粉砕を決意し、上官に具申せず極秘裏に第1大隊に攻撃を命令した。この北侵事件で宋は解任された。同年9月、第15連隊長。
1950年4月、憲兵司令官。朝鮮戦争勃発時、ソウル陥落直前に韓国銀行から金塊をトラックに積んで釜山まで運搬し国家財産を生かすのに貢献した[17]。ソウル陥落後、憲兵を陣頭指揮して落伍兵を収容。
6月27日頃、憲兵司令部は南労党系や保導連盟関係者を予備検束して処刑するよう無線指示を下した[18]。これを受けて陸軍刑務所所属憲兵は西大門刑務所の思想犯、政治犯を処理し、以後も水原、平沢、公州、大田に後退しながら任務を遂行した[18]。光州憲兵隊長に刑務所の受刑者や保導連盟関係者を処刑するように命じた[12]。この指示によって湖南地域の刑務所に収監されていた四・三事件関係者の射殺も行われたと推測されている[12]。
光州・全州・木浦刑務所に再収監中の囚人及び保導連盟関係者その他の被検者は、全国の関係機関長、警察局長、刑務所長、検事長との話し合いで即決処分にし、窃盗その他の[不明]は仮出所などの適切な方法を取り、各警察に留置中の被検者も前記に基づき処置せよ — 命令書[12]
1950年7月12日、予防拘禁特別措置令を布告[18]。戒厳法第13条の軍事上必要時に逮捕・拘禁に関する特別措置を取ることができるが、事前に発表しなければならない規定であり、開戦直後から行われている憲兵隊の不法民間人予備検束の法的根拠を一歩遅れて用意したものだった[18]。
1950年8月、大邱防衛司令官。
1950年9月1日、首都師団長。慶州で北朝鮮軍の攻勢を阻止した(慶州の戦い)。9月21日、准将[19]。その後の北進作戦に参加し、11月にはソ連、満州国境付近にまで進出するが、中国人民志願軍の介入で撤退することになった[20]。12月、興南から墨湖港に上陸し、翌年1月に江陵を占領[20]。その後は主に東海岸の戦闘を指揮した[20]。
1951年5月、中国軍の5月攻勢では軍団長の命令により、大関嶺を確保し、中国軍の江陵進出を遮断した[20]。1951年11月、首都師団は白野戦戦闘司令部に編入され、智異山の南部軍討伐作戦に参加[20]。1952年、討伐が完了すると、再編された第2軍団に配属されて春川北方に移動し、首都高地の戦闘を指揮[20]。
ゲリラ討伐の経歴を高く評価され、1952年7月、少将昇進と同時に西南地区戦闘司令部(同年8月、南部地区警備司令部に改称)司令官に就任[20]。同年10月、再び首都師団長となり、指形稜線の戦闘を勝利に導いた[20]。
アメリカ陸軍指揮幕僚大学留学待機中の1953年7月に第8師団長に任命。金城の戦いで指形稜線と690高地を奪還した。休戦後、アメリカ陸軍指揮幕僚大学に留学。帰国して、1954年8月、第3軍団長に任命。同年9月、中将に昇進。
1957年5月、第1軍司令官。
1959年2月、陸軍参謀総長。大々的な改革を断行し、軍の企画管理制度を確立した[17]。また将校の粛清を開始し、これについてフィリップ・チャールズ・ハビブは「軍将校の粛清は宋堯讃参謀総長によって始められ現在(1962年)に至るまでかなりの速度で進み、将校の除去は韓国軍内の派閥の縮小をもたらした。派閥から独立し敵対的だった宋堯讃がこのような過程の主要な行為者であった。排除された将校の中にはいくつかの優れた将校が含まれているが、訓練と経験でいくつかの避けられない犠牲を払って、競争力と訓練の水準は以前よりも改善されたと見られる」と評している[21]。
1960年4月、四月革命が起こり戒厳司令官に任命。デモ隊に発砲命令を出そうとしたが、崔慶禄に引き留められたため中止した[22]。高麗大学校に集まったデモ隊を退去させるとき、「学生は暴徒ではない。放火犯を除いて全て釈放せよ」と命じた[17]。1960年5月23日[23]、予備役編入後、ジョージ・ワシントン大学に留学。
1961年6月、国家再建最高会議企画委員長兼国防部長官。同年7月、外務部長官。四大疑疑惑事件が起きて軍事政権の若手実力者と衝突すると朴正熙の引き留めにも関わらず辞任した[17]。
軍事政権が民政移譲を約束した1963年になり、朴正熙の退陣運動が激しくなると、宋堯讃も1月7日午後、新堂洞の自宅で朴正熙の下野要求声明を出した[24]。
尹潽善など政治家や市民の抗議で軍政延長を放棄した朴正熙が民政参加を宣言すると、1963年8月8日の東亜日報に「朴議長に送る公開状‐民政移譲を控えた前内閣首班の提言(朴議長에게 보내는 公開状‐民政移譲을 앞둔 前内閣의 提言 )」という記事名で宋堯讃の声明が発表されると、8月11日、中央情報部は「殺人と殺人教唆」の疑いで宋堯讃を拘束し、麻浦刑務所に収監された[24]。殺人は朝鮮戦争中に二度戦線を離脱した大隊長を命令不服従で銃殺したこと、殺人教唆は四月革命でデモ隊に発砲指示した疑いであったが、それぞれ不起訴処分と郭永周の処刑ですでに終わった事件であった[24]。金炯旭中央情報部長は、宋堯讃の声明や政治的行為となんら関係ないとしたが、民主党のスポークスマンだった金大中は、朴議長に批判的な公開状が発表されてから3日後に拘束することは政治的報復だと批判した[24]。
8月17日、拘束適否審査で釈放されたが、依然として朴正熙の引退を主張していたため、殺人教唆の代わりに虚偽事実流布が、さらに第15連隊長時代に交際していたと主張する女性の実子確認民事訴訟が加えられ、9月4日、再び麻浦刑務所に拘束された[24]。1963年大統領選挙に獄中出馬するが、野党候補一本化のため辞退した[24]。
1965年7月14日、金弘壹、金在春、朴炳権、朴圓彬、白善鎮、孫元一、張徳昌、李澔、曺興萬、崔慶禄ら予備役将軍と共に日韓基本条約の反対声明を発表[25]。デモによって学生と軍が衝突する中、翌8月27日には「国軍将兵に送る呼訴文」を発表[26]。国軍将兵が神聖な国土防衛の使命よりも執権者によって国民や国家の利益に反する目的で動員される悲しき事態に至ったとし、執権者たちを反民族行為者であり、民主主義に逆らう反国家行為者だと糾弾した[26]。また国軍将兵には、どんな状況でも愛国国民に銃を向けてはならないと訴えた[26]。
1970年、仁川製鉄会社社長。
1980年8月下旬、長く患っていた腎臓病の治療のために渡米[27]。同年10月18日、シカゴのロヨラ大学病院で死去[27]。
勲章
- 太極武功勲章
- レジオン・オブ・メリット - 1951年10月26日[28]
- レジオン・オブ・メリット - 1951年12月14日[29]
- エア・メダル - 1952年12月27日[30]
- レジオン・オブ・メリット - 1961年1月12日[31]
出典
- ^ 済州4・3平和財団 2014, p. 393.
- ^ 白善燁『若き将軍の朝鮮戦争』草思社〈草思社文庫〉、2013年、136頁。
- ^ 陸戦史研究普及会『陸戦史集 第1巻 国境会戦と遅滞行動(朝鮮戦争史1)』、252頁。
- ^ a b c d 정안기 2018, p. 182.
- ^ “<86>건군 주역들의 군사배경” (朝鮮語). 국방일보. (2008年10月6日) 2019年5月29日閲覧。
- ^ 佐々木 1976, p. 86.
- ^ 佐々木 1976, p. 149.
- ^ 佐々木 1976, p. 175.
- ^ a b c 佐々木 1976, p. 177.
- ^ 佐々木 1976, p. 178.
- ^ 済州4・3平和財団 2014, p. 271.
- ^ a b c d 済州4・3平和財団 2014, p. 491.
- ^ 済州4・3平和財団 2014, p. 272.
- ^ a b 済州4・3平和財団 2014, p. 301.
- ^ a b c d “죽을래야 죽을 수 없고 살래야 살 수 없다” (朝鮮語). 제주의소리. (2014年3月27日) 2017年12月31日閲覧。
- ^ 済州4・3平和財団 2014, p. 302.
- ^ a b c d “[남기고 올림픽 30年·태권도 40年] 103. 내가 만난 사람 - 송요찬”. 中央日報. (2009年1月19日) 2018年7月16日閲覧。
- ^ a b c d 강성현 2014, p. 35.
- ^ “韓國戰爭史第4巻 總反擊作戰期(1950.9.15~11.30)” (PDF). 韓国国防部軍史編纂研究所. p. 71. 2018年10月25日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “[6·25전쟁 60주년 특별기획] 白善燁이 만난 6·25전쟁의 영웅들 <下·끝>” (朝鮮語). 月刊朝鮮. (2010年6月) 2018年1月28日閲覧。
- ^ “1962년 미 대사관 기밀문건” (朝鮮語). 新東亜. (2010年3月3日) 2020年7月22日閲覧。
- ^ “죽을래야 죽을 수 없고 살래야 살 수 없다” (朝鮮語). 제주의소리. (2014年3月27日) 2018年7月16日閲覧。
- ^ 정안기 2018, p. 175.
- ^ a b c d e f “[70주년 창간기획-문학평론가 임헌영의 필화 70년](26) 송요찬 ‘박 의장에게 보내는 공개장’ -장군 필화 제1호”. 경향신문. (2017年3月30日) 2018年7月19日閲覧。
- ^ “반공 목사들이 박정희에게 정면으로 반기 든 사연” (朝鮮語). 프레시안. (2014年10月25日) 2018年1月19日閲覧。
- ^ a b c “각하들도 피하지 못한 내란의 추억” (朝鮮語). 한겨레. (2014年2月14日) 2018年1月19日閲覧。
- ^ a b “송요찬씨 별세”. 中央日報. (1980年10月20日) 2018年7月19日閲覧。
- ^ “Brig. Gen. C. E. Ryan awards Legion of Merit to Brig. Gen. Song You Chan (1)” (韓国語). 국사편찬위원회 전자사료관. 2020年2月19日閲覧。
- ^ “Song Yo Chan”. Military Times. 2019年6月13日閲覧。
- ^ “Major General Song You Chan is congratulated upon receiving the Air Medal by Gen. James A. Van Fleet” (韓国語). 국사편찬위원회 전자사료관. 2020年2月19日閲覧。
- ^ “Song Yo Chan”. Military Times. 2019年6月13日閲覧。
参考文献
- 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 上巻 建軍と戦争の勃発前まで』原書房、1976年。
- 済州四・三事件真相糾明及び犠牲者名誉回復委員会 著、済州大学校在日済州人センター 訳『済州4・3事件真相調査報告書』済州4・3平和財団、2014年。
- 강성현 (2014). “한국전쟁기 예비검속의 법적 구조와 운용 및 결과”. 사회와역사 (한국사회사학회) 103: 7-53 .
- 정안기 (2018). “한국전쟁기 육군특별지원병의 군사적 역량”. 군사연구 (육군군사연구소) 146: 171-206 .
公職 | ||
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先代 申應均 (代理) |
大韓民国国防部長官 第13代:1961.6.12 - 1961.7.10 |
次代 朴炳権 |
先代 金弘壹 |
大韓民国外務部長官 第8代:1961.7.22 - 1961.10.10 |
次代 崔徳新 |
軍職 | ||
先代 崔栄喜 |
大韓民国陸軍憲兵司令官 第6代:1950.4.18 - 1950.9.1 |
次代 張昌国 |
先代 白善燁 |
大韓民国陸軍第1軍司令官 第2代:1957 - 1959 |
次代 劉載興 |
先代 白善燁 |
大韓民国陸軍参謀総長 第11代:1959.2.23 - 1960.5.22 |
次代 崔榮喜 |