「劉休範」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
m Bot作業依頼: 劉姓の記事の改名に伴うリンク修正 (劉子勛) - log |
||
4行目: | 4行目: | ||
第3代皇帝[[文帝 (南朝宋)|文帝]](劉義隆)の十三男。第6代皇帝[[明帝 (南朝宋)|明帝]]の弟。 |
第3代皇帝[[文帝 (南朝宋)|文帝]](劉義隆)の十三男。第6代皇帝[[明帝 (南朝宋)|明帝]]の弟。 |
||
最初に順陽王に封じられ、後に桂陽王に改封された。[[459年]]、[[江州 (江西省)|江州]][[刺史]]となった。明帝が[[ |
最初に順陽王に封じられ、後に桂陽王に改封された。[[459年]]、[[江州 (江西省)|江州]][[刺史]]となった。明帝が[[劉子勛]]の乱を平定すると、南徐州刺史とされたが再び江州刺史とされた。 |
||
明帝により兄弟が殺されていたが、凡庸だった休範だけは粛清を免れた。[[472年]]に明帝が崩御すると、遺詔により[[司空]]となる。明帝の息子とされる蒼梧王[[後廃帝 (南朝宋)|劉昱]]が即位したが、この劉昱も叔父ら諸王十数人を殺したために叛逆を企て、[[473年]]に[[尋陽]]で挙兵して首都[[建康 (都城)|建康]]に迫ったが{{Sfn|駒田|常石|1997|p=176}}、474年に右衛将軍の[[蕭道成]]に敗れて殺された{{Sfn|駒田|常石|1997|p=177}}{{Sfn|川本|2005|p=150}}。享年27。 |
明帝により兄弟が殺されていたが、凡庸だった休範だけは粛清を免れた。[[472年]]に明帝が崩御すると、遺詔により[[司空]]となる。明帝の息子とされる蒼梧王[[後廃帝 (南朝宋)|劉昱]]が即位したが、この劉昱も叔父ら諸王十数人を殺したために叛逆を企て、[[473年]]に[[尋陽]]で挙兵して首都[[建康 (都城)|建康]]に迫ったが{{Sfn|駒田|常石|1997|p=176}}、474年に右衛将軍の[[蕭道成]]に敗れて殺された{{Sfn|駒田|常石|1997|p=177}}{{Sfn|川本|2005|p=150}}。享年27。 |
2020年8月24日 (月) 09:45時点における版
劉 休範(りゅう きゅうはん、448年 - 474年)は、中国南朝宋の皇族。
生涯
最初に順陽王に封じられ、後に桂陽王に改封された。459年、江州刺史となった。明帝が劉子勛の乱を平定すると、南徐州刺史とされたが再び江州刺史とされた。
明帝により兄弟が殺されていたが、凡庸だった休範だけは粛清を免れた。472年に明帝が崩御すると、遺詔により司空となる。明帝の息子とされる蒼梧王劉昱が即位したが、この劉昱も叔父ら諸王十数人を殺したために叛逆を企て、473年に尋陽で挙兵して首都建康に迫ったが[1]、474年に右衛将軍の蕭道成に敗れて殺された[2][3]。享年27。
この反乱平定により、蕭道成は国務に参画するようになり、後に斉建国の礎のひとつとなった[2]。
脚注
- ^ 駒田 & 常石 1997, p. 176.
- ^ a b 駒田 & 常石 1997, p. 177.
- ^ 川本 2005, p. 150.