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「諸葛均」の版間の差分

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'''諸葛 均'''(しょかつ きん、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]にかけての人物。[[蜀漢]]に仕えた。[[泰山郡]]丞[[諸葛珪]]の子。[[呉 (三国)|呉]]の[[諸葛瑾]]・蜀の[[諸葛亮]]の弟<ref><span style="font-size:100%;">[[清]]の学者であった[[張澍]]が記した『諸葛忠武侯文集』の内、「諸葛氏譜」・『編集諸葛忠武侯文集自序』によれば、諸葛均は'''諸葛望'''という子がいたとあり、また、妻は南陽の人で、林氏または習氏であったと記されている。父の名も「'''諸葛硅'''」または「'''諸葛{{lang|zh|矽}}'''」で、没年が[[187年]]と記されている([[帝京大学]]教授の[[尾崎康 (歴史学者)|尾崎康]]が引用する『九路本儒学刊十七史』([[元 (王朝)|元]]の[[大徳 (元)|大徳]]10年刊行の池州路儒学刊本による)では、字は「'''子貢'''」と表記されている)。さらに、兄の諸葛瑾の名が「'''諸葛謹'''」、字は「'''子愈'''」(『[[呉書]]』諸葛瑾伝では「子瑜」)と表記されている。</span></ref>。
'''諸葛 均'''(しょかつ きん、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]にかけての人物。[[蜀漢]]に仕えた。[[泰山郡]]丞[[諸葛珪]]の子。[[呉 (三国)|呉]]の[[諸葛瑾]]・蜀の[[諸葛亮]]の弟<ref><span style="font-size:100%;">[[清]]の学者であった[[張澍]]が記した『諸葛忠武侯文集』の内、「諸葛氏譜」・『編集諸葛忠武侯文集自序』によれば、諸葛均は'''諸葛望'''という子がいたとあり、また、妻は南陽の人で、林氏または習氏であったと記されている。父の名も「'''諸葛硅'''」または「'''諸葛{{lang|zh|矽}}'''」で、没年が[[187年]]と記されている([[帝京大学]]教授の[[尾崎康 (歴史学者)|尾崎康]]が引用する『九路本儒学刊十七史』([[元 (王朝)|元]]の[[大徳 (元)|大徳]]10年刊行の池州路儒学刊本による)では、字は「'''子貢'''」と表記されている)。さらに、兄の諸葛瑾の名が「'''諸葛謹'''」、字は「'''子愈'''」(『[[呉書]]』諸葛瑾伝では「子瑜」)と表記されている。</span></ref>。


幼い時に父と生母の章氏が亡くなり、兄の諸葛亮と共に叔父の[[諸葛玄]]を頼った。やがて、その叔父も[[劉ヨウ (揚州牧)|劉繇]]と争い、[[サク融|笮融]]が煽動した西城の住民反乱で戦死すると、諸葛亮と共に[[荊州]]の[[劉表]]を頼った<ref>『[[献帝春秋]]』および『呉書』劉繇伝による。だが、本伝の『蜀書』諸葛亮伝と内容が大きく異なっている。</ref>。
幼い時に父と生母の章氏が亡くなり、兄の諸葛亮と共に叔父の[[諸葛玄]]を頼った。やがて、その叔父も[[劉繇]]と争い、[[サク融|笮融]]が煽動した西城の住民反乱で戦死すると、諸葛亮と共に[[荊州]]の[[劉表]]を頼った<ref>『[[献帝春秋]]』および『呉書』劉繇伝による。だが、本伝の『蜀書』諸葛亮伝と内容が大きく異なっている。</ref>。


以降は兄と[[南陽郡]]の[[隆中]]で暮らしたが、後に諸葛亮が[[劉備]]に仕えると、彼も劉備の家臣となった。長水校尉にまで昇進した。
以降は兄と[[南陽郡]]の[[隆中]]で暮らしたが、後に諸葛亮が[[劉備]]に仕えると、彼も劉備の家臣となった。長水校尉にまで昇進した。

2020年8月24日 (月) 09:38時点における版

諸葛均
蜀漢 
長水校尉
出生 生年不詳
徐州琅邪郡陽都県
拼音 Zhūgĕ Jūn
主君 劉備
テンプレートを表示

諸葛 均(しょかつ きん、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物。蜀漢に仕えた。泰山郡諸葛珪の子。諸葛瑾・蜀の諸葛亮の弟[1]

幼い時に父と生母の章氏が亡くなり、兄の諸葛亮と共に叔父の諸葛玄を頼った。やがて、その叔父も劉繇と争い、笮融が煽動した西城の住民反乱で戦死すると、諸葛亮と共に荊州劉表を頼った[2]

以降は兄と南陽郡隆中で暮らしたが、後に諸葛亮が劉備に仕えると、彼も劉備の家臣となった。長水校尉にまで昇進した。

三国志演義

通俗小説『三国志演義』では、劉備らが諸葛亮の下へ赴いた時に登場し、初対面の劉備に諸葛亮本人と勘違いされている。諸葛亮が劉備の下へ赴いた後は、隆中の家の留守を命じられており、後に荊州へ侵攻した曹操が諸葛亮の家族の捜索を始めた時には、兄から事前の指示があったため辛くも逃れたことになっている。兄と同じく劉備へ仕えることにしたかどうかは、物語中では言及されていない。

家系図

諸葛豊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛珪諸葛玄龐徳公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛瑾諸葛亮諸葛均
 
龐山民龐統龐林諸葛誕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛恪諸葛喬諸葛融諸葛瞻諸葛懐諸葛望龐宏諸葛靚
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛攀諸葛尚諸葛京諸葛質諸葛恢
 
 
諸葛顕

脚注

  1. ^ の学者であった張澍が記した『諸葛忠武侯文集』の内、「諸葛氏譜」・『編集諸葛忠武侯文集自序』によれば、諸葛均は諸葛望という子がいたとあり、また、妻は南陽の人で、林氏または習氏であったと記されている。父の名も「諸葛硅」または「諸葛」で、没年が187年と記されている(帝京大学教授の尾崎康が引用する『九路本儒学刊十七史』(大徳10年刊行の池州路儒学刊本による)では、字は「子貢」と表記されている)。さらに、兄の諸葛瑾の名が「諸葛謹」、字は「子愈」(『呉書』諸葛瑾伝では「子瑜」)と表記されている。
  2. ^ 献帝春秋』および『呉書』劉繇伝による。だが、本伝の『蜀書』諸葛亮伝と内容が大きく異なっている。