「淮陽郡 (河南省)」の版間の差分
m Bot作業依頼: 劉姓の記事の改名に伴うリンク修正 (劉昞) - log タグ: 手動差し戻し |
|||
8行目: | 8行目: | ||
[[紀元前196年]](高帝11年)、皇子[[劉友]]が淮陽王となると、淮陽国が置かれた<ref>『史記』高祖本紀</ref>。[[紀元前194年]]([[恵帝 (漢)|恵帝]]元年)、淮陽王劉友が趙王に改封されると、淮陽国は廃されて淮陽郡とされた。[[紀元前188年]](恵帝7年)、皇子劉強が淮陽王となると、また淮陽国が置かれた。[[紀元前183年]]([[呂雉|高后]]5年)、劉強が死去すると、その弟の劉武が淮陽王となった。[[紀元前180年]](高后8年)、[[周勃]]らが呂氏を打倒する政変を起こすと、劉武は恵帝の子でないとされて殺害され、淮陽国は廃されてまた淮陽郡とされた<ref>『史記』呂后本紀</ref>。[[紀元前176年]]([[文帝 (漢)|文帝]]4年)、文帝の子の代王[[劉武]]が淮陽王となると、また淮陽国が立てられた。[[紀元前168年]](文帝12年)、淮陽王劉武が梁王に改封されると、淮陽国は廃されて淮陽郡とされた<ref>『史記』漢興以来諸侯王年表</ref>。[[紀元前155年]]([[景帝 (漢)|景帝]]2年)、景帝の子の[[劉余]]が淮陽王となると、また淮陽国が置かれた。[[紀元前154年]](景帝3年)、劉余が魯王に改封されると、淮陽国は廃されて淮陽郡とされた<ref>『史記』孝景本紀</ref>。[[紀元前63年]]([[元康 (漢)|元康]]3年)、[[宣帝 (漢)|宣帝]]の子の[[劉欽]]が淮陽王となると、また淮陽国が置かれた<ref>『[[漢書]]』宣帝紀</ref>。[[成帝 (漢)|成帝]]の[[元延]]末年に淮陽国は陳・[[鹿邑県|苦]]・[[太康県|陽夏]]・[[鄲城県|寧平]]・[[扶溝県|扶溝]]・[[固始県|固始]]・[[圉県|圉]]・[[淮陽県|新平]]・[[柘城県|柘]]の9県を管轄した<ref>『漢書』地理志下</ref>。[[王莽]]のとき、淮陽国は廃されて新平郡が立てられた。 |
[[紀元前196年]](高帝11年)、皇子[[劉友]]が淮陽王となると、淮陽国が置かれた<ref>『史記』高祖本紀</ref>。[[紀元前194年]]([[恵帝 (漢)|恵帝]]元年)、淮陽王劉友が趙王に改封されると、淮陽国は廃されて淮陽郡とされた。[[紀元前188年]](恵帝7年)、皇子劉強が淮陽王となると、また淮陽国が置かれた。[[紀元前183年]]([[呂雉|高后]]5年)、劉強が死去すると、その弟の劉武が淮陽王となった。[[紀元前180年]](高后8年)、[[周勃]]らが呂氏を打倒する政変を起こすと、劉武は恵帝の子でないとされて殺害され、淮陽国は廃されてまた淮陽郡とされた<ref>『史記』呂后本紀</ref>。[[紀元前176年]]([[文帝 (漢)|文帝]]4年)、文帝の子の代王[[劉武]]が淮陽王となると、また淮陽国が立てられた。[[紀元前168年]](文帝12年)、淮陽王劉武が梁王に改封されると、淮陽国は廃されて淮陽郡とされた<ref>『史記』漢興以来諸侯王年表</ref>。[[紀元前155年]]([[景帝 (漢)|景帝]]2年)、景帝の子の[[劉余]]が淮陽王となると、また淮陽国が置かれた。[[紀元前154年]](景帝3年)、劉余が魯王に改封されると、淮陽国は廃されて淮陽郡とされた<ref>『史記』孝景本紀</ref>。[[紀元前63年]]([[元康 (漢)|元康]]3年)、[[宣帝 (漢)|宣帝]]の子の[[劉欽]]が淮陽王となると、また淮陽国が置かれた<ref>『[[漢書]]』宣帝紀</ref>。[[成帝 (漢)|成帝]]の[[元延]]末年に淮陽国は陳・[[鹿邑県|苦]]・[[太康県|陽夏]]・[[鄲城県|寧平]]・[[扶溝県|扶溝]]・[[固始県|固始]]・[[圉県|圉]]・[[淮陽県|新平]]・[[柘城県|柘]]の9県を管轄した<ref>『漢書』地理志下</ref>。[[王莽]]のとき、淮陽国は廃されて新平郡が立てられた。 |
||
[[後漢]]が建国されると、新平郡は淮陽郡の称にもどされた。[[39年]]([[建武 (漢)|建武]]15年)、[[光武帝]]の子の[[劉延]]が淮陽公となると、淮陽国が置かれた<ref>『[[後漢書]]』光武帝紀下</ref>。[[73年]]([[永平 (漢)|永平]]16年)、阜陵王に改封されると、淮陽国は廃されて淮陽郡とされた<ref>『後漢書』顕宗紀</ref>。[[79年]]([[建初 (漢)|建初]]4年)、常山王[[ |
[[後漢]]が建国されると、新平郡は淮陽郡の称にもどされた。[[39年]]([[建武 (漢)|建武]]15年)、[[光武帝]]の子の[[劉延]]が淮陽公となると、淮陽国が置かれた<ref>『[[後漢書]]』光武帝紀下</ref>。[[73年]]([[永平 (漢)|永平]]16年)、阜陵王に改封されると、淮陽国は廃されて淮陽郡とされた<ref>『後漢書』顕宗紀</ref>。[[79年]]([[建初 (漢)|建初]]4年)、常山王[[劉昞]]が淮陽王となると、また淮陽国が置かれた<ref>『後漢書』粛宗紀</ref>。[[87年]]([[章和]]元年)、劉昞が死去した。[[88年]](章和2年)、西平王[[劉羨]]が陳王となり、淮陽郡を食封とし、淮陽国は陳国と改められた<ref>『後漢書』孝和孝殤帝紀</ref>。以後、隋の初年まで陳国あるいは[[陳郡]]と呼称された。後漢の陳国は陳・陽夏・寧平・苦・柘・新平・[[太康県|扶楽]]・[[鹿邑県|武平]]・[[西華県|長平]]の9県を管轄した<ref>『後漢書』郡国志二</ref>。 |
||
隋初に陳郡は[[陳州]]の下にあり、[[583年]]([[開皇]]3年)に郡制を廃すると、陳郡は陳州に統合された。[[607年]]([[大業]]3年)に州が廃止されて郡が置かれると、陳州は淮陽郡と改称された。宛丘・西華・溵水・扶楽・太康・鹿邑・項城・南頓・鄲・鮦陽の8県を管轄した<ref>『[[隋書]]』地理志中</ref>。 |
隋初に陳郡は[[陳州]]の下にあり、[[583年]]([[開皇]]3年)に郡制を廃すると、陳郡は陳州に統合された。[[607年]]([[大業]]3年)に州が廃止されて郡が置かれると、陳州は淮陽郡と改称された。宛丘・西華・溵水・扶楽・太康・鹿邑・項城・南頓・鄲・鮦陽の8県を管轄した<ref>『[[隋書]]』地理志中</ref>。 |
2020年8月24日 (月) 09:35時点における版
淮陽郡(わいよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて、現在の河南省周口市一帯の地域に設置された。
概要
紀元前224年(秦の始皇23年)、秦の王翦が楚の陳県を攻め落とす[1]と、楚郡が置かれた。後に淮陽郡と改称された。
紀元前209年(二世元年)、陳勝が陳県を攻め落とし、張楚の都を置いた[2]。紀元前206年(漢の高帝元年)、項羽が18諸侯を分封すると、淮陽郡は西楚の9郡のひとつとなった。紀元前202年(高帝5年)、項羽が滅ぶと、韓信の楚国の一部となった。紀元前201年(高帝6年)、韓信が謀反の疑いを受けて淮陰侯に降格されると、没収されて淮陽郡となった。
紀元前196年(高帝11年)、皇子劉友が淮陽王となると、淮陽国が置かれた[3]。紀元前194年(恵帝元年)、淮陽王劉友が趙王に改封されると、淮陽国は廃されて淮陽郡とされた。紀元前188年(恵帝7年)、皇子劉強が淮陽王となると、また淮陽国が置かれた。紀元前183年(高后5年)、劉強が死去すると、その弟の劉武が淮陽王となった。紀元前180年(高后8年)、周勃らが呂氏を打倒する政変を起こすと、劉武は恵帝の子でないとされて殺害され、淮陽国は廃されてまた淮陽郡とされた[4]。紀元前176年(文帝4年)、文帝の子の代王劉武が淮陽王となると、また淮陽国が立てられた。紀元前168年(文帝12年)、淮陽王劉武が梁王に改封されると、淮陽国は廃されて淮陽郡とされた[5]。紀元前155年(景帝2年)、景帝の子の劉余が淮陽王となると、また淮陽国が置かれた。紀元前154年(景帝3年)、劉余が魯王に改封されると、淮陽国は廃されて淮陽郡とされた[6]。紀元前63年(元康3年)、宣帝の子の劉欽が淮陽王となると、また淮陽国が置かれた[7]。成帝の元延末年に淮陽国は陳・苦・陽夏・寧平・扶溝・固始・圉・新平・柘の9県を管轄した[8]。王莽のとき、淮陽国は廃されて新平郡が立てられた。
後漢が建国されると、新平郡は淮陽郡の称にもどされた。39年(建武15年)、光武帝の子の劉延が淮陽公となると、淮陽国が置かれた[9]。73年(永平16年)、阜陵王に改封されると、淮陽国は廃されて淮陽郡とされた[10]。79年(建初4年)、常山王劉昞が淮陽王となると、また淮陽国が置かれた[11]。87年(章和元年)、劉昞が死去した。88年(章和2年)、西平王劉羨が陳王となり、淮陽郡を食封とし、淮陽国は陳国と改められた[12]。以後、隋の初年まで陳国あるいは陳郡と呼称された。後漢の陳国は陳・陽夏・寧平・苦・柘・新平・扶楽・武平・長平の9県を管轄した[13]。
隋初に陳郡は陳州の下にあり、583年(開皇3年)に郡制を廃すると、陳郡は陳州に統合された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、陳州は淮陽郡と改称された。宛丘・西華・溵水・扶楽・太康・鹿邑・項城・南頓・鄲・鮦陽の8県を管轄した[14]。
618年(武徳元年)、房憲伯が平定されると、淮陽郡は唐の陳州となった。742年(天宝元年)、陳州は淮陽郡と改称された。758年(乾元元年)、淮陽郡は陳州と改称され、淮陽郡の呼称は姿を消した[15]。