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「淮陽郡 (河南省)」の版間の差分

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[[後漢]]が建国されると、新平郡は淮陽郡の称にもどされた。[[39年]]([[建武 (漢)|建武]]15年)、[[光武帝]]の子の[[劉延]]が淮陽公となると、淮陽国が置かれた<ref>『[[後漢書]]』光武帝紀下</ref>。[[73年]]([[永平 (漢)|永平]]16年)、阜陵王に改封されると、淮陽国は廃されて淮陽郡とされた<ref>『後漢書』顕宗紀</ref>。[[79年]]([[建初 (漢)|建初]]4年)、常山王[[劉ヘイ (後漢)|劉昞]]が淮陽王となると、また淮陽国が置かれた<ref>『後漢書』粛宗紀</ref>。[[87年]]([[章和]]元年)、劉昞が死去した。[[88年]](章和2年)、西平王[[劉羨]]が陳王となり、淮陽郡を食封とし、淮陽国は陳国と改められた<ref>『後漢書』孝和孝殤帝紀</ref>。以後、隋の初年まで陳国あるいは[[陳郡]]と呼称された。後漢の陳国は陳・陽夏・寧平・苦・柘・新平・[[太康県|扶楽]]・[[鹿邑県|武平]]・[[西華県|長平]]の9県を管轄した<ref>『後漢書』郡国志二</ref>。
[[後漢]]が建国されると、新平郡は淮陽郡の称にもどされた。[[39年]]([[建武 (漢)|建武]]15年)、[[光武帝]]の子の[[劉延]]が淮陽公となると、淮陽国が置かれた<ref>『[[後漢書]]』光武帝紀下</ref>。[[73年]]([[永平 (漢)|永平]]16年)、阜陵王に改封されると、淮陽国は廃されて淮陽郡とされた<ref>『後漢書』顕宗紀</ref>。[[79年]]([[建初 (漢)|建初]]4年)、常山王[[劉昞]]が淮陽王となると、また淮陽国が置かれた<ref>『後漢書』粛宗紀</ref>。[[87年]]([[章和]]元年)、劉昞が死去した。[[88年]](章和2年)、西平王[[劉羨]]が陳王となり、淮陽郡を食封とし、淮陽国は陳国と改められた<ref>『後漢書』孝和孝殤帝紀</ref>。以後、隋の初年まで陳国あるいは[[陳郡]]と呼称された。後漢の陳国は陳・陽夏・寧平・苦・柘・新平・[[太康県|扶楽]]・[[鹿邑県|武平]]・[[西華県|長平]]の9県を管轄した<ref>『後漢書』郡国志二</ref>。


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隋初に陳郡は[[陳州]]の下にあり、[[583年]]([[開皇]]3年)に郡制を廃すると、陳郡は陳州に統合された。[[607年]]([[大業]]3年)に州が廃止されて郡が置かれると、陳州は淮陽郡と改称された。宛丘・西華・溵水・扶楽・太康・鹿邑・項城・南頓・鄲・鮦陽の8県を管轄した<ref>『[[隋書]]』地理志中</ref>。

2020年8月24日 (月) 09:35時点における版

淮陽郡(わいよう-ぐん)は、中国にかつて存在した秦代から唐代にかけて、現在の河南省周口市一帯の地域に設置された。

概要

紀元前224年(秦の始皇23年)、秦の王翦陳県を攻め落とす[1]と、楚郡が置かれた。後に淮陽郡と改称された。

紀元前209年二世元年)、陳勝が陳県を攻め落とし、張楚の都を置いた[2]紀元前206年高帝元年)、項羽が18諸侯を分封すると、淮陽郡は西楚の9郡のひとつとなった。紀元前202年(高帝5年)、項羽が滅ぶと、韓信の楚国の一部となった。紀元前201年(高帝6年)、韓信が謀反の疑いを受けて淮陰侯に降格されると、没収されて淮陽郡となった。

紀元前196年(高帝11年)、皇子劉友が淮陽王となると、淮陽国が置かれた[3]紀元前194年恵帝元年)、淮陽王劉友が趙王に改封されると、淮陽国は廃されて淮陽郡とされた。紀元前188年(恵帝7年)、皇子劉強が淮陽王となると、また淮陽国が置かれた。紀元前183年高后5年)、劉強が死去すると、その弟の劉武が淮陽王となった。紀元前180年(高后8年)、周勃らが呂氏を打倒する政変を起こすと、劉武は恵帝の子でないとされて殺害され、淮陽国は廃されてまた淮陽郡とされた[4]紀元前176年文帝4年)、文帝の子の代王劉武が淮陽王となると、また淮陽国が立てられた。紀元前168年(文帝12年)、淮陽王劉武が梁王に改封されると、淮陽国は廃されて淮陽郡とされた[5]紀元前155年景帝2年)、景帝の子の劉余が淮陽王となると、また淮陽国が置かれた。紀元前154年(景帝3年)、劉余が魯王に改封されると、淮陽国は廃されて淮陽郡とされた[6]紀元前63年元康3年)、宣帝の子の劉欽が淮陽王となると、また淮陽国が置かれた[7]成帝元延末年に淮陽国は陳・陽夏寧平扶溝固始新平の9県を管轄した[8]王莽のとき、淮陽国は廃されて新平郡が立てられた。

後漢が建国されると、新平郡は淮陽郡の称にもどされた。39年建武15年)、光武帝の子の劉延が淮陽公となると、淮陽国が置かれた[9]73年永平16年)、阜陵王に改封されると、淮陽国は廃されて淮陽郡とされた[10]79年建初4年)、常山王劉昞が淮陽王となると、また淮陽国が置かれた[11]87年章和元年)、劉昞が死去した。88年(章和2年)、西平王劉羨が陳王となり、淮陽郡を食封とし、淮陽国は陳国と改められた[12]。以後、隋の初年まで陳国あるいは陳郡と呼称された。後漢の陳国は陳・陽夏・寧平・苦・柘・新平・扶楽武平長平の9県を管轄した[13]

隋初に陳郡は陳州の下にあり、583年開皇3年)に郡制を廃すると、陳郡は陳州に統合された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、陳州は淮陽郡と改称された。宛丘・西華・溵水・扶楽・太康・鹿邑・項城・南頓・鄲・鮦陽の8県を管轄した[14]

618年武徳元年)、房憲伯が平定されると、淮陽郡は唐の陳州となった。742年天宝元年)、陳州は淮陽郡と改称された。758年乾元元年)、淮陽郡は陳州と改称され、淮陽郡の呼称は姿を消した[15]

脚注

  1. ^ 史記』始皇本紀
  2. ^ 『史記』陳渉世家
  3. ^ 『史記』高祖本紀
  4. ^ 『史記』呂后本紀
  5. ^ 『史記』漢興以来諸侯王年表
  6. ^ 『史記』孝景本紀
  7. ^ 漢書』宣帝紀
  8. ^ 『漢書』地理志下
  9. ^ 後漢書』光武帝紀下
  10. ^ 『後漢書』顕宗紀
  11. ^ 『後漢書』粛宗紀
  12. ^ 『後漢書』孝和孝殤帝紀
  13. ^ 『後漢書』郡国志二
  14. ^ 隋書』地理志中
  15. ^ 旧唐書』地理志二