「沈約」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m Bot作業依頼: 劉姓の記事の改名に伴うリンク修正 (劉勰) - log |
|||
9行目: | 9行目: | ||
== 著作・文学作品 == |
== 著作・文学作品 == |
||
{{出典の明記|date=2020年1月|section=1}} |
{{出典の明記|date=2020年1月|section=1}} |
||
歴史書では『[[宋書]]』および『晋書』『斉紀』を編纂した。[[漢詩|詩]]の分野では同じ「八友」の仲間である[[謝朓]]、[[王融]]らとともに、詩の[[韻律 (韻文)|韻律]]・形式美を自覚的に追求し、「[[永明体]]」と呼ばれる詩風を生み出した。その理論として[[四声]](平・上・去・[[入声|入]])・[[四声八病説|八病]]の説を唱えた。南朝の同時代の文壇において最も重きをなし、無名であった[[劉 |
歴史書では『[[宋書]]』および『晋書』『斉紀』を編纂した。[[漢詩|詩]]の分野では同じ「八友」の仲間である[[謝朓]]、[[王融]]らとともに、詩の[[韻律 (韻文)|韻律]]・形式美を自覚的に追求し、「[[永明体]]」と呼ばれる詩風を生み出した。その理論として[[四声]](平・上・去・[[入声|入]])・[[四声八病説|八病]]の説を唱えた。南朝の同時代の文壇において最も重きをなし、無名であった[[劉勰]]が『[[文心雕龍]]』を世に出そうとした時には、沈約に見せて評価を求めたという。『梁書』本伝によると彼の文集は100巻あったというが散逸し、現在伝わる文集は明代以降に再編集されたものである。 |
||
== 文献 == |
== 文献 == |
2020年8月24日 (月) 09:20時点における版
二十四史 |
---|
二十四史 |
司馬遷『史記』 |
班固『漢書』 |
范曄『後漢書』 |
陳寿『三国志』 |
房玄齢等『晋書』 |
沈約『宋書』 |
蕭子顕『南斉書』 |
姚思廉『梁書』 |
姚思廉『陳書』 |
魏収『魏書』 |
李百薬『北斉書』 |
令狐徳棻等『周書』 |
魏徴・長孫無忌等『隋書』 |
李延寿『南史』 |
李延寿『北史』 |
劉昫等『旧唐書』 |
欧陽脩・宋祁『新唐書』 |
薛居正等『旧五代史』 |
欧陽脩『新五代史』 |
脱脱等『宋史』 |
脱脱等『遼史』 |
脱脱等『金史』 |
宋濂等『元史』 |
張廷玉等『明史』 |
二十六史 |
柯劭忞等『新元史』 |
趙爾巽等『清史稿』 |
その他 |
班固・劉珍・蔡邕等『東観漢記』 |
中華民國版『清史』 |
中華民國版『新清史』(未完) |
中華人民共和国版『清史』 |
沈 約(しん やく、元嘉18年(441年) - 天監12年閏3月11日(513年5月1日))は、中国南朝を代表する文学者、政治家。字は休文。諡は隠。本貫は呉興郡武康県(現在の浙江省湖州市徳清県)。
生涯
沈璞の子として生まれた。沈氏は元来軍事で頭角を現した江南の豪族であるが、沈約自身は幼いときに父を孝武帝に殺されたこともあり、学問に精励し学識を蓄え、宋・斉・梁の3朝に仕えた。南斉の竟陵王蕭子良の招きに応じ、その文学サロンで重きをなし、「竟陵八友」の一人に数えられた。その後蕭衍(後の梁の武帝)の挙兵に協力し、梁が建てられると尚書令に任ぜられ、建昌県侯に封ぜられた。晩年は武帝の不興をこうむり、憂愁のうちに死去したという。このため諡は、当初「文」とされるところを武帝の命により「隠」とされた。
著作・文学作品
歴史書では『宋書』および『晋書』『斉紀』を編纂した。詩の分野では同じ「八友」の仲間である謝朓、王融らとともに、詩の韻律・形式美を自覚的に追求し、「永明体」と呼ばれる詩風を生み出した。その理論として四声(平・上・去・入)・八病の説を唱えた。南朝の同時代の文壇において最も重きをなし、無名であった劉勰が『文心雕龍』を世に出そうとした時には、沈約に見せて評価を求めたという。『梁書』本伝によると彼の文集は100巻あったというが散逸し、現在伝わる文集は明代以降に再編集されたものである。
文献
- 『梁書』巻13、中華書局。
- 『南史』巻57、中華書局。
日本語書籍
- 興膳宏編 編『六朝詩人伝』大修館書店、2000、原典訳注、大著。
- 興膳宏編 編『六朝詩人群像』大修館書店〈あじあブックス〉、2001、列伝。
- 網祐次『中国中世文学研究―永明文学を中心として―』新樹社、1960年。
- 興膳宏『乱世を生きる詩人たち―六朝詩人論―』研文出版、2001年。
- 今場正美『隱逸と文學―陶淵明と沈約を中心として―』朋友書店、2003年。
- 稀代麻也子『宋書のなかの沈約 生きるということ』汲古書院、2004年。