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「沈約」の版間の差分

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== 著作・文学作品 ==
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歴史書では『[[宋書]]』および『晋書』『斉紀』を編纂した。[[漢詩|詩]]の分野では同じ「八友」の仲間である[[謝朓]]、[[王融]]らとともに、詩の[[韻律 (韻文)|韻律]]・形式美を自覚的に追求し、「[[永明体]]」と呼ばれる詩風を生み出した。その理論として[[四声]](平・上・去・[[入声|入]])・[[四声八病説|八病]]の説を唱えた。南朝の同時代の文壇において最も重きをなし、無名であった[[劉キョウ|劉勰]]が『[[文心雕龍]]』を世に出そうとした時には、沈約に見せて評価を求めたという。『梁書』本伝によると彼の文集は100巻あったというが散逸し、現在伝わる文集は明代以降に再編集されたものである。
歴史書では『[[宋書]]』および『晋書』『斉紀』を編纂した。[[漢詩|詩]]の分野では同じ「八友」の仲間である[[謝朓]]、[[王融]]らとともに、詩の[[韻律 (韻文)|韻律]]・形式美を自覚的に追求し、「[[永明体]]」と呼ばれる詩風を生み出した。その理論として[[四声]](平・上・去・[[入声|入]])・[[四声八病説|八病]]の説を唱えた。南朝の同時代の文壇において最も重きをなし、無名であった[[劉]]が『[[文心雕龍]]』を世に出そうとした時には、沈約に見せて評価を求めたという。『梁書』本伝によると彼の文集は100巻あったというが散逸し、現在伝わる文集は明代以降に再編集されたものである。


== 文献 ==
== 文献 ==

2020年8月24日 (月) 09:20時点における版

沈 約(しん やく、元嘉18年(441年) - 天監12年閏3月11日513年5月1日))は、中国南朝を代表する文学者、政治家。休文本貫呉興郡武康県(現在の浙江省湖州市徳清県)。

生涯

沈璞の子として生まれた。沈氏は元来軍事で頭角を現した江南の豪族であるが、沈約自身は幼いときに父を孝武帝に殺されたこともあり、学問に精励し学識を蓄え、の3朝に仕えた。南斉の竟陵王蕭子良の招きに応じ、その文学サロンで重きをなし、「竟陵八友」の一人に数えられた。その後蕭衍(後の梁の武帝)の挙兵に協力し、梁が建てられると尚書令に任ぜられ、建昌県侯に封ぜられた。晩年は武帝の不興をこうむり、憂愁のうちに死去したという。このためは、当初「文」とされるところを武帝の命により「隠」とされた。

著作・文学作品

歴史書では『宋書』および『晋書』『斉紀』を編纂した。の分野では同じ「八友」の仲間である謝朓王融らとともに、詩の韻律・形式美を自覚的に追求し、「永明体」と呼ばれる詩風を生み出した。その理論として四声(平・上・去・)・八病の説を唱えた。南朝の同時代の文壇において最も重きをなし、無名であった劉勰が『文心雕龍』を世に出そうとした時には、沈約に見せて評価を求めたという。『梁書』本伝によると彼の文集は100巻あったというが散逸し、現在伝わる文集は明代以降に再編集されたものである。

文献

  • 『梁書』巻13、中華書局。
  • 『南史』巻57、中華書局。

日本語書籍

  • 興膳宏編 編『六朝詩人伝』大修館書店、2000、原典訳注、大著。 
  • 興膳宏編 編『六朝詩人群像』大修館書店〈あじあブックス〉、2001、列伝。 
  • 網祐次『中国中世文学研究―永明文学を中心として―』新樹社、1960年。 
  • 興膳宏『乱世を生きる詩人たち―六朝詩人論―』研文出版、2001年。 
  • 今場正美『隱逸と文學―陶淵明と沈約を中心として―』朋友書店、2003年。 
  • 稀代麻也子宋書のなかの沈約 生きるということ』汲古書院、2004年。 

脚注

外部リンク