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「宋皇后 (漢霊帝)」の版間の差分

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[[建寧 (漢)|建寧]]3年(170年)、後宮に入り、[[貴人 (後宮)|貴人]]となった。翌年、皇后に立てられた。気弱で、また皇帝の寵愛がなかったため、妃嬪たちはみな宋氏を散々にけなした。
[[建寧 (漢)|建寧]]3年(170年)、後宮に入り、[[貴人 (後宮)|貴人]]となった。翌年、皇后に立てられた。気弱で、また皇帝の寵愛がなかったため、妃嬪たちはみな宋氏を散々にけなした。


霊帝は傍系から[[桓帝 (漢)|桓帝]]の帝位を継いだため、桓帝の弟の勃海王[[劉カイ (勃海王)|劉悝]]に対して猜疑心を抱き忌避していた。[[熹平]]元年(172年)、[[宦官]]の[[王甫 (宦官)|王甫]]は劉悝を調略により一族皆死に追いやった。劉悝の妃の宋氏は皇后と同族であった。そのため報復を恐れた王甫に讒言され、宋皇后は[[178年]]に無実の罪を着せられた上で廃位および暴室送りにされ、三族皆殺しの刑に処せられた。宋氏自身もほどなく急死した。他の宦官たちは同情し、金を出しあって宋氏を簡素に埋葬した。
霊帝は傍系から[[桓帝 (漢)|桓帝]]の帝位を継いだため、桓帝の弟の勃海王[[劉悝]]に対して猜疑心を抱き忌避していた。[[熹平]]元年(172年)、[[宦官]]の[[王甫 (宦官)|王甫]]は劉悝を調略により一族皆死に追いやった。劉悝の妃の宋氏は皇后と同族であった。そのため報復を恐れた王甫に讒言され、宋皇后は[[178年]]に無実の罪を着せられた上で廃位および暴室送りにされ、三族皆殺しの刑に処せられた。宋氏自身もほどなく急死した。他の宦官たちは同情し、金を出しあって宋氏を簡素に埋葬した。


数年後、病臥する霊帝は桓帝を夢に見た。桓帝は言った。
数年後、病臥する霊帝は桓帝を夢に見た。桓帝は言った。

2020年8月22日 (土) 22:20時点における版

宋皇后
後漢の皇后
在位 171年 - 178年

死去 熹平7年(178年
配偶者 霊帝
父親 宋酆
立后前身位 貴人
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宋皇后(そうこうごう、? - 178年)は、中国後漢霊帝の最初の皇后で廃后。右扶風平陵県(現在の陝西省咸陽市秦都区)の人。父は宋酆。

生涯

建寧3年(170年)、後宮に入り、貴人となった。翌年、皇后に立てられた。気弱で、また皇帝の寵愛がなかったため、妃嬪たちはみな宋氏を散々にけなした。

霊帝は傍系から桓帝の帝位を継いだため、桓帝の弟の勃海王劉悝に対して猜疑心を抱き忌避していた。熹平元年(172年)、宦官王甫は劉悝を調略により一族皆死に追いやった。劉悝の妃の宋氏は皇后と同族であった。そのため報復を恐れた王甫に讒言され、宋皇后は178年に無実の罪を着せられた上で廃位および暴室送りにされ、三族皆殺しの刑に処せられた。宋氏自身もほどなく急死した。他の宦官たちは同情し、金を出しあって宋氏を簡素に埋葬した。

数年後、病臥する霊帝は桓帝を夢に見た。桓帝は言った。

宋皇后に何の罪があって佞臣に命を絶たせた?勃海王劉悝はすでに廃された上、一族もろとも殺害された。今、宋氏と劉悝は上天に訴え、天帝は激怒している、救い難い罪と…

霊帝は驚き恐れたが、宋氏と劉悝の名誉回復は拒んだ。間もなく霊帝は崩御した。

参考資料