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「劉徳然」の版間の差分

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'''劉 徳然''' (りゅう とくぜん、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]末の人物。[[幽州]][[涿郡]][[涿県]]の出身。陸城亭侯の[[劉貞]]<ref>『蜀書』先主伝よりが引用する『[[魏略|典略]]』および、『[[後漢書]]』には3人の臨邑侯の名が記録されている。一人は[[建武 (漢)|建武]]2年(西暦[[26年]])に[[真定]]王[[劉楊]]と共に後漢への謀反を起こした[[劉譲]]であり、もう一人は建武30年([[54年]])に臨邑侯に封じられた[[劉復]]、いま一人は劉復の子の[[劉騊駼]]である。劉譲は劉楊の弟であり、劉楊は[[前漢]]の[[景帝 (漢)|景帝]]の7代の孫である。劉復は北海靖王[[劉興 (北海王)|劉興]]の子であり、劉興は[[光武帝]]の兄の斉武王・[[劉エン (伯升)|劉縯]](伯升)の子である。</ref>の末裔とされる[[劉元起]]の子で、[[蜀漢]]初代[[皇帝]][[劉備]]の[[族兄弟]]。「徳然」はおそらく[[字]]で、名は不明。
'''劉 徳然''' (りゅう とくぜん、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]末の人物。[[幽州]][[涿郡]][[涿県]]の出身。陸城亭侯の[[劉貞]]<ref>『蜀書』先主伝よりが引用する『[[魏略|典略]]』および、『[[後漢書]]』には3人の臨邑侯の名が記録されている。一人は[[建武 (漢)|建武]]2年(西暦[[26年]])に[[真定]]王[[劉楊]]と共に後漢への謀反を起こした[[劉譲]]であり、もう一人は建武30年([[54年]])に臨邑侯に封じられた[[劉復]]、いま一人は劉復の子の[[劉騊駼]]である。劉譲は劉楊の弟であり、劉楊は[[前漢]]の[[景帝 (漢)|景帝]]の7代の孫である。劉復は北海靖王[[劉興 (北海王)|劉興]]の子であり、劉興は[[光武帝]]の兄の斉武王・[[劉縯]](伯升)の子である。</ref>の末裔とされる[[劉元起]]の子で、[[蜀漢]]初代[[皇帝]][[劉備]]の[[族兄弟]]。「徳然」はおそらく[[字]]で、名は不明。


彼の事項は『[[蜀書]]』「先主伝」に記されており、[[175年]]ごろに、父の命でいとこの劉備(15歳)と共に同郷の[[儒学者]]として有名な[[盧植]]の下で学問を学び、そこで学友の[[公孫サン|公孫瓚]]と出会うことになった。
彼の事項は『[[蜀書]]』「先主伝」に記されており、[[175年]]ごろに、父の命でいとこの劉備(15歳)と共に同郷の[[儒学者]]として有名な[[盧植]]の下で学問を学び、そこで学友の[[公孫サン|公孫瓚]]と出会うことになった。

2020年8月22日 (土) 22:17時点における版

劉 徳然 (りゅう とくぜん、生没年不詳)は、中国後漢末の人物。幽州涿郡涿県の出身。陸城亭侯の劉貞[1]の末裔とされる劉元起の子で、蜀漢初代皇帝劉備族兄弟。「徳然」はおそらくで、名は不明。

彼の事項は『蜀書』「先主伝」に記されており、175年ごろに、父の命でいとこの劉備(15歳)と共に同郷の儒学者として有名な盧植の下で学問を学び、そこで学友の公孫瓚と出会うことになった。

その後の徳然の動向は記されておらず、不詳である。

脚注

  1. ^ 『蜀書』先主伝よりが引用する『典略』および、『後漢書』には3人の臨邑侯の名が記録されている。一人は建武2年(西暦26年)に真定劉楊と共に後漢への謀反を起こした劉譲であり、もう一人は建武30年(54年)に臨邑侯に封じられた劉復、いま一人は劉復の子の劉騊駼である。劉譲は劉楊の弟であり、劉楊は前漢景帝の7代の孫である。劉復は北海靖王劉興の子であり、劉興は光武帝の兄の斉武王・劉縯(伯升)の子である。