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韓愈は、[[六朝]]以来の文章の主流であった四六[[駢儷文]]が修辞主義に傾斜する傾向を批判し、秦漢以前の文を範とした達意の文体を提唱し([[古文復興運動]])、[[唐宋八大家]]の第一に数えられている。この運動に共鳴した[[柳宗元]]は、韓愈とともに「韓柳」と並称される。
韓愈は、[[六朝]]以来の文章の主流であった四六[[駢儷文]]が修辞主義に傾斜する傾向を批判し、秦漢以前の文を範とした達意の文体を提唱し([[古文復興運動]])、[[唐宋八大家]]の第一に数えられている。この運動に共鳴した[[柳宗元]]は、韓愈とともに「韓柳」と並称される。


古文復興運動は、彼の思想の基盤である[[儒教]]の復興と表裏をなすものであり、その観点から著された文章として、「原人」「原道」「原性」などが残されている。その排仏論も、六朝から[[隋]]唐にかけての崇仏の傾向を斥け、中国古来の儒教の地位を回復しようとする、彼の儒教復興の姿勢からきたものであった。その傾向を受けついだのは高弟の[[李コウ (唐の文人)|李翺]]である。
古文復興運動は、彼の思想の基盤である[[儒教]]の復興と表裏をなすものであり、その観点から著された文章として、「原人」「原道」「原性」などが残されている。その排仏論も、六朝から[[隋]]唐にかけての崇仏の傾向を斥け、中国古来の儒教の地位を回復しようとする、彼の儒教復興の姿勢からきたものであった。その傾向を受けついだのは高弟の[[李翺]]である。


詩人としては、新奇な語句を多用する難解な詩風が特徴で、平易で通俗的な詩風を特徴とする[[白居易]]に対抗する中唐詩壇の一派を形成し、[[孟郊]]・[[張籍]]・[[李賀]]・王建・[[賈島]]など「韓門の弟子」と称する詩人たちを輩出した。
詩人としては、新奇な語句を多用する難解な詩風が特徴で、平易で通俗的な詩風を特徴とする[[白居易]]に対抗する中唐詩壇の一派を形成し、[[孟郊]]・[[張籍]]・[[李賀]]・王建・[[賈島]]など「韓門の弟子」と称する詩人たちを輩出した。

2020年8月20日 (木) 00:53時点における版

韓愈
韓愈・『晩笑堂竹荘畫傳』より
各種表記
繁体字 韓愈
簡体字 韩愈
拼音 Hán Yù
ラテン字 Han24
発音転記: ハン ユー
英語名 Han Yu
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韓 愈(かん ゆ、768年大暦3年) - 824年12月25日長慶4年12月2日))は、中国代中期を代表する文人士大夫である。退之(たいし)。孟州河陽県(現在の河南省焦作市孟州市)の人。本貫南陽郡[1]

略歴

3歳のとき父の韓仲卿を、14歳のとき兄の韓会を失って兄嫁の鄭氏に養われ、育った。792年貞元8年)に進士に及第する。その後、監察御史中書舎人、吏部侍郎(この官によって「韓吏部」とも呼ばれる)、京兆府事などの官を歴任した。

817年裴度に従い呉元済の乱の鎮圧に参加した。

818年元和13年)[2]、30年に1度のご開帳に供養すればご利益があるとして信仰を集めていた鳳翔法門寺仏舎利が、長安の宮中に迎えられ、供養されることとなった。819年(元和14年)、それに対して韓愈は、『論仏骨表』を憲宗に奉って極諌した。結果、崇仏皇帝であった憲宗の逆鱗に触れ、潮州刺史に左遷された。

820年、憲宗が死去して穆宗が即位すると、再び召されて国子祭酒に任じられた。その後は兵部侍郎・吏部侍郎を歴任し、824年に死去した。礼部尚書を追贈された。

作品

韓愈は、六朝以来の文章の主流であった四六駢儷文が修辞主義に傾斜する傾向を批判し、秦漢以前の文を範とした達意の文体を提唱し(古文復興運動)、唐宋八大家の第一に数えられている。この運動に共鳴した柳宗元は、韓愈とともに「韓柳」と並称される。

古文復興運動は、彼の思想の基盤である儒教の復興と表裏をなすものであり、その観点から著された文章として、「原人」「原道」「原性」などが残されている。その排仏論も、六朝から唐にかけての崇仏の傾向を斥け、中国古来の儒教の地位を回復しようとする、彼の儒教復興の姿勢からきたものであった。その傾向を受けついだのは高弟の李翺である。

詩人としては、新奇な語句を多用する難解な詩風が特徴で、平易で通俗的な詩風を特徴とする白居易に対抗する中唐詩壇の一派を形成し、孟郊張籍李賀・王建・賈島など「韓門の弟子」と称する詩人たちを輩出した。

詩人としてもある程度の名声を持っているが、より有名なのは散文の作家としてであり、中国の近い過去千年間の散文の始祖ともされる。

文集に『韓昌黎集』40巻、『外集』10巻がある。

伝記資料

訳注文献

脚注

  1. ^ 佐藤一郎『中国文学史』(初版)慶應義塾大学出版会、昭和46-04-10、107頁。ISBN 9784766401943 
  2. ^ 唐会要』巻47「議釈教」上
  3. ^ 二巻目は第一章目まで作品収録。他は柳宗元

関連項目