「李信」の版間の差分
1.36.90.29 (会話) 編集の要約なし |
m Bot作業依頼: 「李コウ」の各人物記事の改名に伴うリンク修正依頼 (李暠) - log |
||
21行目: | 21行目: | ||
以下の本節は『[[新唐書]]』宗室世系表上(以下、宗室世系表と略す)という史料に基づいて記述する。宗室世系表は[[唐]]の[[皇帝]]の一族とされる隴西李氏の族譜をもとに[[北宋|宋代]]に成立した記録であり、その内容には唐の[[宗室]]の出自と家格を高貴化するための粉飾があると考えられている。 |
以下の本節は『[[新唐書]]』宗室世系表上(以下、宗室世系表と略す)という史料に基づいて記述する。宗室世系表は[[唐]]の[[皇帝]]の一族とされる隴西李氏の族譜をもとに[[北宋|宋代]]に成立した記録であり、その内容には唐の[[宗室]]の出自と家格を高貴化するための粉飾があると考えられている。 |
||
宗室世系表によると、隴西李氏は嬴姓の出自であり、[[顓頊|顓頊高陽氏]]の子孫とされている。李信の祖先には、[[老子|李耳]](老子)の名がみられる。李信の祖父の李崇は、[[字]]を伯祐といい、秦の[[隴西郡|隴西]][[郡守]]・南鄭公となった。李信の父の李瑤は、字を内徳といい、秦の[[南郡 (中国)|南郡]]郡守・狄道侯となった。李信は字を有成といい、秦の[[大将軍]]・隴西侯となった。李信の子の李超は、またの名を伉ともいい、字を仁高といい、[[漢]]の大将軍・[[漁陽郡|漁陽]][[太守]]となった。李超にはふたりの男子があって、長男が李元曠といい、漢の侍中となった。李超の次男は李仲翔といい、漢の[[河東郡 (中国)|河東]]太守・征西将軍となり、反乱を起こした[[羌]]を素昌で討伐して戦没した。李仲翔は[[太尉]]の位を追贈され、隴西郡[[狄道県]]東川に葬られたことから、李氏はここに家をかまえた。李仲翔の子の李伯考は漢の隴西河東二郡太守となった。李伯考の子の李尚が、漢の成紀県令となり、このため成紀県に居住した。李尚の子が、漢の前将軍の[[李広]]であるとされる。李広以下の子孫の記録は、[[五胡十六国時代]]の[[西涼]]の[[ |
宗室世系表によると、隴西李氏は嬴姓の出自であり、[[顓頊|顓頊高陽氏]]の子孫とされている。李信の祖先には、[[老子|李耳]](老子)の名がみられる。李信の祖父の李崇は、[[字]]を伯祐といい、秦の[[隴西郡|隴西]][[郡守]]・南鄭公となった。李信の父の李瑤は、字を内徳といい、秦の[[南郡 (中国)|南郡]]郡守・狄道侯となった。李信は字を有成といい、秦の[[大将軍]]・隴西侯となった。李信の子の李超は、またの名を伉ともいい、字を仁高といい、[[漢]]の大将軍・[[漁陽郡|漁陽]][[太守]]となった。李超にはふたりの男子があって、長男が李元曠といい、漢の侍中となった。李超の次男は李仲翔といい、漢の[[河東郡 (中国)|河東]]太守・征西将軍となり、反乱を起こした[[羌]]を素昌で討伐して戦没した。李仲翔は[[太尉]]の位を追贈され、隴西郡[[狄道県]]東川に葬られたことから、李氏はここに家をかまえた。李仲翔の子の李伯考は漢の隴西河東二郡太守となった。李伯考の子の李尚が、漢の成紀県令となり、このため成紀県に居住した。李尚の子が、漢の前将軍の[[李広]]であるとされる。李広以下の子孫の記録は、[[五胡十六国時代]]の[[西涼]]の[[李暠]]へと続き、唐の高祖[[李淵]]にいたる。また宗室世系表以外では[[李白]]も前述の李暠の9世の後裔と記されている。 |
||
漢の李広の祖先が李信であることは、『史記』李将軍列伝にも見られるが、宗室世系表に見えるその間の4代については全く古い史料の裏づけがない。李信自身についても、字や官爵のことは他に見られない。李信の父祖についても同様である。 |
漢の李広の祖先が李信であることは、『史記』李将軍列伝にも見られるが、宗室世系表に見えるその間の4代については全く古い史料の裏づけがない。李信自身についても、字や官爵のことは他に見られない。李信の父祖についても同様である。 |
2020年8月20日 (木) 00:51時点における版
李 信(り しん、生没年不詳)は、中国の戦国時代末期の秦国の将軍。字は有成[1]。秦王政(後の始皇帝)に仕え、諸国の統一に貢献した。『史記』白起・王翦列伝および刺客列伝において、その事績が記されている[2][3]。
生涯
紀元前229年~紀元前228年、王翦が数十万の軍の指揮を執り趙と対峙した時、李信は趙の太原・雲中に出征した[4]。
紀元前226年、王翦と王賁は、前年の燕の太子丹が主導した荊軻による秦王政(後の始皇帝)暗殺未遂事件の報復として、燕の国都の薊を攻略し、燕王喜と丹を遼東に敗走させた[2][3]。この際、李信は数千の兵の指揮を執り、燕軍を追撃し、丹の軍を衍水で破り、丹を捕虜にした[2][注 1]。
紀元前225年、秦王政は、楚を征服したいと思い、対楚戦にどれだけの部隊が必要かを諮問した[2]。李信は、「20万」が必要だと語った[2]。一方で王翦は、「60万」が必要だと語った[2]。政は、王翦が耄碌したものと捉え、李信の案を採用して侵攻を命じた[2]。
李信は総兵数20万を二つの部隊に分け、李信は平輿(現在の河南省駐馬店市平輿県)で、蒙恬は寝丘(現在の安徽省阜陽市臨泉県)で楚軍に大勝した[2]。さらに、李信と蒙恬は、楚の国都の郢(寿春、現在の安徽省淮南市寿県)周辺を攻め、再び楚軍を破る[2]。
しかし、城父で李信と蒙恬が合流したところを、三日三晩追跡して来た項燕が指揮を執る楚軍に奇襲され、2カ所の塁壁を破られ、7人の武将を失う大敗を喫した(城父の戦い)[2]。『史記』白起・王翦列伝によるとこのとき、昌平君が配されていた後方の秦領、旧楚都の郢陳(現在の河南省周口市淮陽区)で項燕に呼応するかの様に反乱が起き、李信が指揮を執る秦軍はこの鎮圧の為に西へ向かおうとした所、楚軍の奇襲を受け壊滅したとある[2]。
翌年、李信と交代した王翦と蒙武が60万の兵の指揮を執り楚を攻め、楚王負芻を捕虜にし、楚を滅亡させた[2]。
紀元前222年、王賁と共に燕の遼東を攻め、燕王喜を捕虜とし、これを滅ぼした[2]。
紀元前221年、王賁・蒙恬と共に斉を攻め、これを滅ぼした[2][5]。
『新唐書』宗室世系表の李信
以下の本節は『新唐書』宗室世系表上(以下、宗室世系表と略す)という史料に基づいて記述する。宗室世系表は唐の皇帝の一族とされる隴西李氏の族譜をもとに宋代に成立した記録であり、その内容には唐の宗室の出自と家格を高貴化するための粉飾があると考えられている。
宗室世系表によると、隴西李氏は嬴姓の出自であり、顓頊高陽氏の子孫とされている。李信の祖先には、李耳(老子)の名がみられる。李信の祖父の李崇は、字を伯祐といい、秦の隴西郡守・南鄭公となった。李信の父の李瑤は、字を内徳といい、秦の南郡郡守・狄道侯となった。李信は字を有成といい、秦の大将軍・隴西侯となった。李信の子の李超は、またの名を伉ともいい、字を仁高といい、漢の大将軍・漁陽太守となった。李超にはふたりの男子があって、長男が李元曠といい、漢の侍中となった。李超の次男は李仲翔といい、漢の河東太守・征西将軍となり、反乱を起こした羌を素昌で討伐して戦没した。李仲翔は太尉の位を追贈され、隴西郡狄道県東川に葬られたことから、李氏はここに家をかまえた。李仲翔の子の李伯考は漢の隴西河東二郡太守となった。李伯考の子の李尚が、漢の成紀県令となり、このため成紀県に居住した。李尚の子が、漢の前将軍の李広であるとされる。李広以下の子孫の記録は、五胡十六国時代の西涼の李暠へと続き、唐の高祖李淵にいたる。また宗室世系表以外では李白も前述の李暠の9世の後裔と記されている。
漢の李広の祖先が李信であることは、『史記』李将軍列伝にも見られるが、宗室世系表に見えるその間の4代については全く古い史料の裏づけがない。李信自身についても、字や官爵のことは他に見られない。李信の父祖についても同様である。
備考
『史記』白起・王翦列伝において、李信は「年が若く、勇壮であった」と記されている[2]。 また、対楚戦の失敗後も粛清されず、また子孫が残っていることからも、秦王政より一応の信用は得ていたと考えられる。
現在では司馬遷の『史記』以外の史料はほぼ散逸して、李信の事跡には不明な点が多い。『史記』で李信個人の列伝は立てられていないが、白起・王翦列伝や刺客列伝などで事跡を窺うことができる。