コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「陸令萱」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「ギョウ」→「鄴」が記事名を含まれる記事の改名に伴うリンク修正依頼 (鄴) - log
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 祖姓・高姓の人物記事の改名に伴うリンク修正依頼 (祖珽) - log
6行目: 6行目:
[[569年]]、[[和士開]]と協力して趙郡王[[高叡]]を殺害し、[[婁定遠]]を[[青州 (山東省)|青州]][[刺史]]に、[[元文遙]]を[[西兗州]]刺史に左遷させた。太姫と称し、[[公主|長公主]]の上に位した。また[[穆邪利]]に取り入って養女とし、後主の右皇后として立てさせた。
[[569年]]、[[和士開]]と協力して趙郡王[[高叡]]を殺害し、[[婁定遠]]を[[青州 (山東省)|青州]][[刺史]]に、[[元文遙]]を[[西兗州]]刺史に左遷させた。太姫と称し、[[公主|長公主]]の上に位した。また[[穆邪利]]に取り入って養女とし、後主の右皇后として立てさせた。


[[571年]]に和士開が死去すると、令萱は[[祖テイ|祖珽]]と協力して[[趙彦深]]を西兗州刺史に左遷させた。これ以来、令萱は子の[[穆提婆]]とともに北斉の宮廷内外に権勢を振るい、売官や収賄を横行させた。胡太后が曇献との醜聞が発覚して幽閉されると、令萱は祖珽の協力をえて太后の地位を望んだが、反対する者があってこれは得られなかった。
[[571年]]に和士開が死去すると、令萱は[[祖珽]]と協力して[[趙彦深]]を西兗州刺史に左遷させた。これ以来、令萱は子の[[穆提婆]]とともに北斉の宮廷内外に権勢を振るい、売官や収賄を横行させた。胡太后が曇献との醜聞が発覚して幽閉されると、令萱は祖珽の協力をえて太后の地位を望んだが、反対する者があってこれは得られなかった。


[[576年]]、[[平陽の戦い (576年)|平陽の戦い]]に北斉が敗れ、後主が[[鄴]]に帰還すると、穆提婆が[[北周]]に降った。このため令萱は迫られて自殺し、子孫は処刑され、家の財産は没収された。
[[576年]]、[[平陽の戦い (576年)|平陽の戦い]]に北斉が敗れ、後主が[[鄴]]に帰還すると、穆提婆が[[北周]]に降った。このため令萱は迫られて自殺し、子孫は処刑され、家の財産は没収された。

2020年8月17日 (月) 14:12時点における版

陸 令萱(りく れいけん、? - 576年)は、北斉女官で、後主の乳母。陸媼(りくおう)とも称された。

経歴

漢陽郡の人の駱超の妻であったが、駱超の反乱計画が発覚して処刑されると、令萱は北斉の後宮に入れられた。後主を乳母として養育し、乾阿妳と称され、後主の母の胡太后と昵懇になった。令萱は多弁で万事にそつがなく、後主が即位すると女侍中となって、後宮の中で権勢を振るった。

569年和士開と協力して趙郡王高叡を殺害し、婁定遠青州刺史に、元文遙西兗州刺史に左遷させた。太姫と称し、長公主の上に位した。また穆邪利に取り入って養女とし、後主の右皇后として立てさせた。

571年に和士開が死去すると、令萱は祖珽と協力して趙彦深を西兗州刺史に左遷させた。これ以来、令萱は子の穆提婆とともに北斉の宮廷内外に権勢を振るい、売官や収賄を横行させた。胡太后が曇献との醜聞が発覚して幽閉されると、令萱は祖珽の協力をえて太后の地位を望んだが、反対する者があってこれは得られなかった。

576年平陽の戦いに北斉が敗れ、後主がに帰還すると、穆提婆が北周に降った。このため令萱は迫られて自殺し、子孫は処刑され、家の財産は没収された。

伝記資料

  • 北斉書』巻50 列伝第42 恩倖
  • 北史』巻92 列伝第80 恩幸

登場作品

テレビドラマ