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[[317年]]([[建武 (東晋)|建武]]元年)、司馬睿が晋王となると、虞潭は屯騎校尉に任じられた。右衛将軍の号を受け、宗正卿に転じたが、病を理由に帰郷した。[[324年]]([[太寧 (東晋)|太寧]]2年)、[[王含]]・[[沈充]]らが[[建康 (都城)|建康]]に迫ると、虞潭は一族や郡中の豪族たちを召集して、1万あまりの義軍を編成して起兵し、仮の明威将軍を自号した。反乱を討つべく進軍し、上虞に入った。[[明帝 (東晋)|明帝]]により冠軍将軍に任じられ、会稽国[[内史]]を兼ねた。長史の[[孔坦]]を先鋒として浙江を渡らせ、沈充に追いつかせた。虞潭自身は西陵に入り、孔坦の後詰めをつとめた。沈充を捕らえると、撤兵し、建康に召還されて尚書に任じられた。ほどなく右衛将軍となり、[[散騎常侍]]の位を加えられた。 |
[[317年]]([[建武 (東晋)|建武]]元年)、司馬睿が晋王となると、虞潭は屯騎校尉に任じられた。右衛将軍の号を受け、宗正卿に転じたが、病を理由に帰郷した。[[324年]]([[太寧 (東晋)|太寧]]2年)、[[王含]]・[[沈充]]らが[[建康 (都城)|建康]]に迫ると、虞潭は一族や郡中の豪族たちを召集して、1万あまりの義軍を編成して起兵し、仮の明威将軍を自号した。反乱を討つべく進軍し、上虞に入った。[[明帝 (東晋)|明帝]]により冠軍将軍に任じられ、会稽国[[内史]]を兼ねた。長史の[[孔坦]]を先鋒として浙江を渡らせ、沈充に追いつかせた。虞潭自身は西陵に入り、孔坦の後詰めをつとめた。沈充を捕らえると、撤兵し、建康に召還されて尚書に任じられた。ほどなく右衛将軍となり、[[散騎常侍]]の位を加えられた。 |
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[[325年]](太寧3年)、[[成帝 (東晋)|成帝]]が即位すると、虞潭は[[呉興郡]]太守として出向し、輔国将軍の号を加えられた。沈充を討った功績により、爵位を零県侯に進めた。[[327年]]([[咸和 (東晋)|咸和]]2年)に[[蘇峻]]が[[蘇峻の乱]]を起こすと、虞潭は都督三呉晋陵宣城義興五郡諸軍事の任を加えられた。[[328年]](咸和3年)、建康が反乱軍に落とされ、成帝が石頭城に移されると、虞潭は弱体のため単独で挙兵できず、呉興郡を固く守って情勢の変化を待った。[[陶侃]]らが東下してくると、虞潭は[[ |
[[325年]](太寧3年)、[[成帝 (東晋)|成帝]]が即位すると、虞潭は[[呉興郡]]太守として出向し、輔国将軍の号を加えられた。沈充を討った功績により、爵位を零県侯に進めた。[[327年]]([[咸和 (東晋)|咸和]]2年)に[[蘇峻]]が[[蘇峻の乱]]を起こすと、虞潭は都督三呉晋陵宣城義興五郡諸軍事の任を加えられた。[[328年]](咸和3年)、建康が反乱軍に落とされ、成帝が石頭城に移されると、虞潭は弱体のため単独で挙兵できず、呉興郡を固く守って情勢の変化を待った。[[陶侃]]らが東下してくると、虞潭は[[郗鑒]]・[[王舒]]らとともに挙兵した。仮節・監揚州之江西諸軍事となり、諸軍と足並みを揃えて、反乱軍を東西から挟み撃ちにした。督護の[[沈伊]]を呉県に派遣して反乱軍の[[管商]]と対峙させたが、沈伊が管商に敗れると、虞潭は自ら節を返上した。 |
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[[329年]](咸和4年)に蘇峻の乱が平定されると、虞潭は老齢の母の介護を理由に、官を辞して余姚県に帰った。成帝により鎮軍将軍・[[呉郡|呉国]][[内史]]に任じられ、また会稽国内史に転じた。出発しないうちにまた呉国に戻された。前後の功績により、爵位を武昌県侯に進められた。戦乱の後で民衆は飢饉に苦しんでおり、虞潭は官倉を開いて米を振る舞うよう上表して、飢民を救恤した。また滬瀆塁を修復して、海賊を防いだ。 |
[[329年]](咸和4年)に蘇峻の乱が平定されると、虞潭は老齢の母の介護を理由に、官を辞して余姚県に帰った。成帝により鎮軍将軍・[[呉郡|呉国]][[内史]]に任じられ、また会稽国内史に転じた。出発しないうちにまた呉国に戻された。前後の功績により、爵位を武昌県侯に進められた。戦乱の後で民衆は飢饉に苦しんでおり、虞潭は官倉を開いて米を振る舞うよう上表して、飢民を救恤した。また滬瀆塁を修復して、海賊を防いだ。 |
2020年8月17日 (月) 05:22時点における版
虞 潭(ぐ たん、263年? - 341年?[1])は、中国の晋代の官僚・軍人。字は思奥。本貫は会稽郡余姚県。祖父は虞翻。父は虞忠。子は虞仡。孫は虞嘯父。
経歴
呉の宜都郡太守の虞忠の子として生まれた。揚州に召されて従事や主簿をつとめ、秀才に挙げられた。大司馬の斉王司馬冏に召されて祭酒となった。祁郷県令に任じられ、醴陵県令に転じた。303年(太安2年)、張昌が反乱を起こし、郡県の多くが張昌に屈服したが、虞潭はひとり起兵して張昌の部将の鄧穆らを斬った。建平郡太守を兼任するよう華恢に推挙されたが、病を理由に固辞した。各地を転戦して、軍功により都亭侯の爵位を受けた。305年(永興2年)、陳敏が反乱を起こすと、虞潭は東下して陳敏の弟の陳讃を江州に攻撃した。廬陵郡太守を兼任するよう広州刺史の王矩に推挙された。諸軍とともに陳恢を平定すると、南康郡太守に転じ、東郷侯の爵位に進んだ。311年(永嘉5年)、虞潭は琅邪王司馬睿の檄に応じて、江州刺史の華軼を討つべく廬陵に進軍した。華軼はすでに平定されていたが、湘川の杜弢の反乱軍がなお強盛をほこっていた。虞潭は安成郡太守を兼任するよう、江州刺史の衛展に推挙された。甘卓が宜陽に駐屯していたが、杜弢の反乱軍に迫られていたため、虞潭は軍を進めて甘卓を救援した。長沙郡太守を兼任するよう甘卓に推挙されたが、固辞して就任しなかった。湘東郡太守を兼任するよう王敦に推挙されたが、また病を理由に断った。杜弢の乱の平定後、琅邪王司馬睿に召し出されて丞相軍諮祭酒となり、琅邪国中尉に転じた。
317年(建武元年)、司馬睿が晋王となると、虞潭は屯騎校尉に任じられた。右衛将軍の号を受け、宗正卿に転じたが、病を理由に帰郷した。324年(太寧2年)、王含・沈充らが建康に迫ると、虞潭は一族や郡中の豪族たちを召集して、1万あまりの義軍を編成して起兵し、仮の明威将軍を自号した。反乱を討つべく進軍し、上虞に入った。明帝により冠軍将軍に任じられ、会稽国内史を兼ねた。長史の孔坦を先鋒として浙江を渡らせ、沈充に追いつかせた。虞潭自身は西陵に入り、孔坦の後詰めをつとめた。沈充を捕らえると、撤兵し、建康に召還されて尚書に任じられた。ほどなく右衛将軍となり、散騎常侍の位を加えられた。
325年(太寧3年)、成帝が即位すると、虞潭は呉興郡太守として出向し、輔国将軍の号を加えられた。沈充を討った功績により、爵位を零県侯に進めた。327年(咸和2年)に蘇峻が蘇峻の乱を起こすと、虞潭は都督三呉晋陵宣城義興五郡諸軍事の任を加えられた。328年(咸和3年)、建康が反乱軍に落とされ、成帝が石頭城に移されると、虞潭は弱体のため単独で挙兵できず、呉興郡を固く守って情勢の変化を待った。陶侃らが東下してくると、虞潭は郗鑒・王舒らとともに挙兵した。仮節・監揚州之江西諸軍事となり、諸軍と足並みを揃えて、反乱軍を東西から挟み撃ちにした。督護の沈伊を呉県に派遣して反乱軍の管商と対峙させたが、沈伊が管商に敗れると、虞潭は自ら節を返上した。
329年(咸和4年)に蘇峻の乱が平定されると、虞潭は老齢の母の介護を理由に、官を辞して余姚県に帰った。成帝により鎮軍将軍・呉国内史に任じられ、また会稽国内史に転じた。出発しないうちにまた呉国に戻された。前後の功績により、爵位を武昌県侯に進められた。戦乱の後で民衆は飢饉に苦しんでおり、虞潭は官倉を開いて米を振る舞うよう上表して、飢民を救恤した。また滬瀆塁を修復して、海賊を防いだ。
336年(咸康2年)、衛将軍に進んだ。母が死去したため辞職して喪に服した。喪が明けると、侍中・衛将軍として召還された。建康に到着すると、侍中のまま右光禄大夫・開府儀同三司の位を加えられた。在官のまま死去した。享年は79。開府・侍中のまま左光禄大夫の位を追贈された。諡は孝烈といった。
子の虞仡が後を嗣ぎ、右将軍司馬に上った。
家系図
虞光 | 虞成 | 虞鳳 | 虞歆 | 虞翻 | 虞汜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
虞忠 | 虞𩦎[ft 1] | 虞谷 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
虞潭[ft 2] | 虞仡 | 虞嘯父 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
虞聳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
虞昺 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
虞察[ft 3] | 虞喜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
虞預[ft 4] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伝記資料
- 『晋書』巻76 列伝第46
脚注
- ^ 『余姚虞氏譜』