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琅邪王[[元帝 (東晋)|司馬睿]]が[[江南]]に駐屯すると、陸曄は召し出されて祭酒となった。ほどなく振威将軍・[[義興郡]][[太守]]に任じられたが、病のため受けなかった。[[311年]]([[永嘉 (晋)|永嘉]]5年)に[[江州]][[刺史]]の[[華軼]]を討った功績により、平望亭侯に封じられた。[[散騎常侍]]・呉郡大中正をつとめた。[[318年]]([[大興 (東晋)|大興]]元年)、太子詹事に転じた。ときに元帝(司馬睿)は[[侍中]]に[[華北]]の人士を任用してばかりいたが、江南の人物を登用しようと、清廉守操の評判高い陸曄を侍中に任命した。尚書に転じ、[[揚州 (古代)|揚州]]大中正をつとめた。 |
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[[322年]]([[永昌 (東晋)|永昌]]元年)、[[明帝 (東晋)|明帝]]が即位すると、陸曄は光禄勲となり、太常に転じた。[[324年]](太寧2年)に[[紀瞻]]が死去すると、陸曄は代わって尚書左僕射となり、太子少傅を兼ねた。[[325年]](太寧3年)、金紫光禄大夫の位を加えられ、[[卞壼]]に代わって領軍将軍となった。銭鳳を平定した功績により、爵位を江陵伯に進めた。明帝が病床につくと、陸曄は[[王導]]・卞壼・[[庾亮]]・[[温キョウ|温嶠]]・[[ |
[[322年]]([[永昌 (東晋)|永昌]]元年)、[[明帝 (東晋)|明帝]]が即位すると、陸曄は光禄勲となり、太常に転じた。[[324年]](太寧2年)に[[紀瞻]]が死去すると、陸曄は代わって尚書左僕射となり、太子少傅を兼ねた。[[325年]](太寧3年)、金紫光禄大夫の位を加えられ、[[卞壼]]に代わって領軍将軍となった。銭鳳を平定した功績により、爵位を江陵伯に進めた。明帝が病床につくと、陸曄は[[王導]]・卞壼・[[庾亮]]・[[温キョウ|温嶠]]・[[郗鑒]]らとともに遺命を受け、[[皇太子]][[成帝 (東晋)|司馬衍]]を補佐し、殿中に入り兵を率いて宿直した。[[録尚書事]]となり、散騎常侍の位を加えられた。 |
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成帝(司馬衍)が即位すると、陸曄は散騎常侍のまま左光禄大夫・[[開府儀同三司]]の位を受けた。[[327年]]([[咸和 (東晋)|咸和]]2年)に[[蘇峻の乱]]が起こると、翌年に陸曄は成帝に従って石頭に移った。陸曄には江南の士人の間の名望があったため、[[蘇峻]]もあえて陸曄を害そうとはしなかった。[[329年]](咸和4年)、匡術が苑城で降伏すると、陸曄は匡術とともに督宮城軍事となった。蘇峻の乱が平定されると、陸曄は[[衛将軍]]の号を加えられた。爵位は公に進んだ。[[334年]](咸和9年)9月、病のため死去した。享年は74。侍中・車騎大将軍の位を追贈された。[[諡]]は穆といった。 |
成帝(司馬衍)が即位すると、陸曄は散騎常侍のまま左光禄大夫・[[開府儀同三司]]の位を受けた。[[327年]]([[咸和 (東晋)|咸和]]2年)に[[蘇峻の乱]]が起こると、翌年に陸曄は成帝に従って石頭に移った。陸曄には江南の士人の間の名望があったため、[[蘇峻]]もあえて陸曄を害そうとはしなかった。[[329年]](咸和4年)、匡術が苑城で降伏すると、陸曄は匡術とともに督宮城軍事となった。蘇峻の乱が平定されると、陸曄は[[衛将軍]]の号を加えられた。爵位は公に進んだ。[[334年]](咸和9年)9月、病のため死去した。享年は74。侍中・車騎大将軍の位を追贈された。[[諡]]は穆といった。 |
2020年8月17日 (月) 05:22時点における版
陸 曄(りく よう、永安4年(261年) - 咸和9年9月8日(334年10月21日))は、中国の東晋の官僚・軍人。字は士光。本貫は呉郡呉県。祖父は陸瑁(陸遜の実弟)。父は陸英。伯父は陸喜。弟は陸玩。
経歴
高平国相の陸英の子として生まれた。若くして名望があり、従兄の陸機は「我が家は代々公に事欠くことがない」と評していた。後に孝廉に挙げられ、永世県令や烏江県令とされたが、いずれも就任しなかった。
琅邪王司馬睿が江南に駐屯すると、陸曄は召し出されて祭酒となった。ほどなく振威将軍・義興郡太守に任じられたが、病のため受けなかった。311年(永嘉5年)に江州刺史の華軼を討った功績により、平望亭侯に封じられた。散騎常侍・呉郡大中正をつとめた。318年(大興元年)、太子詹事に転じた。ときに元帝(司馬睿)は侍中に華北の人士を任用してばかりいたが、江南の人物を登用しようと、清廉守操の評判高い陸曄を侍中に任命した。尚書に転じ、揚州大中正をつとめた。
322年(永昌元年)、明帝が即位すると、陸曄は光禄勲となり、太常に転じた。324年(太寧2年)に紀瞻が死去すると、陸曄は代わって尚書左僕射となり、太子少傅を兼ねた。325年(太寧3年)、金紫光禄大夫の位を加えられ、卞壼に代わって領軍将軍となった。銭鳳を平定した功績により、爵位を江陵伯に進めた。明帝が病床につくと、陸曄は王導・卞壼・庾亮・温嶠・郗鑒らとともに遺命を受け、皇太子司馬衍を補佐し、殿中に入り兵を率いて宿直した。録尚書事となり、散騎常侍の位を加えられた。
成帝(司馬衍)が即位すると、陸曄は散騎常侍のまま左光禄大夫・開府儀同三司の位を受けた。327年(咸和2年)に蘇峻の乱が起こると、翌年に陸曄は成帝に従って石頭に移った。陸曄には江南の士人の間の名望があったため、蘇峻もあえて陸曄を害そうとはしなかった。329年(咸和4年)、匡術が苑城で降伏すると、陸曄は匡術とともに督宮城軍事となった。蘇峻の乱が平定されると、陸曄は衛将軍の号を加えられた。爵位は公に進んだ。334年(咸和9年)9月、病のため死去した。享年は74。侍中・車騎大将軍の位を追贈された。諡は穆といった。
子女
- 陸諶(散騎常侍)
- 陸嘏(新康子)
家系図
陸続 | 陸褒 | 陸紆 | 陸駿 | 陸遜 | 陸延 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸抗 | 陸晏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸景 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸玄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸機 | 陸蔚 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸雲 | 陸夏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸耽 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸瑁 | 陸喜 | 陸育 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸英 | 陸曄 | 陸諶 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸嘏 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸玩 | 陸始 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸納 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸康[ft 1] | 陸儁 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸績[ft 2] | 陸宏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸叡 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸凱[ft 3] | 陸禕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸胤 | 陸式 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伝記資料
- 『晋書』巻77 列伝第47