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[[342年]](咸康8年)7月26日(6月癸巳)、西堂で死去した。享年は22歳。かれの息子たちは幼かったため、弟の[[康帝 (東晋)|司馬岳]]が即位した。 |
[[342年]](咸康8年)7月26日(6月癸巳)、西堂で死去した。享年は22歳。かれの息子たちは幼かったため、弟の[[康帝 (東晋)|司馬岳]]が即位した。 |
2020年8月17日 (月) 05:20時点における版
成帝 司馬衍 | |
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東晋 | |
第3代皇帝 | |
王朝 | 東晋 |
在位期間 | 325年10月19日 - 342年7月26日 |
都城 | 建康 |
姓・諱 | 司馬衍 |
字 | 世根 |
諡号 | 成皇帝 |
廟号 | 顕宗 |
生年 | 大興4年(321年) |
没年 |
咸康8年6月8日 (342年7月26日) |
父 | 明帝 |
母 | 庾皇后 |
后妃 | 杜皇后 |
陵墓 | 興平陵 |
年号 |
咸和 : 326年 - 334年 咸康 : 335年 - 342年 |
生涯
321年(大興4年)、皇太子司馬紹(のちの明帝)と庾文君のあいだの長男として生まれた。325年(太寧3年)4月1日(3月戊辰)、皇太子に立てられた。同年10月18日(閏8月戊子)に明帝が死去すると、翌日(己丑)に皇帝として即位した。生母の庾文君が臨朝称制し、司徒の王導と中書令の庾亮が輔政した。
327年(咸和2年)に蘇峻の乱が起き、翌年に首都建康が陥落すると成帝らは一時捕らえられて身柄を石頭城に移されたが、329年(咸和4年)に郗鑒・陶侃らに乱が鎮圧されて再び建康に戻った。北方に対しても何度も出兵したが、後趙の石虎の軍に阻まれて勢力の拡大は果たせなかった。また、豪族らの山川の私有化に対抗するため、336年(咸康2年)にこれを禁じた。341年(咸康7年)には土断により、東晋建国時に北から移ってきた貴族たちを戸籍に編入した。
342年(咸康8年)7月26日(6月癸巳)、西堂で死去した。享年は22歳。かれの息子たちは幼かったため、弟の司馬岳が即位した。
宗室
后妃
- 杜皇后
- 周貴人