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北洋武備学堂卒業後、[[新軍|新建陸軍]]に加入し、清末には第4鎮第8協第15標標統まで昇進した。[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)5月、第4鎮第8協協統に昇進する。翌年、第4師第7旅旅長となった。[[1915年]](民国4年)、[[袁世凱]]が皇帝に即位した際には、三等男爵に封じられた。袁世凱死後は、[[安徽派]]の[[盧永祥]]に属する。[[1917年]](民国6年)1月、[[浙江省]]寧台鎮守使となる。[[1920年]](民国9年)、淞滬護軍使兼第6混成旅旅長に就任する。[[1924年]](民国13年)、[[江浙戦争]]では浙滬聯軍第1軍司令として戦ったが、盧の敗北と共に下野し、[[大連市|大連]]に逃れた。<ref name=Xu>徐主編(2007)、682頁。</ref><ref name=Lai>来ほか(2000)、1133頁。</ref> |
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その後、何豊林は[[奉天派]]に加わる。[[張作霖]]が大元帥となると、軍事総長に抜擢され、さらに安国軍模範軍団総司令に任じられた。なお[[1927年]](民国16年)4月には、軍事特別法廷裁判長として、[[李大 |
その後、何豊林は[[奉天派]]に加わる。[[張作霖]]が大元帥となると、軍事総長に抜擢され、さらに安国軍模範軍団総司令に任じられた。なお[[1927年]](民国16年)4月には、軍事特別法廷裁判長として、[[李大釗]]に[[絞首刑]]を宣告している。北京政府が崩壊した後には、何も辞任して東北に逃れた。[[1931年]](民国20年)、東北辺防軍司令長官公署首席参議に任じられている。<ref name=Xu/><ref name=Lai/>[[1935年]](民国24年)、死去。享年63。翌年、陸軍中将銜を追贈された。<ref>山東省情網による。なお、徐主編(2007)、682頁と来ほか(2000)、1133頁によると、何豊林は[[1938年]](民国27年)に[[華北政務委員会]]武官長の地位に就いたとされる。しかし、この当時に華北政務委員会は存在していないため([[汪兆銘政権]]の機関であり、[[1940年]]3月に成立)、この記述は何らかの誤りと考えられる。</ref> |
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== 注 == |
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2020年8月16日 (日) 22:45時点における版
何豊林 | |
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Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: | 1873年(清同治12年) |
死去: |
1935年(民国24年) 中華民国 |
出身地: | 清山東省済南府平陰県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 何豐林 |
簡体字: | 何丰林 |
拼音: | Hé Fènglín |
ラテン字: | Ho Feng-lin |
和名表記: | か ほうりん |
発音転記: | ホー フォンリン |
何 豊林(か ほうりん)は、清末、中華民国の軍人。北京政府、安徽派、奉天派に属した。字は茂如。
事跡
北洋武備学堂卒業後、新建陸軍に加入し、清末には第4鎮第8協第15標標統まで昇進した。1912年(民国元年)5月、第4鎮第8協協統に昇進する。翌年、第4師第7旅旅長となった。1915年(民国4年)、袁世凱が皇帝に即位した際には、三等男爵に封じられた。袁世凱死後は、安徽派の盧永祥に属する。1917年(民国6年)1月、浙江省寧台鎮守使となる。1920年(民国9年)、淞滬護軍使兼第6混成旅旅長に就任する。1924年(民国13年)、江浙戦争では浙滬聯軍第1軍司令として戦ったが、盧の敗北と共に下野し、大連に逃れた。[1][2]
その後、何豊林は奉天派に加わる。張作霖が大元帥となると、軍事総長に抜擢され、さらに安国軍模範軍団総司令に任じられた。なお1927年(民国16年)4月には、軍事特別法廷裁判長として、李大釗に絞首刑を宣告している。北京政府が崩壊した後には、何も辞任して東北に逃れた。1931年(民国20年)、東北辺防軍司令長官公署首席参議に任じられている。[1][2]1935年(民国24年)、死去。享年63。翌年、陸軍中将銜を追贈された。[3]
注
参考文献
- 「平陰鎮」-「人物簡介」山東省情網(山東省地方史志弁公室ホームページ)
- 来新夏ほか『北洋軍閥史』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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