何豊林
何豊林 | |
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Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: | 1873年(清同治12年) |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清山東省済南府平陰県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 何豐林 |
簡体字: | 何丰林 |
拼音: | Hé Fènglín |
ラテン字: | Ho Feng-lin |
和名表記: | か ほうりん |
発音転記: | ホー フォンリン |
何 豊林(か ほうりん)は、清末、中華民国の軍人。字は茂如。北京政府では安徽派・奉天派に属した。中華民国臨時政府にも参与している。
事績
[編集]北洋武備学堂卒業後、新建陸軍に加入し、清末には第4鎮第8協第15標標統まで昇進した。1912年(民国元年)5月、第4鎮第8協協統に昇進する[1][2]。翌1913年(民国2年)9月14日、陸軍中将銜を授与された。同年11月29日に第4師第7旅旅長に任命され、翌月19日には同師第8旅旅長に移る。袁世凱が皇帝に即位した際には、1915年(民国4年)12月23日に三等男として特封され、翌1916年(民国5年)4月24日、陸軍中将位を授与された[3]。
袁世凱死後、何豊林は安徽派の盧永祥配下となる[1][2]。1917年(民国6年)12月30日 、浙江省甯台鎮守使に任命された。1920年(民国9年)6月23日、陸軍第6混成旅旅長に任命され、7月2日に松滬鎮守使を兼任した(12月3日、松滬護軍使となる)。1922年(民国11年)1月25日、陸軍上将銜を授与されている[3]。1924年(民国13年)、江浙戦争では浙滬聯軍第1軍司令として戦ったが、盧の敗北と共に下野し、大連に逃れた[1][2]。
その後、何豊林は奉天派に加わる。張作霖が大元帥となると、1927年(民国16年)6月20日に何は軍事総長に特任され[3]、さらに安国軍模範軍団総司令に任じられた。なお1927年(民国16年)4月には、軍事特別法廷裁判長として李大釗に絞首刑を宣告している。北京政府が崩壊した後には、何も辞任して東北に逃れた。
1931年(民国20年)、張学良の下で東北辺防軍司令長官公署首席参議に任じられている[1][2]。1936年(民国25年)12月12日、国民政府から陸軍中将に任命された[3]。
北京で中華民国臨時政府が成立すると、何豊林もこれに参与し、陸軍上将の位を授与された。1938年(民国27年)1月8日、臨時政府侍衛長に特派された[4][5]。
以後、何豊林の行方は不詳である。
注
[編集]- ^ a b c d 徐主編(2007)、682頁。
- ^ a b c d 来ほか(2000)、1133頁。
- ^ a b c d 中華民国政府官職資料庫「姓名:何豐林」
- ^ 臨時政府令、民国27年1月8日(『政府公報』第1号、臨時政府行政委員会公報処、民国27年1月17日、19頁)。
- ^ 山東省情網によると「1935年(民国24年)、死去。翌年、陸軍中将銜を追贈された。」とあるが、誤り。徐主編(2007)、682頁と来ほか(2000)、1133頁によると、何豊林は1938年(民国27年)に華北政務委員会武官長の地位に就いたとされる。しかし、この当時に華北政務委員会は存在していないため(汪兆銘政権の機関であり、1940年3月に成立)、この記述も誤りである。
参考文献
[編集]- 「平陰鎮」-「人物簡介」山東省情網(山東省地方史志弁公室ホームページ)
- 来新夏ほか『北洋軍閥史』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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