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「沙宅孫登」の版間の差分

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とあるのが初見である<ref>『日本書紀』巻第二十六、斉明天皇6年10月日条</ref>。
とあるのが初見である<ref>『日本書紀』巻第二十六、斉明天皇6年10月日条</ref>。


百済滅亡後は[[唐]]の百済占領政策に協力したらしく、[[671年]]([[天智天皇]]10年11月)に、[[郭務ソウ|郭務悰]]らとともに来[[倭国|倭]]している<ref>『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年11月10日条</ref>。
百済滅亡後は[[唐]]の百済占領政策に協力したらしく、[[671年]]([[天智天皇]]10年11月)に、[[郭務悰]]らとともに来[[倭国|倭]]している<ref>『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年11月10日条</ref>。


この時の構成員は、郭務悰ら600人のほかに、孫登ら1,400人からなり、後者は前年からの唐・新羅間の抗争の避難民であるとも推定されてきたが、その中には、[[道久]]・[[筑紫薩夜麻]]・[[韓嶋裟婆]]・[[布師磐]](あるいは[[土師富杼]]・[[氷老]]・[[弓削元宝]]の子)らといった、[[白村江の戦い]]など百済復興戦争で捕虜となった倭人も含まれていたとされ、捕虜返還と交換に唐への軍事的協力を得ることが主目的であった可能性もある。
この時の構成員は、郭務悰ら600人のほかに、孫登ら1,400人からなり、後者は前年からの唐・新羅間の抗争の避難民であるとも推定されてきたが、その中には、[[道久]]・[[筑紫薩夜麻]]・[[韓嶋裟婆]]・[[布師磐]](あるいは[[土師富杼]]・[[氷老]]・[[弓削元宝]]の子)らといった、[[白村江の戦い]]など百済復興戦争で捕虜となった倭人も含まれていたとされ、捕虜返還と交換に唐への軍事的協力を得ることが主目的であった可能性もある。

2020年8月16日 (日) 06:48時点における版

沙宅 孫登(さたく そんとう、生没年不詳)は、百済官吏。官位は達率。

記録

沙宅孫登の名が史料に現れるのは、『日本書紀』の斉明天皇6年10月の脚注に

百済の王(こきし)義慈(ぎじ)、其の妻(め)恩古(おんこ)、其の子隆(りう)等、其の臣(まへつぎみ)佐平千福(せんふく)・国弁成(こくべんじゃう)、孫登等、凡(すべ)て五十余(いそたりあまり)、秋七月十三日(ふみづきのとをかあまりみかのひ)蘇将軍(そしゃうぐん)の為に捉(かす)ゐられて、唐国(もろこしのくに)に送去(おく)らる

とあるのが初見である[1]

百済滅亡後はの百済占領政策に協力したらしく、671年天智天皇10年11月)に、郭務悰らとともに来している[2]

この時の構成員は、郭務悰ら600人のほかに、孫登ら1,400人からなり、後者は前年からの唐・新羅間の抗争の避難民であるとも推定されてきたが、その中には、道久筑紫薩夜麻韓嶋裟婆布師磐(あるいは土師富杼氷老弓削元宝の子)らといった、白村江の戦いなど百済復興戦争で捕虜となった倭人も含まれていたとされ、捕虜返還と交換に唐への軍事的協力を得ることが主目的であった可能性もある。

当時の近江朝廷は、同年12月の天智天皇の崩御などの混乱があり、十分な対応ができなかったものと見られる。翌672年天武天皇元年3月)に、阿曇稲敷筑紫国に派遣し、天智天皇の喪を公表している[3]

筑紫薩夜麻らが無事倭国に帰還できたことは、後の持統天皇大伴部博麻に告げた言葉で分かるが[4]、沙宅孫登らのその後の動向については不明である。

脚注

  1. ^ 『日本書紀』巻第二十六、斉明天皇6年10月日条
  2. ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年11月10日条
  3. ^ 『日本書紀』巻第二十八、天武天皇上 元年3月18日条
  4. ^ 『日本書紀』巻第三十、持統天皇4年10月22日条

参考文献

  • 『日本書紀』(四)・(五)岩波文庫、1995年
  • 『日本書紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫宇治谷孟:訳、1988年
  • 『古代日本と朝鮮・中国』、直木孝次郎:著、講談社学術文庫、1988年
  • 『白村江―古代東アジア大戦の謎』遠山美都男講談社現代新書、1997年
  • 『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』倉本一宏、講談社現代新書、2017年

関連項目