「献帝 (漢)」の版間の差分
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その後、朝廷の実権は、混乱に乗じて都へ入った[[董卓]]<ref>雒陽の北の郊外で、朝廷の百官と共に少帝を出迎えたのが、[[并州]]牧の董卓だった。少帝が董卓の兵に怯えて啜り泣いたのに対し、陳留王は冷静さを保ち、董卓に事件の経緯を尋ねられると理路整然に答えたという。この時、少帝の年齢は17歳、陳留王が9歳だった。野心を抱いていた董卓は、陳留王が賢明であり、また、その祖母の董太后が自分と同族である事から、皇帝に立てようと考えたという。</ref>によって握られた。9月、少帝が廃位され[[弘農]]王になると、代わって陳留王が皇帝に擁立された<ref>間もなく弘農王は董卓に殺された。『後漢紀』によると、兄の死を聞いた献帝は玉座から降りて、辺りを憚らず嘆き悲しんだという。</ref>。 |
その後、朝廷の実権は、混乱に乗じて都へ入った[[董卓]]<ref>雒陽の北の郊外で、朝廷の百官と共に少帝を出迎えたのが、[[并州]]牧の董卓だった。少帝が董卓の兵に怯えて啜り泣いたのに対し、陳留王は冷静さを保ち、董卓に事件の経緯を尋ねられると理路整然に答えたという。この時、少帝の年齢は17歳、陳留王が9歳だった。野心を抱いていた董卓は、陳留王が賢明であり、また、その祖母の董太后が自分と同族である事から、皇帝に立てようと考えたという。</ref>によって握られた。9月、少帝が廃位され[[弘農]]王になると、代わって陳留王が皇帝に擁立された<ref>間もなく弘農王は董卓に殺された。『後漢紀』によると、兄の死を聞いた献帝は玉座から降りて、辺りを憚らず嘆き悲しんだという。</ref>。 |
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[[興平 (漢)|興平]]元年([[194年]])春正月、献帝は元服した。2月、亡き生母に霊懐皇后の称号を贈り、文昭陵に改葬した。翌年2月、李傕と郭汜の内紛が起こり、献帝はその権力闘争に巻き込まれた<ref>3月、献帝は李傕の軍営に連れ去られ、宮殿が焼き払われた。郭汜が李傕を攻めた際は、夥しい数の矢が射込まれ、献帝の傍近くにまで届いたという。</ref>。 |
2020年8月16日 (日) 06:42時点における版
献帝 劉協 | |
---|---|
後漢 | |
第14代皇帝 | |
王朝 | 後漢 |
在位期間 | 189年9月27日 - 220年11月25日 |
都城 | 雒陽(洛陽)→長安→許都 |
姓・諱 | 劉協 |
字 | 伯和 |
諡号 |
孝献皇帝[1](魏による) 孝愍皇帝[2](蜀漢による) |
生年 |
光和4年2月23日 (181年4月2日)[3] |
没年 |
青龍2年3月6日 (234年4月21日) |
父 | 霊帝 |
母 | 王美人 |
后妃 |
伏皇后 曹皇后 |
年号 |
永漢(189年) 中平(189年) 初平(190年 - 193年) 興平(193年 - 196年) 建安(196年 - 220年) 延康(220年) |
献帝(けんてい、獻帝)は、後漢の第14代(最後)の皇帝。諱は協。霊帝(劉宏)の次子で、少帝弁(劉弁)の異母弟。母親は美人の王栄。諡号は、魏からは孝献皇帝、蜀漢からは孝愍皇帝。
生涯
生母の王栄は霊帝の寵愛を受けて、劉協を産むと、何皇后の嫉妬を受けて毒殺されたという[4]。母を失った劉協は、嗇夫の朱直によって暴室で養育された。一年後、霊帝の生母の董太后は劉協を引き取って養育したため、董侯と呼ばれた[5]。
中平5年(189年)4月、霊帝が崩御すると劉弁が即位し[6]、劉協は勃海王に封じられた[7]。
同年秋7月、陳留王に移封される。当時、朝廷では外戚であった何進の派閥と十常侍ら宦官の勢力が対立していたが、8月に何進が嘉徳殿[8]の前で十常侍に暗殺されると、袁紹らが挙兵して押し寄せ、混乱に陥った。数日で宦官勢力は敗れた。しかし、その際に陳留王は少帝とともに張譲・段珪によって、雒陽(洛陽)から連れ去られた[9]。間もなく盧植らに保護され、帰還する事ができた[10]。
その後、朝廷の実権は、混乱に乗じて都へ入った董卓[11]によって握られた。9月、少帝が廃位され弘農王になると、代わって陳留王が皇帝に擁立された[12]。
初平元年(190年)春正月、董卓の専横に反発した袁紹ら各地の刺史や太守が兵を起こすと、朝廷は翌月に遷都を決め、献帝を長安へ移した[13]。同3年(192年)夏4月、献帝の病気回復を祝い、未央殿で大規模な集会が行われた。そこで董卓は腹心の呂布に暗殺された。その後、王允が朝廷の政治を取り仕切った。ところが、一月余りで長安は董卓残党の攻撃を受けて陥落し[14]、政治の実権が李傕や郭汜らに奪われたため、元の木阿弥となった。この頃、反董卓の兵を挙げた諸侯らが各地に戻って割拠したため、後漢王朝は内乱状態に陥った。
興平元年(194年)春正月、献帝は元服した。2月、亡き生母に霊懐皇后の称号を贈り、文昭陵に改葬した。翌年2月、李傕と郭汜の内紛が起こり、献帝はその権力闘争に巻き込まれた[15]。
建安元年(196年)秋7月、楊奉・楊彪・韓暹・張楊・董承らに擁され洛陽へ帰還した[16]。8月、曹操の庇護を受けて許に遷都した。これ以降、曹操は漢室の庇護者として諸侯に号令をかけるようになった。また、曹操は対外的には漢室の庇護者として振舞う一方で、献帝の周辺から馴染みの者を排除し、自らの息のかかった者を配すようにもなった。このような状況に憂慮した献帝は、曹操が謁見した時に「朕を大事に思うならよく補佐してほしい。そうでないなら情けを掛けて退位させよ」と、忠誠か譲位のどちらかにするようちらつかせた。このとき曹操は恐懼のあまり冷や汗をかいたため、以降宮中への参内を控えるようになったという[17]。
196年に曹操の庇護を受けてから、ようやく献帝の王権は安定をみたが、同時に王朝での実権を曹操に掌握された。曹操の身分は丞相・魏公・魏王と地位も上がっていった。これにより後漢は献帝在位中に、事実上の曹操王朝といえる状態に変質してしまった[18]。建安19年(214年)には献帝の皇后伏氏が殺害され、献帝は曹操の娘であった曹節を皇后とする事を余儀なくされた。
建安25年(220年)、曹操が死去し、子の曹丕が魏王を襲位した。曹丕とそれを支持する朝臣の圧力で、同年の内に献帝は皇帝の位を譲る事を余儀なくされ、ここに後漢は滅亡した。この時に用いられた譲位の形式は禅譲と呼ばれ、後世において王朝交代が行われる時の手本となった[19]。
皇后である曹節は、漢室への忠義として皇后の玉璽を手放すことを拒み続けたが「とは言え、私があくまで拒めば、兄は陛下や私に容赦しないでしょう」と嘆息して、使者を激しく詰り「天に祝福されないのか」と嘆き、玉璽を放り投げ涙を流した。その場に居た者は皆顔を上げられなかったといわれる[20]。
劉協は曹丕(魏の文帝)から山陽公に封じられ、皇帝という身分は失っても皇帝だけが使える一人称「朕」を使う事を許されるなど、様々な面で厚遇を受けた。また、劉氏の皇子で王に封じられていた者は、皆降格して列侯となった。
益州に逃れて曹操への抵抗を続けていた劉備は、劉氏の末裔であることから曹操の魏王に対抗するため漢中王を名乗っていたが、献帝が殺されたという誤報が伝えられると、漢室の後継者として皇帝を称した上で(蜀漢)、献帝に対して独自に孝愍皇帝の諡を贈った。また、揚州を中心に勢力を保っていた孫権も呉王となり、大陸が魏・呉・蜀とで三分される三国時代に突入した。
その後、劉協は山陽公夫人となった曹節と共に暮らし、青龍2年(234年)3月、54歳で死去した。魏は孝献皇帝と諡した。
末裔
劉協の太子は父に先立って死んでおり、劉協の孫の劉康が青龍2年(234年)に祖父の跡を継いで山陽公となった。魏より禅譲を受けた西晋の時代になっても山陽公はそのまま存続を許された。劉康は太康6年(285年)に死去し、子の劉瑾が跡を継いだ。劉瑾は太康10年(289年)に死去し、子の劉秋が跡を継いだ。
永嘉の乱の真っ最中の永嘉3年(309年)、劉秋は匈奴系の漢趙国(前趙・劉趙)の将軍である汲桑の軍によって殺害され、爵位は断絶した。後に東晋の時代になって、山陽公の末裔を捜索する詔勅が出されている。
真偽は不明ながら、4世紀から6世紀にかけて日本列島に渡来した渡来人の中には、献帝の子孫を称するものが多く見られる(東漢氏参照)。
年表
- 中平6年(189年)4月、霊帝崩御。蹇碩・董太后・董重が、何進の排除と劉協の擁立を謀るも失敗。同月、劉弁即位。劉協は勃海王となる。7月、劉協、陳留王となる。8月、何進と十常侍の争いによる朝廷の混乱に乗じ、董卓が雒陽(洛陽)に入城。劉弁を廃位し、劉協を皇帝に擁立する。11月、董卓、相国となる。
- 初平元年(190年)正月、袁紹・曹操ら関東の諸侯が董卓に反旗を翻す。2月、董卓、長安への遷都を強行する。
- 初平2年(191年)2月、董卓、太師となる。
- 初平3年(192年)4月、董卓、王允と呂布に暗殺される。王允、録尚書事となる。6月、董卓軍の、李傕・郭汜・樊稠・張済らが長安を攻撃。王允が殺される。9月、李傕は車騎将軍、郭汜は後将軍、樊稠は右将軍、張済は鎮東将軍となる。
- 興平元年(194年)正月、興平に改元。献帝、元服する。
- 興平2年(195年)2月、李傕が樊稠を殺害し、郭汜とも戦う。以後、関中は戦乱となり、献帝は各地を転々とする。4月、貴人の伏氏を皇后とする。
- 建安元年(196年)7月、献帝、洛陽に帰還。8月、曹操を呼び寄せ、領司隷校尉・録尚書事とする。都を洛陽から許に遷す。11月、曹操、司空・行車騎将軍となる。
- 建安2年(197年)3月、曹操の推挙により袁紹が大将軍となる。この年、江淮で飢饉が起き、民は互いに食い合った。
- 建安5年(200年)正月、車騎将軍の董承・偏将軍の王服・越騎校尉の种輯ら、密詔を受け曹操暗殺を計画する。曹操、董承らを殺害する。9月、曹操、袁紹の軍と官渡で戦い、勝利する(官渡の戦い)。
- 建安9年(204年)8月、曹操、冀州を平定し、冀州牧となる。
- 建安12年(207年)8月、曹操、烏桓を柳城に破り、蹋頓を斬る。11月、遼東太守の公孫康が袁尚・袁煕を殺害。曹操河北を平定する。
- 建安13年(208年)6月、三公の制度を廃し、丞相・御史大夫を設置。曹操、丞相に就任。郗慮、御史大夫に就任。7月、曹操、南征して劉表を攻撃。劉表は死去し、子の劉琮が曹操に降伏。10月、曹操、水軍を率いて孫権を攻撃するも、周瑜に烏林・赤壁で敗れ撤退(赤壁の戦い)。
- 建安18年(213年)5月、曹操、魏公となり、九錫を加えられる。
- 建安19年(214年)11月、曹操、伏皇后を殺害。
- 建安20年(215年)正月、貴人の曹節(曹操の娘)、皇后となる。
- 建安21年(216年)4月、曹操、魏王となる。
- 建安23年(218年)正月、少府の耿紀・丞相司直の韋晃らが曹操殺害を実行したが失敗(吉本の乱)。
- 建安25年(220年)正月、曹操死去。子の曹丕が魏王となる。3月、延康に改元。10月、曹丕に皇位を禅譲し、後漢滅亡。劉協は山陽公に封じられる。
- 青龍2年(234年)3月、死去(54歳)。
宗室
后妃
子女
孫
- 劉康
曾孫
- 劉瑾
玄孫
- 劉秋
参考資料
脚注
- ^ 『逸周書・諡法解』では「聡明叡哲曰く献」、『史記正義・諡法解』では「聡明叡哲曰く献、知に通じるの聡有り」「知質有聖曰く献、通じて而も蔽無し」とされている。
- ^ 『逸周書・諡法解』では「國に在りて難に逢うを愍と曰う」「民をして折傷せしむるを愍と曰う」「國に在りて憂に連なるを愍と曰う」「禍亂方に作らんとするを愍と曰う」とされている。
- ^ 『太平御覧』巻137が引く司馬彪『続漢書』記載「光和四年三月癸巳,生于雒陽宮」(両千年中西暦換算より、この日は紀元181年4月2日)より。
- ^ 三国志ハンドブック、1998年7月10日発行、監修者・陳舜臣、編者・竹内良雄、152頁。
- ^ 『後漢紀』によると、既に当時、霊帝には嫡妻の何氏が産んだ長男の劉弁がいたが、暗愚であったため皇太子に立てていなかった。そこで、大臣たちは利発な劉協を皇太子に立てるよう進言した。しかし霊帝は何氏を寵愛し、また外戚である何進にも遠慮していたため、結局、劉協を後継者に指名できなかった
- ^ 霊帝は病が重くなると、上軍校尉の蹇碩に劉協を託した。蹇碩は董太后や董重とともに何進を排除し、劉協の擁立を目指したが失敗した。
- ^ 劉協は、生まれてすぐに霊帝の元から離れて暮らし、その上、まだ幼少であったにも関わらず、父帝の死を悼み悲しんだ。その様子を見た大臣たちは皆心を痛めたという。
- ^ 当時、雒陽城の南宮にあった御殿の一つ。
- ^ 袁術が雒陽城の南宮を攻めると、張譲らは中黄門に命じて宮殿の門を閉ざした。袁術が青琑門(嘉徳殿の門)に火を放つと、張譲らは長楽宮に参内し、何太后・少帝・陳留王を連れて複道を通り、北宮の崇徳殿へ移った。しかし、袁紹の兵が北宮に攻め入って来たため、少帝と陳留王をまた連れ出し、僅かな供回りを伴い雒陽の北門(穀門)から逃げた。一行は夜に黄河の畔の小平津に辿り着いた。しかし、そこで尚書の盧植らが中常侍を討ち、少帝らを保護した。
- ^ 少帝と陳留王は、蛍の微かな光を頼りに夜道を数里歩いた後、ようやく民家で手に入れた露車(幌などの覆いが無い車)へ乗る事ができたという。北邙山の北まで来ると、少帝は馬に乗り換え、陳留王も河南中部掾の閔貢が御す馬に乗って帰還した。
- ^ 雒陽の北の郊外で、朝廷の百官と共に少帝を出迎えたのが、并州牧の董卓だった。少帝が董卓の兵に怯えて啜り泣いたのに対し、陳留王は冷静さを保ち、董卓に事件の経緯を尋ねられると理路整然に答えたという。この時、少帝の年齢は17歳、陳留王が9歳だった。野心を抱いていた董卓は、陳留王が賢明であり、また、その祖母の董太后が自分と同族である事から、皇帝に立てようと考えたという。
- ^ 間もなく弘農王は董卓に殺された。『後漢紀』によると、兄の死を聞いた献帝は玉座から降りて、辺りを憚らず嘆き悲しんだという。
- ^ 遷都が実施されたのは、2月17日の事。献帝が長安へ着いたのは3月5日だった。この時、洛陽の民も董卓によって強制的に移住させられた。
- ^ 戦闘での官吏や民の死者は数万人に昇ったという。また、長安周辺の民は李傕らの略奪と破壊に遭い、数年の間飢餓に苦しんだという。
- ^ 3月、献帝は李傕の軍営に連れ去られ、宮殿が焼き払われた。郭汜が李傕を攻めた際は、夥しい数の矢が射込まれ、献帝の傍近くにまで届いたという。
- ^ 長安から洛陽に帰還する途中、献帝が乗っていた馬車が破損してしまったために代わりに農民の牛車に乗って洛陽に帰還した。これ以降、貴人は牛車に乗って移動するようになったとする伝承がある。また、この慣習が日本にも伝わり、平安貴族が移動手段として牛車に乗ったはその影響を受けているとする説がある(中村潤子「運ぶ手段」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 3 遺跡と技術』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01730-5 P297-298)。
- ^ 『後漢書』献帝伏皇后紀
- ^ 曹操は周の文王にならい皇帝にはならなかった。また皇帝になれば、劉備や孫権も皇帝を名乗るという乱立が起きる恐れがあった。皇帝の乱立は曹操の死後、曹丕が漢王朝を廃し皇帝に即位したことで現実のものとなった。
- ^ 献帝の2人の娘は曹丕の妻となったが、これは堯が舜に娘を嫁がせた故事をなぞったものである。
- ^ なお『三国志演義』では版本によって分かれ、李卓吾本では逆に兄への禅譲を献帝に勧めているが、毛宗崗本では正史同様に曹丕を非難している。
- ^ 『後漢書』献帝紀より。