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同年7月、曹操が到着して黄河の南岸に布陣し、北岸の馬超らの軍と対峙した。曹操は[[徐晃]]・[[朱霊]]らに黄河を渡らせ、陣地を構築し梁興を破った。続いて曹操も潼関から北に黄河を渡ろうと試み、先に兵を渡河させ、曹操は[[許褚]]が指揮を執る虎士100人余りと共に殿軍となったが、馬超は騎兵一万余りを指揮してその殿軍に猛攻をかけた。その苛烈さに曹操軍は混乱し、曹操自身も許褚がいなければ命を落とすところであった。曹操軍の[[西園八校尉|典軍校尉]][[丁斐]]が機転を利かせて牛や馬を解き放ち、馬超らの軍を混乱させたため、曹操は渡河することができた(『三国志』魏志「武帝紀」「徐晃伝」「許褚伝」)。『山陽公載記』によれば、馬超は曹操の渡河作戦を北岸で防ぐことを主張したが、韓遂の賛同を得ることが出来なかった。この話を聞き、曹操は馬超の存在をいっそう警戒し馬氏の小僧が死ななければ、わしは葬られる土地すら無くなるだろうと語った。『三国志』「衛覬伝」に引く『魏書』によれば、潼関の戦いにおける曹操軍の戦死者は5桁にのぼったという。 |
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その後も激しい攻防が続いたが、次第に戦局が膠着し始めると、馬超・韓遂と曹操の間に会談が設けられた。馬超は己の武勇を頼みに会談の場で曹操を捕らえようとしたが、護衛の許褚がいたため実行できなかった。 |
その後も激しい攻防が続いたが、次第に戦局が膠着し始めると、馬超・韓遂と曹操の間に会談が設けられた。馬超は己の武勇を頼みに会談の場で曹操を捕らえようとしたが、護衛の許褚がいたため実行できなかった。 |
2020年8月15日 (土) 00:39時点における版
馬超 | |
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蜀 驃騎将軍・涼州刺史・斄郷侯 | |
出生 |
熹平5年(176年) 扶風郡茂陵県 |
死去 | 章武2年(222年) |
拼音 | Mǎ Chāo |
字 | 孟起 |
諡号 | 威侯 |
主君 | 馬騰 → 独立勢力 → 張魯 → 劉備 |
馬 超(ば ちょう、拼音: マ チャオ、熹平5年(176年) - 章武2年(222年))は、中国後漢末期から三国時代にかけての蜀漢の将軍。字は孟起(もうき)。諡は威侯。司隷扶風郡茂陵県の人。『三国志』蜀志に伝がある。
後漢の名将馬援の子孫の出身。祖父は馬平(子碩)。父は馬騰。弟は馬休・馬鉄。従弟は馬岱。妻は楊氏・董氏(側室)。子は馬秋・馬承。娘は劉理の妻。
父が羌族との混血であったため(『典略』)、この血を引いている馬超も漢王朝の支配を受けない民族からの信望が厚かった。関中の独立軍閥の長の座を父から引き継ぎ、曹操に服属していたが、後に韓遂と共に曹操に反乱を起こして敗れた。一族も勢力も失い流浪した末、益州の劉備の下に身を寄せ、厚遇を受けた。
生涯
若き日
父と韓遂が義兄弟として友好関係にあったが、やがて対立して争うようになり、馬騰の妻子が殺害された。馬超も若い頃、韓遂の部下閻行に矛で刺されかけ、さらに折れた矛で首筋を殴られて殺されそうになった(『三国志』魏志「張既伝」が引く『魏略』)。このとき、曹操の命令で関中鎮定の任務を帯びた司隷校尉の鍾繇が両者の間を仲裁し、利害を説いて説得したため、馬騰と韓遂は和解した[1]。
建安7年(202年)、鍾繇の要請を受け、馬騰は曹操への援軍として馬超に部下の龐徳ら1万余の兵を率いて出陣させ、平陽で郭援・高幹を討伐することとなった。馬超は司隷校尉の督軍従事に任命され、龐徳らと共に郭援と戦った。馬超は自身の足に矢を受け負傷したが、その足を袋に包んでなおも戦い続けこれを破った[2]。
詔勅によって徐州刺史となり、後に諌議大夫に任命された(『典略』)[3]。
建安13年(208年)、韓遂と再び不仲となったため、馬騰が入朝すると[4]、馬超は偏将軍・都亭侯に任命され、父の軍勢を引き継いだ[5]。
潼関の戦い
建安16年(211年)3月、曹操は鍾繇・夏侯淵らに命じて漢中の張魯を討伐しようとした。この動きを見て、馬超ら関中の諸将らは自分達が攻められると疑心暗鬼になったという[6]。
この時、韓遂は張猛の反乱を鎮圧するため遠征していたが、馬超は遠征から戻った韓遂に「鍾繇は私に韓遂殿を捕まえるよう命じました。彼らは信用できません。自分は父を棄てて韓遂を父とするので、韓遂も子を棄てて自分を子と思って欲しい」と語ったという。閻行は参加を諌めたものの、韓遂は「((涼州)諸将は量らずとも意を同じくしている。これは天命である」と答え叛旗に同調した(『三国志』魏志「張既伝」に引く『魏略』)。
馬超・韓遂は曹操と敵対し、楊秋・李堪・成宜ら[7]らと共に兵を挙げ、弘農・馮翊の郡県にまで呼応する者が相次いだ[8]。
このとき、蘭田の劉雄鳴は馬超に従わず撃破され、曹操の下へ逃亡している[9]。また、京兆の学者の賈洪を捕らえて、馬超のために布告文を起草させたという(『三国志』魏志「王朗伝」)。
馬超が10万の軍勢[10]の指揮を執り黄河南岸の潼水の地に布陣したが、曹操は曹仁に潼関を防がせた(潼関の戦い)。
同年7月、曹操が到着して黄河の南岸に布陣し、北岸の馬超らの軍と対峙した。曹操は徐晃・朱霊らに黄河を渡らせ、陣地を構築し梁興を破った。続いて曹操も潼関から北に黄河を渡ろうと試み、先に兵を渡河させ、曹操は許褚が指揮を執る虎士100人余りと共に殿軍となったが、馬超は騎兵一万余りを指揮してその殿軍に猛攻をかけた。その苛烈さに曹操軍は混乱し、曹操自身も許褚がいなければ命を落とすところであった。曹操軍の典軍校尉丁斐が機転を利かせて牛や馬を解き放ち、馬超らの軍を混乱させたため、曹操は渡河することができた(『三国志』魏志「武帝紀」「徐晃伝」「許褚伝」)。『山陽公載記』によれば、馬超は曹操の渡河作戦を北岸で防ぐことを主張したが、韓遂の賛同を得ることが出来なかった。この話を聞き、曹操は馬超の存在をいっそう警戒し馬氏の小僧が死ななければ、わしは葬られる土地すら無くなるだろうと語った。『三国志』「衛覬伝」に引く『魏書』によれば、潼関の戦いにおける曹操軍の戦死者は5桁にのぼったという。
その後も激しい攻防が続いたが、次第に戦局が膠着し始めると、馬超・韓遂と曹操の間に会談が設けられた。馬超は己の武勇を頼みに会談の場で曹操を捕らえようとしたが、護衛の許褚がいたため実行できなかった。
同年9月、涼州緒将は以前より人質を送り、割地による講和を曹操に求めていた。曹操は一貫してそれを拒絶していたが(『三国志』魏志「武帝紀」)、賈詡の進言より曹操はこれを偽って受け入れた。さらに賈詡の離間の策を用いたため、馬超は韓遂に疑念を持ち、不和となった(『三国志』魏志「賈詡伝」)。その隙を見逃さなかった曹操に攻撃されて[11]大敗北を喫し、馬超と韓遂は逃走した[12]。楊秋は曹操に降伏し、罪を許され厚遇された。
曹操が引き揚げようとしたとき、部下の楊阜が警戒を怠ってはならないとと進言し、曹操は尤もだと考えたが蘇伯と田銀が河間で反乱を起こしていたので、曹操は帰還した。
再起と敗北を重ねて
建安17年(212年)5月、馬超の反乱に連座する形で父と一族200人あまりが処刑された。馬超は羌族の兵を集めて隴上で蜂起し、郡や県のほとんどが馬超に呼応した。馬超は冀城を攻めると。涼州刺史の韋康は抵抗すること八ヶ月、講和を求めて開城した。馬超は入城すると韋康らを援軍に来ていた張魯の将軍楊昂に処刑させたという(『三国志』魏志「楊阜伝」)。 冀城を根城にして同州の他の城を味方につけ、自らを征西将軍・并州牧・涼州の軍事総督と称し、救援にやってきた夏侯淵を撃破し、氐族の千万・阿貴らを味方につけてその勢力を盛り返した(『三国志』魏志「武帝紀」)。
9月、降伏していた楊阜、姜敍、趙昂らが鹵城において反旗を翻した。馬超がこれを鎮圧に向かったところ。これに呼応した衢寬らが冀城を占拠し門を閉じて馬超の妻子を斬った。馬超はこれに対して姜敍の駐屯していた歴城に攻撃して姜敍の母と子を斬り[13]、趙昂とその妻王異が立て籠もる祁山を包囲したものの援軍が到来したため、攻略を諦め人質としていた二人の息子趙月を斬った。馬超は楊阜と戦い重傷を負わせ、7人の宗族を斬ったが、遂には漢中の張魯を頼って落ち延びていった。
その後、張魯に兵を借り失地回復を試みたが、韋康の旧臣の趙昂とその妻の王異の抵抗に遭い、夏侯淵・張郃らが援軍に来たので、勝利は得られなかった(『三国志』魏志「楊阜伝」が引く『列女伝』、「夏侯淵伝」及び「張郃伝」)。 『典略』によれば、馬超は何度も張魯に兵を借りて、涼州を取ろうとしたが失敗した。やがて張魯配下の楊白らは、馬超の能力を非難するようになったという。[14] 馬超の方も張魯に不満を抱き、内心鬱々とするようになった。
劉備への帰服
建安19年(214年)、馬超は益州の劉璋を成都に包囲していた劉備に密書を送り、降伏を申し入れた[15]。馬超は妻子や部下を漢中に置き去りにして出奔した[16]。
劉備は馬超の来降を聞くと、すぐさま使者を送り馬超の軍兵を迎えとらせた[17][18]。馬超が劉備に帰順したという噂に恐れをなした劉璋は程なく降伏し、蜀は劉備の手中に入った[19]。馬超は劉備により平西将軍に任命され、臨沮を治め、都亭侯に再び封じられた[20]。
自尊心の強かった関羽は、馬超が誰に比肩するかを諸葛亮に書簡で問うたが、関羽の性格を知っていた諸葛亮が「彼は張飛殿に比肩しますが、髯殿[21]には及びません」と述べたので喜んだという[22]。
彭羕は、その野心を警戒した諸葛亮が劉備に密告した為に、左遷されることとなった。彭羕は左遷される前に馬超を訪問すると、劉備を批判した後、「君が外で兵を挙げ、私が内を取り持てば、天下は思いのままである」と馬超に反乱を持ちかけた。流浪の末に帰順した馬超は、自分の身を危惧していたのでこの言葉を受け入れず、彭羕が帰るとその言葉を上表したため、彭羕は処刑された(『三国志』蜀志「彭羕伝」)。
建安22年(217年)、馬超は劉備の漢中攻略戦に従軍し、下弁方面での作戦に張飛・呉蘭・雷銅らと共に参加したが、曹洪・曹休らに阻まれ、目だった戦果をあげることなく撤退した(『三国志』魏志「武帝紀」及び「諸夏侯曹伝」)。
建安24年(219年)、劉備を漢中王に推挙した群臣たちの筆頭に馬超の名がある(『三国志』蜀志「先主伝」)。馬超は仮節・左将軍に任命された。
章武元年(221年)には驃騎将軍・涼州刺史になるが、翌章武2年(222年)、47歳で亡くなり、子の馬承が後を嗣いだ。
没する間際、馬超は「私の一門宗族200人余りは曹操めにあらかた殺されてしまいましたが、まだ従弟の馬岱が残っております。彼を途絶えんとしている宗家の祭祀を継承する者として託します。くれぐれも宜しくお願い致します」と、劉備に上疏している。
評価
陳寿は、馬超が武勇を恃んで一族を破滅させたことは残念であるが、窮地から抜け出て安泰に至ることができたのだから、まだましではないだろうかと評している。
楊戯の『季漢輔臣賛』では、合従して三秦を主導し、潼水を保って国家の計略を練ったが、諸将の志に異同があり敵に隙を突かれて、一族を滅ぼし軍勢を失った。道に背き徳に反したが、劉備に身を託したと評されている。
楊阜からは韓信・黥布のような武勇を持ち、羌族に心服されていると評される一方、父に背を向け君主に叛き、涼州の将を虐殺したと批判された。
諸葛亮は文武に優れ、人並みはずれた勇猛さを持ち、当代の英雄であるとして英布・彭越に比肩している。
荀彧は関中諸将はまとまりがないが、韓遂、馬超のみは最強であると評した。
孫盛は、馬超が父に背いたことを、家族よりも利益を優先した極端な残酷さであり、人質を取ることの無意味さを表す例として挙げている。
墓所
成都市新都区に墓所が残る。道光17年に「漢故征西将軍馬公諱超字孟起之墓」との墓碑が立てられ、宣統元年には立派な社殿が建てられている。県級文物保護単位。
逸話
『山陽公載記』では、馬超は劉備からの待遇が厚いのをいいことに常々劉備の字を呼び捨てにしたため(目上には官職名で呼ぶのが礼儀であり、字で呼ぶのは完全に無礼)、関羽と張飛が怒り馬超を殺そうとしたという一文がある。しかし裴松之は、関羽は当時荊州の守りについており、益州に行った事は無い。よって馬超と関羽が共に劉備の傍にいた事実は考えられないとして、この記述の信憑性を強く否定しており「単純に考えても、いくら馬超でもそれはない」と擁護している[23]。
三国志演義
小説『三国志演義』では、その容姿が「面如冠玉,眼若流星,虎体猿臂,彪腹狼腰」に描かれている、「錦馬超」(きんばちょう)として称えられている。初登場するのは、長安を占拠した李傕一派と馬騰・韓遂が戦ったときである。わずか17歳で敵将の李蒙・王方を討ち取る鮮烈な活躍を見せるが、父の馬騰が敗れたため敗退している。『演義』においては馬騰は曹操と対立する涼州の一勢力として描かれているため、袁紹残党の高幹と馬一族の戦いは『演義』においては採用されていない。
馬騰が曹操暗殺計画に加担していた為、後に謀略によって一族のほとんどを曹操に謀殺されてしまう。涼州に留まっていたため難を逃れた馬超は、唯一生き残った従弟の馬岱と共に、復讐の為に兵を起こしたとなっている。挙兵と一族の殺害の前後が演義においては正史と逆転している。
潼関の復讐戦において諸々のエピソードは史実をなぞっているが、所々で馬超の勇猛ぶりが史実に増して際立つように筆が進められ、特に曹操が渡河する際、馬超はその超人的な武で曹操軍を蹴散らしながら曹操を苛烈に追う。戦役半ばでは許褚との一騎討ちが挿入されており、馬超は上半身裸になった許褚と演武を繰り広げる。賈詡の離間の計により、韓遂と決裂して敗北するのは同じだが、韓遂はこのときに曹操軍に寝返っており、梁興らを斬ったことになっている。その後も挙兵するが敗れ、史実通り妻など残った一族をほぼ皆殺しにされている。
その後、史実と同じく漢中の張魯の元に身を寄せるが、劉璋軍の援軍として派遣され劉備軍の張飛と一騎討ちした事象は、『演義』の創作である。この時に馬超は諸葛亮の策により楊松の讒言に惑わされた張魯に疑われ、引き返せなくなる。そして李恢の説得によって劉備軍に降り、劉璋を脅すことになったため、劉璋は援軍が来ない事を悟り、降伏するというものである。
馬超は蜀に身を寄せ、五虎大将軍に任じられて、曹操と劉備との漢中攻防戦で活躍する。だが、その後の馬超は史実同様精彩を欠き、西涼の錦と言われた力は発揮出来なくなる。
他に、劉禅即位後に曹丕が司馬懿の進言で、五つの道を使い蜀を攻めようとした時、その一つの、北から攻めるはずだった羌族は守備する馬超を恐れ、攻め込まなかったという話があり、史実より延命したことになっている。
死去の場面は描かれないが、北伐の際、諸葛亮が馬超の墓を訪れる場面がある。
家系図
馬平 ┣━━━━━━━━┓ 馬騰 ┣━━┳━━┓ ┃ 馬超 馬休 馬鉄 馬岱 ┣━━┓ 馬承 馬秋
参考資料
脚注
- ^ 涼州牧の韋端(『典略』)、張既(『三国志』魏志「張既伝」)が関与。
- ^ 龐徳が郭援の首を取っている(『三国志』魏志「龐徳伝」)。
- ^ それ以前に、曹操は馬超を招聘したが、断られていたという(『典略』)。
- ^ 張既の熱心な説得があったためともいう(『三国志』魏志「張既伝」)。
- ^ 弟の馬休・馬鉄に官職が与えられ、馬騰の一族郎党が鄴に移住し、馬超のみが留め置かれたという(『典略』)。
- ^ 『三国志』「衛覬伝」に引く王沈の『魏書』によると、鍾繇は表向きは張魯討伐にかこつけ、実際には馬超らを脅迫して人質をとるつもりであったという
- ^ この他、侯選・程銀・張横・梁興・馬玩らあわせて十名が反乱に同調していたという(『典略』)。
- ^ 杜畿が太守を務める河東郡だけが動揺しなかったという(『三国志』魏志「杜畿伝」)。
- ^ 『三国志』魏志「張魯伝」。劉雄鳴は曹操の歓迎を受けたが、その後、部下達をまとめきれず、再び曹操から離反し漢中に逃走、張魯が敗れると再び曹操に降参している。
- ^ 『典略』
- ^ 馬超と韓遂との反目を知った曹操は、日を定めて合戦すると、まず軽装の兵士に攻撃させ、しばらく戦った後、勇猛な騎馬兵を投入し、馬超らを散々に破り、李堪・成宜らを斬ったという(『三国志』魏志「武帝紀」)。
- ^ 安定まで逃げて涼州に至ったという(『典略』)。
- ^ 姜叙の母は馬超を父に背いた逆子と罵倒して激怒した馬超に斬られたという
- ^ 張魯が娘を馬超と結婚させようとした時、張魯の臣下は「身内を愛せない者が、どうして他人を愛することなどできましょうか」と諫めている。もっとも張魯自身も劉璋に反旗を翻し母と弟を斬られた身であり、その部下がこのような発言を行ったとは考えがたい。
- ^ 馬超は武都から氐族の居住地を通り、益州に出奔したという(『典略』)。
- ^ 妻の董氏と子の馬秋を張魯の元に残してきており、張魯が曹操に降伏すると曹操は董氏を降伏した張魯の功曹の閻圃に下げ渡すと共に馬秋を改めて張魯に引き渡した。張魯は馬秋を殺したという(『典略』)。
- ^ 「私は益州を手に入れたぞ」と言って喜んだという(『典略』)
- ^ 使者は督郵であった李恢だという(『三国志』蜀志「李恢伝」)
- ^ 劉備が馬超の軍兵を城壁の北に駐屯させると10日ほどで降伏したという(『典略』)。
- ^ 劉備の武の重鎮として、関羽・張飛と共に名が挙げられている(『三国志』蜀志「先主伝」)
- ^ ひげどの。諸葛亮は親しみを込めて関羽をそう呼んでいた。
- ^ 『三国志』蜀志「関羽伝」
- ^ 三国志研究会 編『真説三国志 最強は誰だ? 』2007年、48頁