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満塁時の打席で無類の勝負強さを見せ、「'''満塁男'''」の異名を持った。1シーズンでの本塁打数は最高で27本、通算195本塁打ながら満塁本塁打数は[[中村剛也]]の20本、[[王貞治]]の15本、[[藤井康雄]]と[[中村紀洋]]の14本に次ぐ歴代5位の13本を記録し(タイでは[[小久保裕紀]]も記録している)<ref>全満塁本塁打の内訳。第1号:{{by|1983年}}4月10日(後楽園)大洋・右田から。第2号:{{by|1984年}}5月2日(後楽園)代打で大洋・[[遠藤一彦|遠藤]]から。第3号:{{by|1988年}}4月23日(東京ドーム)大洋・[[岡本透|岡本]]から。第4号:{{by|1989年}}4月16日(東京ドーム)代打で広島・[[紀藤真琴|紀藤]]から。第5号:{{by|1989年}}5月3日(東京ドーム)阪神・[[遠山奬志|遠山]]から。第6号:{{by|1994年}}4月21日(神宮)ヤクルト・[[宮本賢治|宮本]]から。第7号:{{by|1995年}}9月22日(横浜)広島・[[小林敦司|小林敦]]から。第8号:{{by|1996年}}5月4日([[ナゴヤ球場|ナゴヤ]])中日・[[中山裕章|中山]]から。第9号:{{by|1996年}}8月22日(東京ドーム)巨人・河野から。第10号:{{by|1997年}}7月16日(東京ドーム)巨人・[[趙成 |
満塁時の打席で無類の勝負強さを見せ、「'''満塁男'''」の異名を持った。1シーズンでの本塁打数は最高で27本、通算195本塁打ながら満塁本塁打数は[[中村剛也]]の20本、[[王貞治]]の15本、[[藤井康雄]]と[[中村紀洋]]の14本に次ぐ歴代5位の13本を記録し(タイでは[[小久保裕紀]]も記録している)<ref>全満塁本塁打の内訳。第1号:{{by|1983年}}4月10日(後楽園)大洋・右田から。第2号:{{by|1984年}}5月2日(後楽園)代打で大洋・[[遠藤一彦|遠藤]]から。第3号:{{by|1988年}}4月23日(東京ドーム)大洋・[[岡本透|岡本]]から。第4号:{{by|1989年}}4月16日(東京ドーム)代打で広島・[[紀藤真琴|紀藤]]から。第5号:{{by|1989年}}5月3日(東京ドーム)阪神・[[遠山奬志|遠山]]から。第6号:{{by|1994年}}4月21日(神宮)ヤクルト・[[宮本賢治|宮本]]から。第7号:{{by|1995年}}9月22日(横浜)広島・[[小林敦司|小林敦]]から。第8号:{{by|1996年}}5月4日([[ナゴヤ球場|ナゴヤ]])中日・[[中山裕章|中山]]から。第9号:{{by|1996年}}8月22日(東京ドーム)巨人・河野から。第10号:{{by|1997年}}7月16日(東京ドーム)巨人・[[趙成珉|趙]]から。第11号:{{by|1998年}}4月18日(横浜)中日・[[山本昌]]から。第12号:{{by|1998年}}5月10日([[下関球場|下関]])広島・[[小林幹英|小林幹]]から。第13号:{{by|1999年}}8月19日(横浜)阪神・[[湯舟敏郎|湯舟]]から。</ref><ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_may/KFullNormal20080427197.html 満塁男・駒田徳広 2年連続1号はグランドスラム]</ref>、満塁本塁打を打った試合はすべて勝利している。満塁本塁打の率で見れば、実に本塁打約15本に対して満塁本塁打1本という群を抜いている成績である。13本中、横浜在籍時に8本を記録しており、横浜時代(横浜時代の通算本塁打は63本)に限れば本塁打約8本に1本が満塁弾であった。また{{by|1994年}}から{{by|1999年}}まで6年連続で満塁本塁打を放っており、これは[[イチロー]]と並び日本記録である<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_10august/KFullNormal20100801244.html 満塁男・駒田徳広の新記録は最後のグランドスラム]</ref>。満塁時の通算打率.332(220打数73安打)、打点200。 |
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一軍デビュー当時は長距離砲として首脳陣から期待されていたが、極度の打撃不振に陥り、フォームの改善を重ねた結果、長打力を犠牲にして、ミート力を重視した打撃スタイルを確立して成績が安定し、レギュラーを獲得することができた。そして、基本的には単打でも良いからと、とにかくヒットを打って次の打者に繋げるそのスタイルは、横浜移籍後顕著となる。そのためか横浜移籍の{{by|1994年}}以後7年間で、本塁打数は13本が最多であり、二桁を記録したのも3回である。巨人時代より、打者の中でも背筋力など筋力全般が特に優れていたとされ、長距離砲が少なかった第2次藤田元司政権時代、試合前の練習時に長距離砲顔負けなほどライトスタンドに叩き込む駒田を見て監督の藤田も、「なぜ試合になるとホームランが少ないのだろう」と、記者達と共に訝しがっていたという<ref>引退から9年がたった横浜のコーチ時代も、試合前のフリーバッティングでサク越えを連発し、若手選手を唖然とさせたという[http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20090608111.html]。</ref>。しかし、安打製造機というほどではなく、横浜移籍後についていえば3割を記録したのは1回のみで(巨人時代と合わせると通算5回)、生涯最高打率は.314であった。一方で、打撃スタイルを確立した{{by|1987年}}以降は不調にあえいだ{{by|1993年}}と規定打席に達しなかった晩年を除けば打率.280を下回ることもなく、年間を通じた打率に関しては毎年安定した成績を残している。{{by|1994年}}にはリーグ最多[[二塁打]]を記録しているように、駒田は比較的高打率を残す中距離砲であったと言える。 |
一軍デビュー当時は長距離砲として首脳陣から期待されていたが、極度の打撃不振に陥り、フォームの改善を重ねた結果、長打力を犠牲にして、ミート力を重視した打撃スタイルを確立して成績が安定し、レギュラーを獲得することができた。そして、基本的には単打でも良いからと、とにかくヒットを打って次の打者に繋げるそのスタイルは、横浜移籍後顕著となる。そのためか横浜移籍の{{by|1994年}}以後7年間で、本塁打数は13本が最多であり、二桁を記録したのも3回である。巨人時代より、打者の中でも背筋力など筋力全般が特に優れていたとされ、長距離砲が少なかった第2次藤田元司政権時代、試合前の練習時に長距離砲顔負けなほどライトスタンドに叩き込む駒田を見て監督の藤田も、「なぜ試合になるとホームランが少ないのだろう」と、記者達と共に訝しがっていたという<ref>引退から9年がたった横浜のコーチ時代も、試合前のフリーバッティングでサク越えを連発し、若手選手を唖然とさせたという[http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20090608111.html]。</ref>。しかし、安打製造機というほどではなく、横浜移籍後についていえば3割を記録したのは1回のみで(巨人時代と合わせると通算5回)、生涯最高打率は.314であった。一方で、打撃スタイルを確立した{{by|1987年}}以降は不調にあえいだ{{by|1993年}}と規定打席に達しなかった晩年を除けば打率.280を下回ることもなく、年間を通じた打率に関しては毎年安定した成績を残している。{{by|1994年}}にはリーグ最多[[二塁打]]を記録しているように、駒田は比較的高打率を残す中距離砲であったと言える。 |
2020年8月14日 (金) 21:56時点における版
横浜コーチ時代 (2009年4月30日、阪神甲子園球場にて) | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 奈良県磯城郡三宅町 |
生年月日 | 1962年9月14日(62歳) |
身長 体重 |
191 cm 90 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 一塁手、外野手 |
プロ入り | 1980年 ドラフト2位 |
初出場 | 1983年4月10日 |
最終出場 | 2000年10月10日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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駒田 徳広(こまだ のりひろ[1]、1962年9月14日 - )は、奈良県出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)、野球指導者、野球解説者、タレント。
満塁時の打席で無類の勝負強さを見せ、「満塁男」の異名を持った[2][3]。現役時代は長身の中距離打者として、巨人と横浜で活躍。一塁手としては史上最多となる10度のゴールデングラブ賞を受賞した。
経歴
プロ入り前
小学生時代から身体能力と運動神経がよく、野球の他に水泳などで県の大会で上位の成績を残していた[4]。中学に入り本格的に野球を始める。生来の左利きだが、1年生までは右打ちで、コーチの指示で2年生になってから左打ちに転向[5]。中学生時代は長身ながらも非力で、2番打者などで三遊間をゴロで抜けるヒットをよく打っていたというが、桜井商業高校時代は体格もよくなり、エースで4番打者として活躍[6]。1978年夏の甲子園県予選では2年上の東利夫とバッテリーを組み準決勝に進むが、郡山高に惜敗。1979年の秋季奈良大会でも準決勝に進出するが、智弁学園に敗退。敗者復活2位決定戦でも高田商に敗れ近畿大会には進めなかった。
翌1980年、春季奈良大会決勝で強豪天理高と対戦。川本和宏と投げ合い、無死満塁で敬遠されたという逸話を残す[7][8]が、乱打戦の末敗退。またイニングの先頭バッターで敬遠されたこともあった。同年夏の県予選でも敗れ、甲子園には出場できなかった。高校通算で43本塁打、打率.490を記録。高校では駒田の打撃練習の前に、打球の行方に注意を促す校内放送が流れるほど飛距離が凄かったという。地元のマスコミからは「奈良のマニエル」と呼ばれていた[9]。
巨人時代
1980年、読売ジャイアンツからドラフト2位で投手として指名され入団[10]。入団後、新人合同自主トレーニングの期間だけ投手としての練習をしたが、駒田自身投手としての能力に限界を感じていたため、最初は投手をやらせようとしていた監督の藤田元司に野手への転向を直訴。認められ、1年目の春季キャンプより(選手登録は投手ながら)野手扱いとなった[11]。
1、2年目は一軍に上がることはなかったが、プロ入り3年目の1983年4月10日、開幕2戦目の大洋戦(後楽園球場)で、試合前の練習で怪我をした一塁のレギュラー、中畑清に代わり7番・一塁手で先発出場し、初回、二軍で得意としていたプロ初先発の右田一彦から、日本プロ野球史上初となるプロ初打席での満塁本塁打[12]を右翼席に放った[13]。藤田は当初ベテランの山本功児の起用も考えていたが、当時助監督だった王貞治の進言で駒田の先発が決まったと言われる。この年、規定打席不足ながら12本塁打を放った背番号50の駒田、12勝をあげる活躍で新人王を獲得した背番号54の槙原寛己、同じく規定打席不足ながら打率.326を記録した背番号55の吉村禎章の3人はセ・リーグ優勝の原動力となり、巨人期待の若手として注目され、彼らの背番号にちなみ50番トリオと呼ばれた[14]。この時期駒田は、かつて巨人に在籍したゲーリー・トマソンをもじって「コマソン」ともあだ名されていた。
1984年、巨人の監督に就任した王貞治からホームラン打者として期待され、一本足打法の習得を薦められる[15]。首都圏で試合のある日は毎日のように王の師匠である荒川博の自宅へ通い、王がしたように合気道を習い、真剣を振るなど夜中まで練習をして一本足打法の習得を試みたが[16]、結果を残せなかった。当時打撃についてあまりにも考え悩みぬいている姿から、チームメイトからは銅像の『考える人』に由来する「ロダン」というあだ名を付けられていたという。
翌1985年の序盤には一本足打法をやめるも結果を残せないでいた。
1986年後半に、当時二軍の打撃コーチだった松原誠の指導により、ホームランを狙うためにボールを上から叩くよう指導されていたそれまでの打撃フォームをやめ[17]、グリップを下げてレベルスイングにすることで、自身にあった打撃スタイルを確立する[18]。外野と一塁を兼任しながらレギュラーメンバーの故障離脱の合間をぬうように出番を増やす。
1987年、開幕戦の中日戦で杉本正から本塁打を放ち、シーズン後半にレギュラーの松本匡史から外野のポジションを奪取。1988年、背番号を10に変更する。初めて規定打席に到達し、セ・リーグ打率ランキングの4位に入った。この年は初の4番スタメンも経験している[19]。足は速くなかったが、チーム事情から1987年後半から1988年前半にかけては、1番打者として起用されることが多かった。
1989年、藤田元司監督が就任し、シーズン序盤に三塁手・中畑清が故障し、それに伴う一塁手・岡崎郁の三塁コンバートにより、空いた一塁に定着。初めて一塁手部門でゴールデングラブ賞を受賞。この頃より「恐怖の7番バッター」と呼ばれるようになる。日本シリーズ第7戦(藤井寺球場)で、近鉄バファローズ先発の加藤哲郎から先制本塁打を放ち、ダイヤモンドを一周中に三塁ベース付近で「バ〜カ!!!」と叫んだと言われている。巨人は第3戦(東京ドーム)で加藤、村田辰美、吉井理人の継投の前に完封されたが、勝利投手となった加藤が試合後「シーズン中の方が相手が強かったからしんどかった」という旨の発言をした経緯もあり、この「バ〜カ!!!」発言は一般に「加藤の暴言に対する罵倒」と認識されている[20][21]。このシリーズは、7試合までの日本シリーズ史上最高打率.522、1本塁打、5打点という成績を残し、最優秀選手に選出された。
1990年、7番打者ながら22本塁打83打点と、チーム最多の本塁打と打点を記録し、チームのセ・リーグ2連覇に貢献する。ファン投票で選出され、オールスターゲームに初出場。翌1991年は3番打者として多く出場し、チーム最高打率であり生涯自己最高でもある打率.314を残すなど、主軸としての地位を不動のものとした。1991年8月19日の対中日戦(東京ドーム)で、上原晃から生涯唯一のサヨナラホームランを放っている。
1992年、アキレス腱痛の原辰徳が一塁にコンバートされたことに伴い、右翼手に転向。守備範囲は狭かったものの強肩で貢献した。この年打撃コーチに就任した中西太の指導が合い、前半戦は本塁打を量産したが、打点数もほぼ同数を記録し続けるなど勝負弱さが目立ち、シーズンを通しても得点圏打率は.231と低迷した。最終的には自己最多の27本塁打を記録。前半戦は不調の原に代わり4番打者として29試合に出場。4月21日の対ヤクルト戦(神宮球場)で1試合3本塁打を記録している。8月17日のヤクルト戦(神宮)で高野光から本塁打を放ち、これが巨人軍通算6000本塁打となった。シーズンオフには原、斎藤雅樹と共に日本人としては球団初の年俸1億円プレイヤーになる。
1993年、長嶋茂雄監督が就任し、原の三塁への再転向により再び一塁手に戻るも、股関節痛などから開幕から打撃不振に陥る。5月22日の対阪神戦(甲子園)でスタメン落ちし、1990年9月11日から続けてきた307試合連続フルイニング出場記録が途切れ、同時にこの試合では途中出場もなく1989年5月27日から続けてきた450連続試合出場記録も途切れる[22]。この年、打撃に対する意見の相違などによる、打撃コーチの中畑清との確執がマスコミで度々報じられる[23]。監督の長嶋茂雄とも、駒田が自身の処遇について尋ねるためコンタクトを取ろうと試みても、無視をされるなど秋風が吹いた[24]。
首脳陣との意思疎通がうまくいかなくなっていたことに加え、同年シーズンオフ、同じ一塁手の中日・落合博満がFA宣言して巨人へ入団することが濃厚となり、合わせて自身のトレードが囁かれていたこともあって出場機会を奪われることに危機感を持った駒田は同様にFA宣言する[22]。関東の球団を希望する駒田と、かつて巨人のヘッドコーチであった横浜ベイスターズ監督の近藤昭仁による、駒田獲得の希望がマッチし、横浜へ移籍[25][26][27]。横浜球団は駒田移籍の直後、1980年代の看板選手であった6選手(高木豊、屋鋪要、大門和彦、山崎賢一、市川和正、松本豊)を突如として解雇したが、解雇された選手の年俸が駒田の獲得資金に充てられたのでは、と一部マスコミから揶揄・批判されたこともある[28]。駒田は「僕はね、未だにOBとしても一歩引いているところがあるんです。それはあの時の生え抜き選手たちを大量解雇して、僕を獲ったっていう経緯がありましたからね」と述べている[29]。巨人生え抜きの選手として国内球団にFA移籍したのは、2019年現在、駒田一人である[30]。同じくFA権を行使した槙原寛己とは対照的に球団からの慰留はなく、駒田は恩師である藤田前監督の勧めもあって結果的に横浜移籍を選んだが、阪神、ダイエー、ロッテ、西武からも獲得の打診が寄せられていたと後年明かしている[31]。
横浜時代
1994年、ベテランが大量に解雇されチームが若返ったことに伴い、32歳を迎えるシーズンながらチーム最年長選手となる。シーズン開幕当初は3番打者を任され、序盤こそ本塁打を連発し好調だったが、徐々に成績が低下。中盤からは主に6番打者として出場するようになった。併殺打もセ・リーグ記録となる29を数えた。リーグ最多二塁打を記録。
1995年、オールスターゲーム前までフル出場しながら、本塁打はわずかに2本。年間を通じても6本であった。このころよりパワー不足を補うため、大きく足を上げる打法を時々試すようになる。打撃用ヘルメットを被って守備をし、コンタクトレンズが目にあわないため黄色のゴーグルをかけていた。
1996年、5月、6月と好調で、移籍後初の3割達成を期待されたがその後失速。最終戦で3安打を放つも、あと1安打足りず打率.299に終わる。8月22日の対巨人戦(東京ドーム)で河野博文から満塁本塁打を放ち、セ・リーグ全球団から満塁本塁打の記録達成。8月末頃よりバットを寝かせる打撃フォームに改造し、閉幕までの1か月少々の間に5本塁打を記録するなどホームランが出るようになる。前年本塁打数がわずか6本で衰えもささやかれていたが2年ぶりに二桁に乗せた。
1997年、4番打者のグレン・ブラッグスの退団により打順が繰り上がり、主に5番打者として出場。前年からの打撃改造が奏功し5年ぶりに打率3割を達成。打点も86と35歳にして自己最多の成績を残した。
1998年、当時新しく選手会長に就任した石井琢朗が、外様の駒田が経験などをスムーズに発言しやすいようにと要請し、キャプテンに就任。マシンガン打線の5番打者としてチームの日本一に貢献。前半戦では不振のロバート・ローズに代わり20試合で4番打者を務めたり、9月の初旬まで打点数ランキングの2位につけ打点王争いに絡むなど活躍したが、終盤には応援団に応援ボイコットをされるほどの深刻な打撃不振に陥る。結局打率.281で本塁打は9本に終わったが、前の打者の出塁率の高さと、2本の満塁本塁打を含む自身の満塁での強さ(満塁時の打率5割、打点31)などから81打点を挙げ、生涯唯一のベストナインを獲得する[32]。日本シリーズでは第4戦までわずか2安打とシーズン終盤の不調をひきずっていたが、第5戦(西武ドーム)で満塁でのタイムリーを含む4安打5打点と大活躍をして調子を取り戻すと、日本一を決めた第6戦(横浜スタジアム)では、スコア0-0の8回裏、西口文也から決勝2点適時二塁打を放ち[33]シリーズ優秀選手に選出された。シーズンオフ、野球教室で正座をした際に半月板を損傷し、手術を受ける。
1999年、打率.291の好成績を残すものの、ローズを始めとする打撃陣が皆絶好調であったため横浜のチーム打率.294を下回ってしまった。5月18日から6月17日まで25試合連続安打を記録。また、7月17日の対中日戦(ナゴヤドーム)で、巨人時代の1993年10月21日より続けていた連続試合出場記録が739試合で途切れる[34]。12年連続100安打以上を達成[35]。
2000年、リーグ最年長野手となる。2000本安打まで残り73本で迎えたシーズンであったが、プレッシャーの為か開幕から精彩を欠き、打撃不振に陥る。家族も球場で観戦していた6月18日(父の日)の対広島戦で6回に代打を送られた際に憤激し、バットとヘルメットを投げつけてベンチ裏に下がり、山下大輔ヘッドコーチの許可を得て試合中に帰宅した。しかし球場を去る際、取材陣に対し「(監督の権藤博と)野球観が違う」とコメントしたことで首脳陣批判と受け取られ、球団からペナルティとして罰金30万円と二軍降格を命じられた[36][37]。この時、駒田は通算2000安打を目前としており、1か月の登録抹消期間を経て、9月6日に2000本安打を達成、名球会に入会した。達成直後に球団から引退勧告をされるも「2000本を打つためにやっていたと思われるのは嫌だった」という気持ちもあって拒否をし[38]、9月22日に戦力外通告を受ける。結果として現役最終試合となった10月10日の対ヤクルト戦(横浜スタジアム)は4番打者として出場し、第1打席で前田浩継から適時打を放ち交代。現役続行を希望していたため退団セレモニーなどは行われなかった。その後移籍先を探し続けたが、結局他球団からの正式な誘いはなく、翌2001年の1月18日に現役引退を表明。現役通算安打2006本は2019年現在、現役引退した名球会員の中では千葉ロッテマリーンズの福浦和也(通算2000本)に次ぐ少ない記録である。
引退後
2001年からニッポン放送の野球解説者を務める。この年の秋から始まったプロ野球マスターズリーグ・東京ドリームスの4番打者として活躍。2002年からテレビ東京の解説も兼任。
2005年、この年誕生した新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスの新監督に就任した田尾安志の要請で[39]楽天一軍打撃コーチに就任。しかし、成績不振のため4月30日に二軍打撃コーチへ降格となり、シーズン終了後に解任された。
2006年からは再び野球評論家としてテレビ東京を中心に、tvk、東北放送、テレビ北海道、STVラジオにも出演。2006年の読売ジャイアンツ春季キャンプにて、李承燁の臨時一塁守備コーチを務める。
2009年に当時スタメンに極端に少なかった左打者の育成を託され、横浜の一軍打撃コーチに就任[40]。リーグ最下位となるチーム打率.239という打撃成績の責任を取り、シーズン終了後に退団した。
2010年からtvk、文化放送、スカイ・A sports+(主に楽天戦。2012年からJ SPORTSに移行)の野球解説者を務める。また、2010年に社団法人化した日本プロ野球名球会においては、監事を務める。同年の第17回IBAFインターコンチネンタルカップでは監督の岡崎郁からの指名で、日本代表の打撃コーチを務める。2011年からTBSニュースバードの野球解説者も兼任。2012年の千葉ロッテマリーンズ春季キャンプにて、大松尚逸の臨時一塁守備コーチを務める。また、2012年9月1日から常磐大学硬式野球部の臨時コーチを務め、同年10月22日にチームは3季ぶりに関甲新学生野球連盟一部リーグへの昇格を決めた[41]。同年11月に行われたマスターズ甲子園2012に奈良情報商業高校・桜井商業高校OBの一員として出場、選手宣誓も行った。
2016年、総監督の江本孟紀からの要請で、独立リーグ・四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグス監督に就任[42]。前期は最下位だったが、後期は13期ぶりに勝率5割を越え、3位(2位の香川オリーブガイナーズと同勝率、直接対決の成績により順位決定)に浮上させ[43]、4期ぶりに最下位を脱した。初年度終了後、チームを率いた感想を「選手を指導してみて歯がゆい部分もあり、正直『このまま指導しても無理かな』という気持ちもあった。でも、後期は一歩引いて見ていると、楽しくなった」と述べている[44]。2017年、前期は超大物の元メジャー・リーガー、マニー・ラミレスの加入などもあり、序盤から首位を快走するも後半に失速し、2位に終わる。後期早々にラミレスは帰国。チームは3位に終わるも、年間を通じた勝率は2位となり、勝率5割を超えたのも7年ぶりであった。翌2018年前期は2位、後期は3位。シーズン終了後に留任が発表された[45]。2019年前期は徳島インディゴソックスと首位を争い、最終日まで優勝の可能性があったが、2位に終わる[46]。2019年7月12日、今シーズン限りでの高知監督退任を発表した[47]。優勝を達成できなかったこと、NPBに選手を送り込めなかったことをその理由として挙げ、後任監督の選任を考慮してシーズン途中で発表したと述べている[47]。後期は就任直後以来の4位(最下位)だった。9月10日のホーム最終戦後にはグラウンドでファンや選手と記念撮影をした[48]。
高知の監督時代には、高知市帯屋町で「KOMA'S HOUSE」というバーを手伝っていた[49][50][51]。このバーは、駒田の監督退任に伴い、2019年10月25日で閉店した[52]。
2020年からは再びテレビ東京(BSテレ東)・tvk・TBSチャンネルの野球解説者、タレントとして復帰する。
選手としての特徴
この選手の選手としての特徴に関する文献や情報源が必要です。 (2012年7月) |
打撃面
満塁時の打席で無類の勝負強さを見せ、「満塁男」の異名を持った。1シーズンでの本塁打数は最高で27本、通算195本塁打ながら満塁本塁打数は中村剛也の20本、王貞治の15本、藤井康雄と中村紀洋の14本に次ぐ歴代5位の13本を記録し(タイでは小久保裕紀も記録している)[53][54]、満塁本塁打を打った試合はすべて勝利している。満塁本塁打の率で見れば、実に本塁打約15本に対して満塁本塁打1本という群を抜いている成績である。13本中、横浜在籍時に8本を記録しており、横浜時代(横浜時代の通算本塁打は63本)に限れば本塁打約8本に1本が満塁弾であった。また1994年から1999年まで6年連続で満塁本塁打を放っており、これはイチローと並び日本記録である[55]。満塁時の通算打率.332(220打数73安打)、打点200。
一軍デビュー当時は長距離砲として首脳陣から期待されていたが、極度の打撃不振に陥り、フォームの改善を重ねた結果、長打力を犠牲にして、ミート力を重視した打撃スタイルを確立して成績が安定し、レギュラーを獲得することができた。そして、基本的には単打でも良いからと、とにかくヒットを打って次の打者に繋げるそのスタイルは、横浜移籍後顕著となる。そのためか横浜移籍の1994年以後7年間で、本塁打数は13本が最多であり、二桁を記録したのも3回である。巨人時代より、打者の中でも背筋力など筋力全般が特に優れていたとされ、長距離砲が少なかった第2次藤田元司政権時代、試合前の練習時に長距離砲顔負けなほどライトスタンドに叩き込む駒田を見て監督の藤田も、「なぜ試合になるとホームランが少ないのだろう」と、記者達と共に訝しがっていたという[56]。しかし、安打製造機というほどではなく、横浜移籍後についていえば3割を記録したのは1回のみで(巨人時代と合わせると通算5回)、生涯最高打率は.314であった。一方で、打撃スタイルを確立した1987年以降は不調にあえいだ1993年と規定打席に達しなかった晩年を除けば打率.280を下回ることもなく、年間を通じた打率に関しては毎年安定した成績を残している。1994年にはリーグ最多二塁打を記録しているように、駒田は比較的高打率を残す中距離砲であったと言える。
しかし4打席4三振をした翌日に4打数4安打を記録した1996年の開幕1、2戦に象徴的なように、試合単位ではムラのある選手であった。そのため調子の良い日は止められず、猛打賞を142回記録している。またその不安定さが、巨人時代、打力はありながらもクリーンナップに定着できなかった要因となったとも言われる。腕のリーチが長いために少々のボール球でもバットに当ててしてしまうこともあって早打ちの傾向があり、四球が少なく淡泊な打撃も目立ったが、年齢を重ねるごとにクラッチヒッターぶりを発揮。1992年は打率3割、27本塁打を記録しながら64打点に終わるも、1998年は9本塁打ながら81打点を記録している。
また、オールスター前まで最多本塁打・打率ランキング2位だった1992年、6月まで打率首位にランクされていた1991年、1997年、打率ランキング上位に顔を出していた1996年、最多打点争いをしていた1998年など、オープン戦から前半戦は例年好成績を残していた。しかし夏場の暑さに弱く、毎年中盤以降成績を落とし、名球会所属の選手としては数少ない、打撃タイトルとは無縁の選手であった。
いわゆる「悪球打ち」の選手であり、外角低めの球を長い腕のリーチを利かせてバットをちょこんと当て、レフト前に打球を運び打率を稼ぐ一方、ハイ・ボールや内角低めの球をアッパースイングでホームランにすることも多かった。また打席での狙い球が読めない選手としても有名であり、上述の「悪球打ち」と合わせて相手バッテリーを悩ませた[57][58]。
背筋を伸ばし、テイクバックを大きくとる打撃フォームが基本形であったが、バットを立てたり寝かせたり、足を上げたりすり足にしたり、スクエアスタンスにしたりオープンスタンスにしたりと、調子に合わせて試合単位で打撃フォームを細かく修正した。またストライクで追い込まれる毎にその長身を少々かがめて打つ姿が特徴的であった。レギュラーを獲得してからはバットを立てた構えを基本としていたが、1995年ごろから長打が出なくなってきていた。しかし、1996年の夏ごろにバットを寝かせる打法に改造することによってバットがスムーズに出るようになり、長打力をとり戻す。30代半ばにして衰えを克服したことが、後の2000本安打達成につながったと言える。
また、左打者としては日本プロ野球歴代1位の通算229併殺打(右打者を含めた総合では11位タイ)とシーズン29併殺打(1994年)を記録している[59][60]。駒田は走者が一塁で打席に入った際、広く開いた一・二塁間をゴロで抜ける安打を打って、走者を一・三塁にすることをひとつの理想としていたというが、そのためか打ち損じのセカンドゴロが非常に多かった。また横浜移籍後は確実性を求め、バットを振り切らずに当てるだけの打撃をすることが多くなり、結果として打ち損じの内野ゴロを量産した。駒田自身は、体の大きい選手は、年齢を重ね下半身の力が衰えてくると上半身がかぶさるように打つようになってしまうため、内野ゴロが増えてしまうと分析している[61]。
バットは33インチ(83.82センチ)・915グラムと他の選手と比べても短くて太めの、ミート性を重視したものを使っていた。1987年のアリゾナ教育リーグに参加した際に地元のマイナーリーグの選手と交換したバットが元となっている。
守備面
手首が柔らかくグラブ捌きが巧みで、一塁手として内野手からのショートバウンド、ハーフバウンド送球の捕球処理が非常に上手かった[62]。浮足立つことなく、体をあまり動かさずに手首のハンドリングだけで事もなげにショートバウンド送球を捕球する姿が特徴的だった[63]。また身長も高いため、内野手は思い切った送球ができ、巨人・横浜の内野守備力の向上に貢献した。バント処理にも定評があり、果敢なダッシュで相手打者にプレッシャーをかけ、下手投げの鋭い送球で二塁でランナーを刺すこともしばしばあった[64]。当時のセ・リーグに守備の上手い一塁手がいないという状況も手伝い、一塁手としては歴代最多となる、10度のゴールデングラブ賞を受賞している。
しかし、1998年5月20日の対ヤクルト戦(横浜スタジアム)で、一塁手としてはプロ野球タイ記録で史上13人目となる、1試合3失策を記録している。
身体面
191cmの長身であり、怪我による戦線離脱がほとんどない頑丈な選手であった。危険球を避けるのも巧く、故障の原因ともなる死球も実働18年でわずか19と非常に少なかった。現役時代、シーズン全試合出場は8度(1990年から1992年、1994年から1998年)を数えた[65]。
人物
その一見覇気のないように見えるプレースタイルからか、横浜スタジアムでの一塁側横浜ファンからのヤジはひと際大きく、それへの駒田の応戦は一種の名物になっていた。しかし、審判への抗議などによる退場は一度もない。本人曰く一番印象に残っている野次は、神宮球場で言われた「横浜ベイスターズが優勝できないのは君がいるからなんだよ!君さえいなければ優勝できるのに」であるという。また敵チームに言われた野次としては、10学年下の当時阪神の捕手・北川博敏が、駒田が打席に入った際に味方守備陣に言った「これ(駒田)ボール振るよ!」が印象に残っているという。
巨人時代の1993年の夏ごろからヘルメットを被って守備をするようになり、特に1995年はかなりの頻度でヘルメットを被っていた。プロ野球選手で初めてストッキングを履かずにユニフォームのパンツの裾にゴムをつけ、ストッキングのように見せるなど[66]、ユニフォームの着こなしもユニークな選手であった[67]。守備に就く際、足に帽子を引っ掛け、そのまま放り上げて頭に乗せるというアシカ芸をしばしば見せていた。また、三振をすると走ってベンチに戻る姿が印象的であった。本人は「恥ずかしいから。三振してピッチャー睨んでる選手もいるが、そんな行為は愚かなことだと思う」と語っている[要出典]。
引退後はテレビ・ラジオでの野球解説の他に俳優業をこなしたり、多くのバラエティ番組や旅番組に出演している。夫人とともにテレビ出演することも多い。長女は日本プロ麻雀連盟所属のプロ雀士、駒田真子[68]。
オールド・カーと1970 - 1980年代のアイドル歌謡のファン(特にお気に入りは沢田聖子の「今日に乾杯!」[69])であり、そのことをテーマにしてしばしばメディアに登場している。『'84ヤング・ジャイアンツ―歌の球宴』では「冬のリヴィエラ」のカヴァー・ソングを披露している。また、引退後、横浜・関内のベイスターズ通りに歌謡喫茶を出店していたこともある。フジテレビ系列で2015年6月10日に放送された『村上信五とスポーツの神様たち』に満塁の神様として出演した際、伊藤美奈子の『誘魚灯』をお気に入りの歌として紹介し、誘魚灯をBGMに駒田の生涯満塁本塁打全13本の映像が流された。2018年3月には、高知にてバー「KOMA’S HOUSE」を開店。売り上げはチームの運営資金に充ててもいる[70][71]。
石井琢朗との対談の中で、「俺は大雑把(中略)俺は気が小さいから大雑把にしなきゃいけなかった」と自身の性格について語っている[72]。「野球はレジャーだから。投手はスポーツだけど、打者はレジャー。スポーツだったら、週に6試合なんてできない」[73]と述べたりするなど、元野球選手らしからぬ発言も多い。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1983 | 巨人 | 86 | 199 | 182 | 27 | 52 | 5 | 2 | 12 | 97 | 47 | 2 | 1 | 3 | 0 | 13 | 0 | 1 | 31 | 5 | .286 | .337 | .533 | .870 |
1984 | 79 | 91 | 84 | 11 | 20 | 3 | 1 | 2 | 31 | 11 | 1 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 21 | 3 | .238 | .297 | .369 | .666 | |
1985 | 92 | 172 | 151 | 13 | 38 | 7 | 1 | 3 | 56 | 20 | 1 | 1 | 2 | 2 | 15 | 3 | 2 | 24 | 4 | .252 | .324 | .371 | .694 | |
1986 | 64 | 120 | 101 | 13 | 26 | 6 | 0 | 3 | 41 | 18 | 1 | 0 | 3 | 1 | 15 | 1 | 0 | 21 | 2 | .257 | .350 | .406 | .756 | |
1987 | 113 | 371 | 331 | 50 | 95 | 7 | 1 | 15 | 149 | 40 | 1 | 1 | 8 | 2 | 29 | 3 | 1 | 55 | 6 | .287 | .344 | .450 | .795 | |
1988 | 116 | 404 | 365 | 45 | 112 | 22 | 2 | 11 | 171 | 40 | 0 | 4 | 6 | 1 | 32 | 4 | 0 | 43 | 11 | .307 | .362 | .468 | .830 | |
1989 | 126 | 458 | 413 | 47 | 125 | 31 | 3 | 11 | 195 | 56 | 10 | 6 | 3 | 0 | 40 | 10 | 2 | 60 | 10 | .303 | .367 | .472 | .839 | |
1990 | 130 | 528 | 470 | 70 | 135 | 27 | 3 | 22 | 234 | 83 | 7 | 3 | 0 | 5 | 51 | 6 | 2 | 70 | 11 | .287 | .356 | .498 | .854 | |
1991 | 130 | 558 | 510 | 66 | 160 | 23 | 2 | 19 | 244 | 66 | 5 | 2 | 0 | 2 | 44 | 7 | 2 | 78 | 16 | .314 | .369 | .478 | .848 | |
1992 | 130 | 556 | 505 | 73 | 155 | 25 | 1 | 27 | 263 | 64 | 1 | 4 | 0 | 2 | 47 | 7 | 2 | 70 | 10 | .307 | .367 | .521 | .888 | |
1993 | 122 | 482 | 437 | 35 | 109 | 18 | 0 | 7 | 148 | 39 | 1 | 2 | 2 | 4 | 39 | 1 | 0 | 89 | 18 | .249 | .308 | .339 | .647 | |
1994 | 横浜 | 130 | 558 | 525 | 60 | 149 | 33 | 2 | 13 | 225 | 68 | 0 | 1 | 0 | 3 | 28 | 3 | 2 | 95 | 29 | .284 | .321 | .429 | .749 |
1995 | 130 | 539 | 499 | 45 | 144 | 29 | 4 | 6 | 199 | 66 | 0 | 1 | 0 | 2 | 37 | 1 | 1 | 78 | 20 | .289 | .338 | .399 | .736 | |
1996 | 130 | 534 | 485 | 57 | 145 | 22 | 1 | 10 | 199 | 63 | 1 | 3 | 1 | 2 | 45 | 6 | 1 | 78 | 18 | .299 | .358 | .410 | .769 | |
1997 | 135 | 558 | 507 | 57 | 156 | 31 | 2 | 12 | 227 | 86 | 2 | 3 | 0 | 6 | 45 | 4 | 0 | 73 | 20 | .308 | .360 | .448 | .808 | |
1998 | 136 | 586 | 551 | 63 | 155 | 25 | 1 | 9 | 209 | 81 | 0 | 2 | 0 | 8 | 27 | 1 | 0 | 86 | 21 | .281 | .311 | .379 | .690 | |
1999 | 129 | 558 | 519 | 53 | 151 | 29 | 1 | 9 | 209 | 71 | 0 | 1 | 0 | 6 | 31 | 0 | 2 | 84 | 14 | .291 | .330 | .403 | .732 | |
2000 | 85 | 326 | 306 | 25 | 79 | 14 | 0 | 4 | 105 | 34 | 2 | 0 | 0 | 1 | 18 | 2 | 1 | 57 | 11 | .258 | .301 | .343 | .644 | |
通算:18年 | 2063 | 7598 | 6941 | 810 | 2006 | 357 | 27 | 195 | 3002 | 953 | 35 | 35 | 28 | 47 | 563 | 59 | 19 | 1113 | 229 | .289 | .342 | .433 | .774 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
年 度 |
球 団 |
一塁 | 外野 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 | ||
1983 | 巨人 | 24 | 189 | 12 | 39 | ||||||||
1984 | 12 | 31 | 3 | 26 | |||||||||
1985 | 36 | 190 | 13 | 26 | |||||||||
1986 | 25 | 124 | 9 | 0 | 1.000 | 18 | 0 | ||||||
1987 | 53 | 411 | 21 | 65 | |||||||||
1988 | 26 | 133 | 3 | 0 | 1.000 | 100 | 147 | 5 | 4 | 1 | .974 | ||
1989 | 113 | 953 | 53 | 5 | 75 | .995 | 22 | 0 | |||||
1990 | 130 | 1187 | 104 | 7 | 101 | .995 | ─ | ||||||
1991 | 130 | 1220 | 99 | 8 | 84 | .994 | ─ | ||||||
1992 | 19 | 94 | 14 | 1 | 7 | .991 | 119 | 179 | 9 | 2 | 3 | .989 | |
1993 | 115 | 921 | 47 | 8 | 80 | .992 | 11 | 12 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
1994 | 横浜 | 130 | 1059 | 75 | 8 | 112 | .993 | ─ | |||||
1995 | 130 | 1132 | 71 | 11 | 111 | .991 | ─ | ||||||
1996 | 128 | 1002 | 71 | 7 | 104 | .994 | ─ | ||||||
1997 | 131 | 1018 | 64 | 7 | 99 | .994 | ─ | ||||||
1998 | 136 | 1163 | 68 | 12 | 104 | .990 | ─ | ||||||
1999 | 129 | 1113 | 69 | 12 | 94 | .990 | ─ | ||||||
2000 | 81 | 702 | 41 | 3 | 61 | .996 | ─ | ||||||
通算 | 1548 | 12642 | 837 | 97 | 1122 | .993 | 426 | 10 |
- 太字年はゴールデングラブ賞受賞年
表彰
- ベストナイン:1回 (1998年)
- ゴールデングラブ賞:10回 (1989年 - 1991年、1993年 - 1999年) ※受賞回数歴代4位タイ・一塁手部門歴代最多(2015年度発表時点)
- 日本シリーズMVP:1回 (1989年)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1998年)
- オールスターゲームMVP:1回 (1992年・第3戦)
- 月間MVP:1回 (1990年4月)
- 最優秀JCB・MEP賞:1回 (1992年)
- 優秀JCB・MEP賞:2回 (1995年、1997年)
- JA全農Go・Go賞:1回 (最多二・三塁打賞、1994年8月)
- ヤナセ・ジャイアンツMVP賞:1回 (1992年)
記録
- 初記録
- 初出場・初先発出場:1983年4月10日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(後楽園球場)、7番・一塁手で先発出場
- 初打席・初安打・初本塁打・初打点:同上、1回裏に右田一彦から右越満塁本塁打 ※史上16人目の初打席初本塁打(満塁本塁打は史上初)
- 節目の記録
- 100本塁打:1992年4月14日、対広島東洋カープ2回戦(東京ドーム)、7回裏に秋村謙宏から右中間へソロ ※史上168人目
- 1000試合出場:1992年7月1日、対阪神タイガース17回戦(東京ドーム)、5番・右翼手で先発出場 ※史上303人目(佐藤兼伊知と同日達成)
- 1000本安打:1993年8月29日、対広島東洋カープ18回戦(東京ドーム)、12回裏に望月秀通から左前安打 ※史上170人目
- 150本塁打:1995年9月7日、対読売ジャイアンツ24回戦(横浜スタジアム)、4回裏に木田優夫から2ラン本塁打 ※史上102人目
- 1500試合出場:1996年6月8日、対阪神タイガース10回戦(札幌市円山球場)、6番・一塁手で先発出場 ※史上116人目
- 1500本安打:1997年5月6日、対広島東洋カープ4回戦(広島市民球場)、2回表に加藤伸一から中前安打 ※史上71人目
- 300二塁打:1998年7月5日、対ヤクルトスワローズ11回戦(藤崎台県営野球場)、6回表に石井一久から右翼へ2点適時二塁打 ※史上20人目
- 1000三振:1999年5月27日、対ヤクルトスワローズ9回戦(明治神宮野球場)、2回表に石井一久から ※史上24人目
- 2000試合出場:2000年4月30日、対広島東洋カープ6回戦(横浜スタジアム)、5番・一塁手で先発出場 ※史上31人目
- 350二塁打:2000年6月15日、対読売ジャイアンツ12回戦(東京ドーム)、2回表に桑田真澄から左翼線二塁打 ※史上20人目
- 2000本安打:2000年9月6日、対中日ドラゴンズ22回戦(ナゴヤドーム)、3回表に野口茂樹から左翼線二塁打 ※史上29人目
- 3000塁打:2000年9月17日、対読売ジャイアンツ27回戦(東京ドーム)、4回表に上原浩治から中前安打 ※史上35人目
- その他の記録
- 25試合連続安打(1999年5月18日 - 6月17日)
- シーズン29併殺打(1994年、セ・リーグ記録)
- プロ野球通算55000号本塁打:1987年9月7日、対横浜大洋ホエールズ24回戦(横浜スタジアム)、5回表に欠端光則から2ラン本塁打
- プロ野球通算70000号本塁打:1997年9月9日、対読売ジャイアンツ23回戦(東京ドーム)、4回表にバルビーノ・ガルベスから右中間へソロ
- 代打の代打で満塁本塁打:1989年4月16日、対広島東洋カープ戦 ※NPB史上4人目
- オールスターゲーム出場:6回(1990年 - 1992年、1995年、1997年、1998年)
背番号
- 50(1981年 - 1987年、2016年 - 2019年)
- 10(1988年 - 2000年)
- 75(2005年)
- 73(2009年)
出演
野球解説
- tvkプロ野球中継 横浜DeNAベイスターズ熱烈LIVE(tvkのプロ野球中継)
- 文化放送ホームランナイター
- 文化放送ライオンズナイター
- スカイ・Aスタジアム LIVE RAKUTEN わしづかみ
- 断然 パ・リーグ主義!!
- TwellV プロ野球中継
- 「がんばろう東北」東北楽天ゴールデンイーグルス野球中継
- 侍プロ野球(TBSニュースバード制作の横浜DeNA主催試合、2011年 - )
- STVアタックナイター(STVラジオ)(2006年 - 2008年、2011年 - )
- ニッポン放送ショウアップナイター(ニッポン放送)(2001年 - 2004年)
- 全力闘球(テレビ東京系列のプロ野球中継)(2002年 - 2004年、2006年 - 2008年)
- 激生!スポーツTODAY(テレビ東京)
- スポーツ魂(テレビ東京)
- メガスポ!(テレビ東京)
- サンデーモーニング(TBS)
- TBC Exciting Ballpark 〜がんばれ! EAGLES〜(TBCテレビのプロ野球中継)(2008年)
- TBCイーグルスナイター(TBCラジオのプロ野球中継)
- TVhファイターズ中継
バラエティ
- これからはパ・リーグだ!(2011年、TOKYO MX) 解説担当
ドキュメンタリー
映画
- ミスター・ルーキー(2002年、東宝) 武藤秀吾 役[74]
- エクレール・お菓子放浪記(2011年5月21日公開) 重田 役
ドラマ
- NHKドラマ8 「バッテリー」(2008年、NHK) 稲村満男 役
- Lドラ・サギ師リリ子(2009年、テレビ東京) 近藤部長 役
- 警視庁捜査一課9係 season8 第6話(2013年、テレビ朝日) 焼き鳥屋主人 役
- 激辛ドM男子(2015年、テレビ東京) 中学生アイドルのマネージャー 役
テレビコマーシャル
ラジオ
- 駒田徳広のミュージックブルペン(2012年 - )
- オヤジ歌謡ショーひょうたんから駒田!(2012年 - )
- 熱血コマスポ(2015年 - )
- 駒田徳広 満塁ナイト(2013年 - 、文化放送発NRNネット)※プロ野球ナイター中継の無い土曜日に「SET UP!!スペシャル」第1部として不定期放送
DVD
- 『プロ野球の練習法から―新しい「理論」と「実践」を指導―』打撃編 (2003年) ティアンドエイチ株式会社
著書
- 『プロ野球場外乱闘!』(角川oneテーマ21:2001年7月) ISBN 978-4047040434
- 『問いただす“間違いだらけ”の打撃指導』(ベースボール・マガジン社:2011年6月) ISBN 978-4583103686
- 『DVDで“勝つ!野球”バッティング最強のコツ60 (コツがわかる本!)』(メイツ出版:2013年11月) ISBN 978-4780413106
脚注
- ^ 本名の読みは「とくひろ」だが、入団時に「のりひろ」と呼称され、そのままうやむやになって本人も使い分けているという(『FLASH』2012年3月20日号での本人のインタビューより)。
- ^ 満塁男・駒田徳広の新記録は最後のグランドスラム[リンク切れ]
- ^ 【5月2日】1984年(昭59) 満塁男・駒田徳広 2年連続1号はグランドスラム
- ^ 2012年11月17日、朝日新聞・奈良版、朝刊
- ^ 2012年11月19日、朝日新聞・奈良版、朝刊
- ^ 『問いただす“間違いだらけ”の打撃指導』(ベースボール・マガジン社:2011年6月)
- ^ 同じ試合の次の打席も満塁で迎え、満塁本塁打を放つ。しかし投手・駒田が藤本博史に満塁本塁打を浴びてチームは8-13で敗退している。
- ^ “[虎四ミーティング]駒田徳広(プロ野球解説者)<前編>「“無死満塁で敬遠”伝説の真相」(2/5)”. 現代ビジネス Sportsプレミア (2013年2月8日). 2014年8月10日閲覧。
- ^ 週刊読売1980年12月号
- ^ 首都圏以外のチームに指名された場合、東海大学に進学することを検討していたという[要出典]。
- ^ 2012年11月27日、朝日新聞・奈良版、朝刊
- ^ メジャーリーグでは2010年現在5人達成しているが、日本プロ野球では1995年、ダイエーのケビン・ミッチェルと駒田の2人だけであり、日本人選手としては現在、駒田のみである。
- ^ “意外な選手が多い?初打席で本塁打を放った選手たち”. BASEBALL KING (2018年3月11日). 2020年7月18日閲覧。
- ^ 「50番トリオ」のみ“新50番トリオだ!藤村、大田…そして円谷V打”. Sponichi Annex (2011年5月18日). 2018年3月2日閲覧。
- ^ 駒田徳広、“王貞治二世”にはなれなかった
- ^ 駒田は「ナイター後、シャワーも浴びず荒川さんのもとに通う日が続きました。練習が終わるのは午前1時ごろでした。息を止めて何十回と素振りをする。日本刀でつるした新聞紙の短冊を切る。オフは朝から合気道の稽古。様々な練習をしました。年末年始も休みはなかった」と、当時の練習の厳しさを語っている(2012年12月2日、朝日新聞・奈良版、朝刊)。
- ^ 合わなかったダウンスイング
- ^ 2012年12月2日、朝日新聞・奈良版、朝刊
- ^ 巨人時代の4番打者としての通算成績は、34試合、打率.376、7本塁打、14打点(1988年 - 1992年)。
- ^ しかし駒田本人は、実際には加藤の発言そのものに怒っていたわけではなく、場外ホームランだと思っていたことと、この一打で勝利を確信したことなどから興奮の余り「こぉんの!! バ〜カヤロ〜!!!」と叫んだが、「『バ〜カ』ってところだけ強烈に口を大きく開けて言ったもんだから。それがテレビで写っちゃって」と後年回想している。また「加藤本人にも多分聞こえてなかったと思います。聞こえてたのは金村義明くらいでしょう」とも述べている(『プロ野球乱闘読本』オークラ出版 2008年4月より要約)。
- ^ また駒田はこの「バ〜カ!!!」発言以降、人格が変わるとの風評が立ち、相手チームからの内角の厳しいボールがめっきり減った気がするとも述べている(2006年12月20日付東京スポーツ、駒田が連載していたコラム『俺の話を聞け!』より)。
- ^ a b “まさかのFA宣言! 駒田徳広「長嶋巨人を自ら去った男」【プロ野球世紀末ブルース】 - エキサイトニュース(2-4)”. excite. 2018年3月2日閲覧。
- ^ 駒田は後年、「中畑さんは猛ノックでチームを立て直すという考え方。<中略>中畑さんとは頻繁に衝突しました。考え方が決定的に違ったのです」と述べている(2012年12月04日、朝日新聞・奈良版、朝刊)。
- ^ 駒田徳広「バントおもしろくない」中畑コーチに反発
- ^ FA移籍を選択した背景には、恩師の藤田元司のアドバイスがあったと言われる(『プロ野球「トレード&FA」大全』洋泉社編集部)。なお、中日ドラゴンズ、千葉ロッテマリーンズも駒田獲得に名乗りを上げている。
- ^ 駒田は12月9日に横浜市内のホテルで入団会見を行い、その席上で「大変やりがいを感じる。(横浜に)骨をうずめるつもりで頑張る。(横浜は)球場が街の真ん中にあって格好いいね」、「打率3割、本塁打30本ぐらいの結果を出しチームに貢献したい」と抱負を語っている。
- ^ 駒田の巨人軍史における位置づけについて。『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。1989年の日本シリーズMVP受賞が掲載され、簡単な経歴も添えられている。なお、同書では、槙原、吉村はいずれも単独でのエピソードが紹介されている。
- ^ 駒田の年俸1億2000万円と巨人への獲得保障金(駒田の前年度年俸の1.5倍の額)の合計額は約3億円であり、高木(推定年俸9840万円)、屋鋪(推定年俸4800万円)、大門(推定年俸2700万円)、山崎(推定年俸2700万円)、市川(推定年俸1900万円)、松本(推定年俸2040万円)の年俸の合計額は約2億4000万円である。しかし、横浜球団は駒田獲得と大量解雇の関係を明確に否定している。駒田獲得資金の総額については、スポーツニッポンは総額3億6千万超、コストカット額は前述の6選手と引退する斉藤明夫、その他戦力外になった5選手の年俸を加えて3億8千万としている[1]。
- ^ 村瀬秀信著、4522敗の記憶 ホエールズ&ベイスターズ涙の球団史 (双葉文庫) 文庫、P250
- ^ 巨人からFAで国内の他球団に移籍したのは駒田以外では小久保裕紀、サブロー、鶴岡一成、小笠原道大がいるが、全て移籍選手である(小久保、サブロー、鶴岡は前所属球団に復帰)。海外移籍では松井秀喜、上原浩治、高橋尚成がいる。
- ^ 駒田徳広氏は横浜入団発表前日に「現状維持でいいよな?」
- ^ プロ入り18年目での初受賞は当時、遅咲きの新記録。
- ^ 10年ひと昔…横浜、駒田徳広の一撃で38年ぶりの日本一[リンク切れ]
- ^ 横浜時代のみでは738試合であり、2012年現在、連続試合出場の横浜球団記録。
- ^ 1990年代の10年間、日本プロ野球において野村謙二郎に次いで2番目に安打を放っている(1459本)。
- ^ 事件の背景には、右投手(ネイサン・ミンチー)に対し(当日2打席2三振ではあったものの)左打者の自分を下げて右打者(中根仁)を代打に送ったことと、当時チームは最下位であったにも関わらずバントやミーティングをしないなど、攻撃面では特別な工夫をしない権藤博の監督采配に対する鬱積した不満もあったと言われる。
- ^ あと30本 駒田徳広 職場放棄「2軍でも何でもいいや!」
- ^ “【私の失敗(4)】駒田徳広、権藤監督と“確執”…代打出され試合中に帰宅”. SANSPO.COM (2015年7月17日). 2018年3月2日閲覧。
- ^ 読む野球-9回勝負-No.6、主婦の友社、P172
- ^ 就任時、「技術的なものは(年長で打撃チーフコーチ格の)杉村さんがいるのだから、自分の仕事は少ないと思う。選手とのコミュニケーションを大事にして、強かった頃の1番、2番コンビを復活させたい」と語っている。
- ^ 常磐大「駒田効果」[リンク切れ]
- ^ 駒田徳広氏 新監督就任のお知らせ - 高知ファイティングドッグス公式サイト(2015年12月8日閲覧)
- ^ “高知FDが5連勝で3位に 後期終了”. 高知新聞. (2016年9月17日) 2016年11月3日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “高知FD 駒田監督1年目の総括(下) 自分を変えなければ”. 高知新聞. (2016年10月9日) 2016年11月3日閲覧。
- ^ 高知FD 駒田徳広監督続投のお知らせ - 四国アイランドリーグニュースリリース(2018年11月1日)
- ^ “高知FD奇跡の逆転優勝ならず 大一番で香川に零封負け 徳島が前期V”. 高知新聞. (2019年6月5日) 2019年6月5日閲覧。
- ^ a b 高知FD 駒田徳広監督退任のお知らせ - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2019年7月12日)
- ^ “駒田監督ありがとう 高知FD地元最終戦 ファンと笑顔で別れ”. 高知新聞. (2019年9月11日) 2019年10月31日閲覧。
- ^ 元巨人、横浜の駒田徳広 「独立リーグ監督」と「バーマスター」の二刀流
- ^ 駒田徳広監督プロデュースBAR 「KOMA’S HOUSE」オープン!
- ^ 「おおらかにやりたいが…」元“満塁男”駒田徳広さんの葛藤
- ^ “高知FD・駒田バー10/25閉店 監督は10/2まで出勤”. 高知新聞. (2019年10月1日) 2019年10月31日閲覧。
- ^ 全満塁本塁打の内訳。第1号:1983年4月10日(後楽園)大洋・右田から。第2号:1984年5月2日(後楽園)代打で大洋・遠藤から。第3号:1988年4月23日(東京ドーム)大洋・岡本から。第4号:1989年4月16日(東京ドーム)代打で広島・紀藤から。第5号:1989年5月3日(東京ドーム)阪神・遠山から。第6号:1994年4月21日(神宮)ヤクルト・宮本から。第7号:1995年9月22日(横浜)広島・小林敦から。第8号:1996年5月4日(ナゴヤ)中日・中山から。第9号:1996年8月22日(東京ドーム)巨人・河野から。第10号:1997年7月16日(東京ドーム)巨人・趙から。第11号:1998年4月18日(横浜)中日・山本昌から。第12号:1998年5月10日(下関)広島・小林幹から。第13号:1999年8月19日(横浜)阪神・湯舟から。
- ^ 満塁男・駒田徳広 2年連続1号はグランドスラム
- ^ 満塁男・駒田徳広の新記録は最後のグランドスラム
- ^ 引退から9年がたった横浜のコーチ時代も、試合前のフリーバッティングでサク越えを連発し、若手選手を唖然とさせたという[2]。
- ^ 巨人時代に駒田を指導した松原誠は「駒田は感性で打つ面と理論で打つ面が半ば混在するバッターである為、どちらのタイプとして攻めたら良いかわからなかったのでは」と分析している。
- ^ 達川光男は現役時代の印象に残っている選手として駒田の名を挙げており、「とにかくわからん選手だった」と評している。巨人時代、腹を壊していた駒田がトイレからあわてて戻ってきて素振りもせずにバッターボックスに入ったことがあった。そんな状態じゃ初球になんか手を出さないだろうと達川は踏んでいたが、「すいません、お待たせしました」と言われた次の瞬間、ボールはライトスタンドへ飛んで行った。歓声が沸く中、駒田は全力疾走でダイヤモンドを周り、最後には腹を押さえながら再びトイレに駆け込んだという。達川は当時のことを「あれは本当に腹を壊していたと思うんですよ。あれでついには2000本(安打)打ちましたからね。わからんもんですよね」と述べている[要出典]。
- ^ “併殺打【通算記録】”. 歴代最高記録. 日本野球機構. 2019年9月2日閲覧。
- ^ Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 url と title は必須です。“[ ]”. 2020年7月12日閲覧。
- ^ 駒田徳広(プロ野球解説者)<前編>「“無死満塁で敬遠”伝説の真相」 現代ビジネス(講談社)2013年2月8日
- ^ 巨人時代の守備走塁コーチだった江藤省三は、『駒田はプロ入り当初から誰に教わるでもなくグラブ捌きがグニャグニャしすぎるくらい柔らかく、みんなが驚いたことを覚えている』と語っている。また、駒田は体は大きいが俊敏で当時は足も速く、元々器用だった選手がそのまま体が大きくなったのでは、と分析し、長身も含め一塁手としては理想的だったと語っている(2000年2月21日発行『週刊ベースボール』ベースボールマガジン社)。子供のころからショートバウンドボールの捕球は上手かったというが、プロ入り後はルーキーイヤーに同僚だったタコ足捕球の名一塁手・松原誠や、同じく一塁守備の上手かった山本功児に捕球のコツを教わったり、レギュラー一塁手の中畑清とショートバウンド送球を投げ合って捕球練習をしたという。
- ^ 立浪和義(中日ドラゴンズ)は、自身の現役時代に守備の上手かった一塁手として駒田を挙げ、「適当に捕っている感じだが、球がグラブにちゃんと収まっている感じがすごい」という表現で、ショートバウンド送球の捕球技術を評価している(立浪和義著『攻撃的守備の極意 ポジション別の鉄則&打撃にも生きるヒント』廣済堂出版)。
- ^ 松原誠は、駒田との対談の中で、駒田はバント処理の際、(現役選手の中で)「一番前に出」て相手打者にプレッシャーをかけている一塁手だと評価している(1999年12月20日発行『週刊ベースボール』ベースボールマガジン社より)。
- ^ シーズン全試合出場8度は史上7位の記録(2012年現在)。
- ^ 夏場にストッキングを履くと疲れやすくなるという理由から1992年、ストッキングを履かずにユニフォームのパンツの裾に黒のゴムをつけた。外から見て、ゴムをストッキングのように見せるメリットがあった。現在では大リーグも含めそのスタイルが定着しているが、当時駒田はソックスにゴムを掛けていた(最近はスパイクの底にゴムを引っ掛ける形が主流)。当時監督の藤田には「いろいろ考えるものだね」と感心されたというが、横浜に移籍した当時には裾がくるぶしまでかかるパンツが定着していた為、やめてしまったという[要出典]。
- ^ アンダーシャツにもこだわりがあり、巨人時代、灰色の半袖アンダーシャツを着用することがたびたびあった。チームのアンダーシャツは統一されていなければならず、本来であれば規則違反であるが、黒に近かったためか黙認されていた。優勝後のビールかけで水中メガネを使用した第1号の選手でもある(1989年)。また、試合では使用しなかったが、ルイ・ヴィトンの革を使ったファーストミットを作ったことがある[要出典]。
- ^ "プロ雀士の駒田真子が東谷達矢と結婚 父は元巨人". ニッカンスポーツ・コム. 日刊スポーツ新聞社. 27 December 2019. 2020年1月17日閲覧。
- ^ 駒田さんに乾杯! - 沢田聖子オフィシャルブログ 2018年7月20日
- ^ 「爆報!THE フライデー ~ワイドショーを騒がせ続けた女~」2018年7月20日(金)放送内容 - 価格.com
- ^ 元巨人、横浜の“満塁男”駒田徳広氏 高知で伝説のバーを再開していた - デイリースポーツ 2018年7月20日
- ^ 2006年6月19日発行『週刊ベースボール』ベースボールマガジン社より。
- ^ SUNTORY SATURDAY WAITING BAR 2003年6月7日の放送 2012年8月時点のアーカイブ
- ^ 巨人を模したと思われる球団「東京ガリバーズ」の4番打者として出演し、甲子園球場で撮影されたホームランを打つシーンでは、実際に左中間スタンドに飛球を叩き込んでいる。
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 駒田徳広 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
- 駒田徳広公式ブログ「駒田徳広の何でも言いますよ」
- 株式会社 サディーカ