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はじめ郡に出仕し五官掾功曹となった。[[劉備]]が[[白帝城|永安]]で没すると、[[蜀漢|蜀]]を侮った[[雍闓]]らは[[呉 (三国)|呉]]と通じ反乱を起こした。 |
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雍闓は呉により永昌[[太守]]に任命された。当時の永昌郡は[[成都]]方面からの道が途絶していたが、呂凱は永昌郡の府丞である[[王伉]]と協力し、国境を閉鎖して雍闓の侵攻を防いだ。雍闓は檄文を度々送って脅迫したが、呂凱は道理を尽くして反論し、[[劉禅]]と[[諸葛亮]]に服属するよう、逆に雍闓らに勧めた。呂凱の威儀と恩愛は広く知れ渡っていたため、永昌の地を守り抜き節義を全うすることができた。 |
2020年8月13日 (木) 06:32時点における版
呂凱 | |
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蜀漢 雲南太守・陽遷亭侯 | |
出生 |
生年不詳 益州永昌郡不韋県 |
死去 | 没年不詳 |
拼音 | Lǚ Kǎi |
字 | 季平 |
主君 | 劉備→劉禅 |
呂 凱(りょ がい、生没年不詳)は、中国三国時代の武将・政治家。字は季平。益州永昌郡不韋県の人。子は呂祥。『三国志』蜀志に伝がある。
生涯
秦の時代、呂不韋とその一族は始皇帝の命令で巴蜀の地に流された。前漢の武帝の時代になって不韋県が置かれ、呂氏はそこに移住して異民族の教化政策の任を果たした。これが呂凱の先祖であると言われている(孫盛『蜀世譜』)。
はじめ郡に出仕し五官掾功曹となった。劉備が永安で没すると、蜀を侮った雍闓らは呉と通じ反乱を起こした。
雍闓は呉により永昌太守に任命された。当時の永昌郡は成都方面からの道が途絶していたが、呂凱は永昌郡の府丞である王伉と協力し、国境を閉鎖して雍闓の侵攻を防いだ。雍闓は檄文を度々送って脅迫したが、呂凱は道理を尽くして反論し、劉禅と諸葛亮に服属するよう、逆に雍闓らに勧めた。呂凱の威儀と恩愛は広く知れ渡っていたため、永昌の地を守り抜き節義を全うすることができた。
225年、諸葛亮は南征の軍を起こしたが、それ以前に雍闓は高定の部下に殺害されている。諸葛亮は南中の地に到着すると、呂凱・王伉の功績を上奏し賞賛した。
同年春3月から秋にかけて、南中の反乱を鎮圧した諸葛亮は益州郡を建寧郡と改名し、建寧郡と永昌郡の一部を割いて雲南郡を新設した(「後主伝」・「諸葛亮伝」)。呂凱はその雲南太守に任命され、陽遷亭侯に封じられた。
12月に諸葛亮は成都に帰還した(「後主伝」)が、南蛮は再び反乱を起こし、呂凱は反乱軍に殺害された。子の呂祥が跡を継いだ。
呂祥は蜀漢が滅ぶと晋に仕え、南夷校尉に任命された。子孫は代々永昌太守となり、成漢の李雄が永昌郡に進出した際には服属を拒否したという(『蜀世譜』)。
陳寿は呂凱について「節操を守り微動だにしなかった。自己の長所によって名声を得たのは時代に必要とされたからだ」と評している。
物語の中の呂凱
小説『三国志演義』でも王伉と共に永昌郡を守り抜いた人物として登場し、南蛮征伐に来た諸葛亮に「平蛮指掌図」を献上している。しかし、『三国志演義』の原典となった『三国志平話』や『花関索伝』などでは、蜀軍と敵対して関索と一騎討ちをしている。