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秦はこの勝ちに乗じて魏に攻め入り、公孫胡昜は巻・蔡陽・長社を取り魏は南陽を差し出して秦と和を結んだ<ref>『史記』巻五 秦本紀 第五</ref>。 |
秦はこの勝ちに乗じて魏に攻め入り、公孫胡昜は巻・蔡陽・長社を取り魏は南陽を差し出して秦と和を結んだ<ref>『史記』巻五 秦本紀 第五</ref>。 |
2020年8月13日 (木) 04:28時点における版
公孫 胡昜(こうそん こしょう、生没年不詳)は、中国戦国時代の秦の武将・客卿(かくけい)。またの名を胡傷[1]・胡陽[2]とも。
経歴
華陽の戦い
紀元前273年、趙と魏は韓の重要な城邑である華陽(現在の河南省鄭州市新鄭市)を攻めた。韓の相国は陳筮に頼んで秦に救援を求め、秦の昭襄王は白起を派遣し、秦の宰相魏冄は客卿の公孫胡昜の軍を韓の救援に派遣した。秦軍は8日で華陽の戦場に到着し、不意を突かれた趙と魏の連合軍は秦軍に敗退し、魏は13万の将兵が首を討たれ、3名の将軍が捕虜となり魏将の芒卯は敗走し、趙将の賈偃も秦軍に敗れ2万の趙兵が黄河に沈められた[3]。
秦はこの勝ちに乗じて魏に攻め入り、公孫胡昜は巻・蔡陽・長社を取り魏は南陽を差し出して秦と和を結んだ[4]。
閼与の戦い
紀元前269年、公孫胡昜は趙の閼与を攻めるが、趙奢の奇策にはまり、大敗した。この敗戦以後彼に関する詳細や記録は歴史資料には見られない[5]。