「銭道戢」の版間の差分
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[[569年]]([[太建]]元年)、[[欧陽コツ|欧陽紇]]が広州で反乱を起こし、衡州を攻撃してくると、道戢は欧陽紇の軍を撃退した。都督の[[章昭達]]が兵を率いて欧陽紇を討つと、道戢はその下で歩軍都督となり、間道を通って欧陽紇の後背を遮断した。[[570年]](太建2年)、欧陽紇の乱が平定されると、道戢は左衛将軍の号を受けた。 |
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子の銭邈が後を嗣いだ。 |
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2020年8月13日 (木) 02:54時点における版
銭 道戢(せん どうそう、511年 - 573年)は、南朝梁から陳にかけての軍人。字は子韜。本貫は呉興郡長城県。
経歴
梁の漢寿県令の銭景深の子として生まれた。陳霸先の従妹を妻に迎えた。542年(大同8年)、陳霸先の下で盧子略に包囲された広州を救援し、浜江県令に任じられた。556年(紹泰2年)、陳蒨の下で会稽郡の張彪を討ち、功績により直閤将軍の位を受け、員外散騎常侍・仮節・東徐州刺史に任じられ、永安県侯に封じられた。侯安都の下で3000の兵を率いて梁山に駐屯し、まもなく銭塘県令・余杭県令を兼ねた。559年(永定3年)、臨川王陳蒨の下で南皖口に駐屯した。560年(天嘉元年)、剡県令を兼ね、県の南の岩山に駐屯した。まもなく岩山に駐屯したまま、臨海郡太守となった。
561年(天嘉2年)、侯安都が留異を討つと、道戢は軍を率いて松陽に出て留異の後背を遮断した。562年(天嘉3年)、留異の乱が平定されると、道戢は功績により持節・通直散騎常侍・軽車将軍・都督東西二衡州諸軍事・衡州刺史に任じられ、始興郡内史を兼ねた。
569年(太建元年)、欧陽紇が広州で反乱を起こし、衡州を攻撃してくると、道戢は欧陽紇の軍を撃退した。都督の章昭達が兵を率いて欧陽紇を討つと、道戢はその下で歩軍都督となり、間道を通って欧陽紇の後背を遮断した。570年(太建2年)、欧陽紇の乱が平定されると、道戢は左衛将軍の号を受けた。
章昭達が後梁の蕭巋を討つと、道戢は陸子隆とともに別軍を率いて後梁の戦艦を焼き討ちし、安蜀城を攻め落とした。功績により散騎常侍・仁武将軍の位を加えられた。この年のうちに、仁威将軍・呉興郡太守に転じた。赴任しないうちに、使持節・都督郢巴武三州諸軍事・郢州刺史に転じた。573年(太建5年)、呉明徹による北伐がおこなわれると、道戢は儀同の黄法𣰰とともに歴陽を包囲して陥落させた。功績により雲麾将軍の位を加えられた。この年の11月、病のために死去した。享年は63。諡は粛といった。
子の銭邈が後を嗣いだ。