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2020年8月13日 (木) 02:24時点における版
増田 立軒(ますだ りっけん、延宝元年(1673年) - 寛保3年8月14日(1743年10月1日))は、江戸時代初期の儒学者。名は謙之。字は益夫。通称は文内、平内。別号は清世逸人、不染居士。
生涯
京都留学
元禄4年(1691年)、両親の命で医術を学ぶため京都に上り、伏見京町南八丁目の中村惕斎に漢学を学んだ[1]。元禄8年(1695年)秋、姉の病気見舞のため帰国後、2月14日弟公房を伴って京都に戻った[1]。元禄10年(1697年)8月21日、惕斎に従って大坂、奈良、淀を廻り、帰京した[1]。元禄11年(1701年)、惕斎は東九条宇賀辻村(京都市南区東九条東札辻町)に転居した[1]。元禄12年(1699年)9月20日夜、惕斎に学統を継ぐよう嘱望され、元禄15年(1702年)惕斎が死去すると、その養子となって学塾を継ぎ、京都に住み続けた[1]。
徳島藩儒
宝永5年(1708年)3月、宝永の大火に罹災し、徳島に帰って藩医の兄昌慶宅に滞在していたところ、9月18日阿波藩主蜂須賀綱矩に15石7人扶持で出仕を命じられ、綱矩と嫡子蜂須賀吉武の侍講を務めた[1]。正徳4年(1714年)3月2日、兄が乱心自殺し、藩医増田家が断絶すると、滞在中の屋敷をそのまま与えられた[1]。享保7年(1722年)11月200石加増[1]。
享保10年(1725年)、世継ぎであった江戸で蜂須賀吉武が死去し、享保13年(1728年)綱矩も隠居し、蜂須賀宗員が藩主に即位した。宗員は5月に帰国し、立軒は9月から侍講を務めた[1]。享保19年(1734年)12月綱矩年譜、享保20年(1735年)5月吉武年譜を作成した[1]。享保20年(1735年)宗員が死去し、新藩主蜂須賀宗英の侍講を務める[1]。元文元年(1736年)6月、蜂須賀氏歴史書『渭水聞見録』が完成した。元文4年(1739年)12月宗英が隠居し、元文5年(1740年)5月新藩主蜂須賀宗鎮が帰国、侍講を務めた[1]。
寛保3年(1743年)8月14日死去[1]。享年は大正時代に「八十前後ならん」とされた[2]のが誤伝され、享年80とされてきたが、東京在住の増田家系図、過去帳により、享年71と判明した[3]。墓所は徳島県徳島市の臨江寺[1]。
徳島藩学問処では、増田立軒の影響により、幕末まで惕斎の著書を中心に講義が行われた[4]。
関わった著作
校点
- 『四書章句集註鈔説』12巻 - 元禄3年(1690年)惕斎序、宝永5年(1708年)3月刊。「大学」1巻、「中庸」2巻、「論語」5巻、「孟子」4巻。大坂で盗板を受けて中村孟幹が刊行したものだが、時期的に立軒が主力での出版と推測される[4]。
- 『五経筆記』63巻 - 「周易本義」16巻、「書集伝」12巻、「詩集伝」16巻、「礼記集説」15巻、「春秋胡氏伝」4巻からなる大著。家老長谷川貞雄の援助等を受けて、長期に渡って刊行された[4]。
- 『詩経示蒙句解』18巻 - 享保13年(1728年)立軒序[4]。
編著
- 『孝経刊誤集解』 - 元禄9年(1696年)6月序、元禄17年(1704年)1月刊。惕斎著『孝経集説』をもとに、董鼎撰『孝経大義』の節を取り入れて編集したもの[4]。
- 『講学筆記』3巻 - 寛保3年(1743年)閏4月立軒門露木高篤跋[4]。
和文注解
- 『慎終疏節聞録』 - 惕斎著『慎終疏節』の注釈書。元禄15年(1702年)7月26日惕斎死去後にまとめられ、閏8月21日立軒序。無窮会平沼文庫所蔵[4]。
- 『追遠疏節聞録』 - 惕斎著『追遠疏節』の注釈書。享保15年(1730年)母死去後にまとめられた。内閣文庫、無窮会平沼文庫所蔵[4]。
- 『入学紀綱句解』 - 惕斎著『入学紀綱』の注釈書。享保13年(1728年)12月序[4]。
独自の著書
- 『惕斎先生行状』 … 中村惕斎の伝記。遺言に従って撰す。黄榦「朱子行状」を模範とした大作。寛保3年(1743年)閏3月露木高篤跋、延享3年(1746年)9月刊[4]。
- 『仲子語録』5巻 … 中村惕斎の言行録。内閣文庫所蔵。
- 『渭水聞見録』4巻 - 元文元年(1736年)6月引。大永元年(1521年)蜂須賀正利から享保20年(1735年)蜂須賀宗員死去までの歴代事蹟を編年体で記す[1]。
- 『聞録周易伝義』 - 昭和53年(1978年)東京の古書店で発見され、徳島大学附属図書館に蔵められた。安永7年(1778年)4月米本貞之序[4]。
- 『楽説紀聞』
- 『立軒雑記』
増田家
増田家は曽祖父から父の代まで代々徳島藩医を務めていたが、立軒の兄の代で断絶した。立軒が藩儒に採用されて以降、藩儒としての増田家は幕末まで続いた。
親族
- 曽祖父:増田孫右衛門道益 - 石川織部は長宗我部元親に仕え、荻野織部を討った後、阿波国海部郡で剃髪して道益と号した[1]。その後、徳島で徳島藩主蜂須賀家政に仕え、大坂の陣に蜂須賀至鎮の侍医として従軍した[1]。
- 祖父:増田策庵玄甫 - 初名は正太夫、江戸で曲直瀬玄朔に学び、寛永15年(1638年)150石、屋敷拝領、延宝2年(1674年)病没した[1]。
- 父:増田策庵玄胡 - 初名は宗扁、8度参勤交代に従い、250石に加増され、宝永2年(1705年)10月29日病没した[1]。
- 母:藩医竹内玄怡女、享保15年(1730年)3月11日没[1]。
- 妻:宝暦13年(1763年)8月23日没[1]。
- 養子:増田勇助玄興 - 兄昌慶長男、享保9年(1724年)縁組[1]。
子孫
幕末まで代々徳島藩儒を務めた。
- 増田平内謙之
- 増田勇助玄興 - 幼名は益太郎、通称は勇助、字は伯志、号は謹宇、止善軒、明和8年(1771年)5月19日70で没[1]。
- 増田高迢 - 玄興次男。号は乙秀。安永5年(1776年)7月12日18で病没[4]。
- 増田騆助匡芳 - 藩士長谷川十五兵衛興澄次男。寛政2年(1790年)3月江戸に出て柴野栗山に学ぶも、寛政3年(1791年)9月26日病没[4]。
- 増田哲次希哲 - 藩医新居荘筑三男。字は明卿、号は衡亭。明和7年(1770年)生、寛政4年(1792年)8月江戸に出て柴野栗山に学ぶ。『渭水聞見録』を書き継ぐ。天保12年(1841年)1月29日病没[4]。
- 増田幸之助季彦 - 女婿団惣兵衛景永次男。号は竜瀕。慶応2年(1866年)1月24日没[4]。
- 増田希周[4]
関連項目
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 竹治貞夫「増田立軒の事跡と学問(上)」『徳島大学学芸紀要 人文科学』28、1978年
- ^ 神河庚蔵編『阿波国最近文明史料』神河庚蔵、大正4年
- ^ 岡本対南『花竹秀処間録』芳川堂、昭和30年
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 竹治貞夫「増田立軒の事跡と学問(下)」『徳島大学学芸紀要 人文科学』29、1979年
参考文献
- 原念斎『先哲叢談』(平凡社・東洋文庫、1994年)
- 三好昭一郎・大和武生『徳島県の教育史』(思文閣出版、1983年)