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[[1918年]](民国7年)、参議院議員となる。同年10月には、交通部次長兼鉄路総弁となった。翌年、川粤漢鉄路督弁となる。同年6月、[[銭能訓]]内閣で[[五四運動]]により辞任した[[曹汝霖]]の後任として、代理交通総長となる。そのまま12月には、[[靳雲鵬]]内閣で交通総長に正式に任命された。 |
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しかし、[[1920年]](民国9年)7月の[[安直戦争]]で安徽派が[[直隷派]]に敗北すると、曽毓雋は指名手配され、天津に逃げ込んだ。[[1924年]](民国13年)11月、段が臨時執政として復権すると、曽もその幕僚として復権した。ところが翌年、[[国民軍 (中華民国)|国民軍]]に逮捕・拘禁されてしまい、何とか逃亡した。[[国民政府]]の[[北伐 (中国国民党)|北伐]]完了後は、国民政府からも指名手配を受ける身となっている。 |
2020年8月12日 (水) 09:31時点における最新版
曽毓雋 | |
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Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: | 1875年8月5日[1] |
死去: |
1967年11月14日[1] 中華人民共和国天津市 |
出身地: | 清福建省福州府閩侯県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 曾毓雋 |
簡体字: | 曾毓雋 |
拼音: | Zēng Yùjùn |
ラテン字: | Tseng Yü-chun |
和名表記: | そう いくしゅん |
発音転記: | ゾン ユージュン |
曽 毓雋(そう いくしゅん)は清末中華民国の政治家。北京政府、安徽派に属した。字は雲沛または雲霈。
事績
[編集]1897年(光緒23年)、丁酉科挙人。清朝においては地方官職を歴任して、郵伝部参事まで至った。
中華民国成立後は、北京政府の交通部で各職を歴任し、1914年(民国3年)、陸軍部軍需処処長、張家口塩務稽核所経理となる。1916年(民国5年)、国務院秘書、京漢鉄路局長となる。翌年7月、段祺瑞の張勲討伐に随従し、討逆軍総司令部軍需処長に任じられた。これにより曽毓雋は、安徽派・交通系の政治家と目されることになった。
1918年(民国7年)、参議院議員となる。同年10月には、交通部次長兼鉄路総弁となった。翌年、川粤漢鉄路督弁となる。同年6月、銭能訓内閣で五四運動により辞任した曹汝霖の後任として、代理交通総長となる。そのまま12月には、靳雲鵬内閣で交通総長に正式に任命された。
しかし、1920年(民国9年)7月の安直戦争で安徽派が直隷派に敗北すると、曽毓雋は指名手配され、天津に逃げ込んだ。1924年(民国13年)11月、段が臨時執政として復権すると、曽もその幕僚として復権した。ところが翌年、国民軍に逮捕・拘禁されてしまい、何とか逃亡した。国民政府の北伐完了後は、国民政府からも指名手配を受ける身となっている。
1938年(民国27年)、南京の中華民国維新政府から任官の誘いを受けた。しかし曽毓雋はこれを拒否して香港に逃れた。同年6月、重慶に移る。国民政府から賑済委員会委員に任じられ、1941年(民国30年)5月までその地位にあった。中華人民共和国成立後は、天津に寓居している。
注
[編集]参考文献
[編集]- 「曾以鼎兄弟生卒年及其他」『福州晩報』(電子版)2002年8月27日〔要繁体字フォント〕
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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