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袁世凱死後の[[1916年]](民国5年)7月、范源濂は[[段祺瑞]]内閣の教育総長に再任された。翌年1月には内務総長を兼任代理している。[[府院の争い]]では段を支持して[[黎元洪]]と対立し、対ドイツ参戦問題では参戦支持を主張している。しかし6月、范は段の命により、議会を襲撃した公民団の説得に赴いたものの失敗したため、責任をとる形で休職する。[[張勲復辟]]の解決後に復帰したが、11月に辞職し、欧州へ教育視察に赴いた。
袁世凱死後の[[1916年]](民国5年)7月、范源濂は[[段祺瑞]]内閣の教育総長に再任された。翌年1月には内務総長を兼任代理している。[[府院の争い]]では段を支持して[[黎元洪]]と対立し、対ドイツ参戦問題では参戦支持を主張している。しかし6月、范は段の命により、議会を襲撃した公民団の説得に赴いたものの失敗したため、責任をとる形で休職する。[[張勲復辟]]の解決後に復帰したが、11月に辞職し、欧州へ教育視察に赴いた。


[[1920年]](民国9年)の[[安直戦争]]後も、范源濂は[[キン雲鵬|靳雲鵬]]内閣の教育総長として起用され、義務教育の整備に取り組んだ。翌年12月に教育総長を辞職し、欧米各国の教育視察に再び赴く。[[1923年]](民国12年)7月に帰国し、[[北京師範大学]]校長に就任して、教育者養成事業に取り組んだ。翌年9月に校長を辞したものの、中華教育基金会会長等をつとめ、引き続き教育事業に携わった。
[[1920年]](民国9年)の[[安直戦争]]後も、范源濂は[[靳雲鵬]]内閣の教育総長として起用され、義務教育の整備に取り組んだ。翌年12月に教育総長を辞職し、欧米各国の教育視察に再び赴く。[[1923年]](民国12年)7月に帰国し、[[北京師範大学]]校長に就任して、教育者養成事業に取り組んだ。翌年9月に校長を辞したものの、中華教育基金会会長等をつとめ、引き続き教育事業に携わった。


[[1927年]](民国16年)12月23日、天津にて病没。享年54。
[[1927年]](民国16年)12月23日、天津にて病没。享年54。

2020年8月12日 (水) 09:31時点における版

范源濂
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1874年光緒30年)[1]
死去: 1927年民国16年)12月23日
中華民国の旗 中華民国天津市
出身地: 清の旗 湖南省長沙府湘陰県
職業: 政治家・教育者
各種表記
繁体字 范源濂
簡体字 范源濂
拼音 Fàn Yuánlián
ラテン字 Fan Yüan-lien
和名表記: はん げんれん
発音転記: ファン ユエンリエン
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范 源濂(はん げんれん)は清末民初の教育者・政治家。清末は変法派の一員として活動し、中華民国成立後は北京政府で教育総長をつとめたことで知られる。静生

事績

変法派としての活動

初めは塾教師であった。1898年光緒24年)、湖南巡撫陳宝箴が創設した時務学堂に学ぶ。当時、梁啓超が総教習であり、その門下生として范源濂は新学に親しみ、変法思想を抱くことになる。戊戌の政変後、范も官憲に追われることとなる。唐才常とともに上海へ逃れ、南洋公学で学んだ。

1900年(光緒26年)、梁啓超らが横浜で開いた大同学校に、蔡鍔らとともに入学した。後に、東京高等師範学校に進学している。同年秋、唐の決起計画に加わるため、長沙に一時戻った。しかし、事が漏れて唐が逮捕されたため、再び日本に戻り、横浜東亜商業学校で学んだ。

1904年(光緒30年)、范源濂は帰国し、留学事業に携わった。その翌年からは清朝が創設した学部で各職を歴任し、学制の整備など様々な教育事業の事務に取り組んでいる。

中華民国教育制度の整備

中華民国成立後は、范源濂は梁啓超派として天津国民協進会の設立に奔走する。1912年民国元年)3月、同会の正式な設立と共にその常務幹事となった。5月、国民協進会が他の結社と合併して共和党が組織されると、范はその幹事となる。翌年5月に共和・民主・統一3党合併により進歩党が成立すると、これにも参加している。

范源濂は、北京政府初代教育総長蔡元培の下で教育部次長に就任している。蔡とともに新式教育のための改革推進、条規整備に邁進した。この2人により、「普通教育弁法」などの条規が制定されている。蔡はわずか3月で内閣総理唐紹儀とともに辞職に追い込まれたが、後任の陸徴祥内閣で范が後任の教育総長に就任した。范は改革をさらに推し進め、「学制令」、「小学校令」、「師範学校令」、「女子中学章程」、「大学令」、「専門学校令」など一連の条規を整備し、中華民国における近代教育の幕開けを導いた。

1913年(民国2年)2月、范源濂は病のため教育総長を辞任する。同年秋、上海に赴いて中華書局編輯長に就任した。ここでも范は、教育分野を重視し、様々な教科書の発行に従事している。後に袁世凱が皇帝即位をもくろむと、梁啓超・蔡鍔らとともに、反袁闘争である護国戦争第三革命)を支持した。

北京師範大学校長に

袁世凱死後の1916年(民国5年)7月、范源濂は段祺瑞内閣の教育総長に再任された。翌年1月には内務総長を兼任代理している。府院の争いでは段を支持して黎元洪と対立し、対ドイツ参戦問題では参戦支持を主張している。しかし6月、范は段の命により、議会を襲撃した公民団の説得に赴いたものの失敗したため、責任をとる形で休職する。張勲復辟の解決後に復帰したが、11月に辞職し、欧州へ教育視察に赴いた。

1920年(民国9年)の安直戦争後も、范源濂は靳雲鵬内閣の教育総長として起用され、義務教育の整備に取り組んだ。翌年12月に教育総長を辞職し、欧米各国の教育視察に再び赴く。1923年(民国12年)7月に帰国し、北京師範大学校長に就任して、教育者養成事業に取り組んだ。翌年9月に校長を辞したものの、中華教育基金会会長等をつとめ、引き続き教育事業に携わった。

1927年(民国16年)12月23日、天津にて病没。享年54。

  1. ^ 熊尚厚「范源濂」による。徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』は1876年生まれとする。

参考文献

  • 熊尚厚「范源濂」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第11巻』中華書局、2002年。ISBN 7-101-02394-0 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
蔡元培
教育総長
1912年7月 - 1913年1月
次代
劉冠雄
先代
孫洪伊
教育総長
1916年7月 - 1917年11月
(1917年6-7月袁希濤代理)
次代
傅増湘
先代
謝遠涵
内務総長(代理)
1917年1月 - 7月
次代
湯化竜
先代
傅嶽棻
教育総長
1920年8月 - 1921年12月
次代
黄炎培