コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「蔡成勲」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
NyokiBot (会話 | 投稿記録)
m カテゴリの変更 BOTREQによる
Cewbot (会話 | 投稿記録)
 
39行目: 39行目:
{{先代次代|[[綏遠省|綏遠]]都統|<small>[[1917年]]8月 - [[1921年]]5月</small>|[[陳光遠]]|[[馬福祥]]}}
{{先代次代|[[綏遠省|綏遠]]都統|<small>[[1917年]]8月 - [[1921年]]5月</small>|[[陳光遠]]|[[馬福祥]]}}
{{先代次代|[[甘粛省 (中華民国)|甘粛]]督軍|<small>[[1920年]]12月 - [[1922年]]5月<br>([[1921年]]5月より陸洪濤が<br>暫行護理)</small>|[[張広建]]|[[陸洪濤]]}}
{{先代次代|[[甘粛省 (中華民国)|甘粛]]督軍|<small>[[1920年]]12月 - [[1922年]]5月<br>([[1921年]]5月より陸洪濤が<br>暫行護理)</small>|[[張広建]]|[[陸洪濤]]}}
{{先代次代|陸軍総長|<small>[[1921年]]5月 - 12月</small>|[[キン雲鵬|&#x9773;雲鵬]]|[[鮑貴卿]]}}
{{先代次代|陸軍総長|<small>[[1921年]]5月 - 12月</small>|[[雲鵬]]|[[鮑貴卿]]}}
{{先代次代|[[江西省 (中華民国)|江西]]督理|<small>[[1922年]]6月 - [[1924年]]12月<br>(正式就任は1922年9月)</small>|[[陳光遠]](江西督軍)|[[方本仁]](江西督弁)}}
{{先代次代|[[江西省 (中華民国)|江西]]督理|<small>[[1922年]]6月 - [[1924年]]12月<br>(正式就任は1922年9月)</small>|[[陳光遠]](江西督軍)|[[方本仁]](江西督弁)}}
|}
|}

2020年8月12日 (水) 09:30時点における最新版

蔡 成勲
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1873年同治12年)
死去: 1946年民国35年)
中華民国の旗 中華民国天津市
出身地: 清の旗 直隷省天津府天津県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 蔡成勳
簡体字 蔡成勋
拼音 Cái Chéngxùn
ラテン字 Ts'ai Ch'eng-hsün
和名表記: さい せいくん
発音転記: ツァイ チョンシュン
テンプレートを表示

蔡 成勲(さい せいくん)は、清代から中華民国にかけての軍人。北洋系の軍人で、北京政府では直隷派に属した。虎臣

事績

[編集]

1900年光緒26年)、北洋武備学堂を卒業する。京畿附近駐屯軍副司令、督練処参議官、浙江第21鎮協統領などを歴任した。1912年民国元年)、北京大総統府侍従武官に任命される。翌年に陸軍第1師第1旅旅長、1914年(民国3年)に陸軍第1師師長と昇進していく。

1916年(民国5年)6月の袁世凱死後は直隷派に属し、翌年に第7軍軍長に昇進した。同年8月、綏遠都統を兼任した。民国9年(1920年)9月、甘粛督軍を兼任する。民国10年(1921年)5月、陸軍総長に就任したが、同年12月に辞任した。

1922年(民国11年)6月、督理江西軍務善後事宜に就任して、同省を統治した。1924年(民国13年)、配下である贛南鎮守使方本仁により下野に追い込まれた。以後、天津に戻り隠居した。

1946年(民国35年)、死去。享年74。

参考文献

[編集]
  • 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
陳光遠
綏遠都統
1917年8月 - 1921年5月
次代
馬福祥
先代
張広建
甘粛督軍
1920年12月 - 1922年5月
1921年5月より陸洪濤が
暫行護理)
次代
陸洪濤
先代
靳雲鵬
陸軍総長
1921年5月 - 12月
次代
鮑貴卿
先代
陳光遠(江西督軍)
江西督理
1922年6月 - 1924年12月
(正式就任は1922年9月)
次代
方本仁(江西督弁)